電話ボックス
埼玉県の北部、市街から離れた山の小道を10kmほど進むと、落石注意の看板のすぐ後ろに古びた電話ボックスがある。世間ではあの世につながる電話ボックスと恐れられ、電話を取ると死者に繋がりあの世に連れて行かれると言われている。三浦明子は母親の車を借りてその山に向かっていた。
父親が亡くなって2度目の命日を迎えた朝、明子は早くから墓地に向かっていた。道中、雪かきをする青山さんと会った。
「明子ちゃんおはよう。今日は仕事は休み?」
近所で一人暮らしをする青山さんは明子に気前がよく、いつも嬉しそうに話してくれる。
「今日は父の命日で、母のこともあって休んだんです」
明子の母は父が亡くなって以降病弱になった。もともと体は弱かったが、一日中外で動くことができずすこし畑仕事をするとすぐ寝込んでしまう。
「あらそう、あれからもう2年だったかしらね。」
手に持っていたスコップを下ろすと、青山さんは遠くを見るようにつぶやく。
「大変だったわね、当時は明子ちゃん、まだ高校生だったわね」
「そうですね」
「お父さん、工事のパイプに当たっちゃったんだっけ?本当に、人がいい方だったのにね」
2年前、いつものように出勤した父は工事現場のすぐ横をとおり、クレーン車の過失運転で落下してきた廃材のパイプの下敷きとなって亡くなった。
当時高校3年生だった明子は、父と最後に交わした会話すら覚えていない。それゆえ尚更父が亡くなったという実感が薄い。
同日夕方、母の車で買い出しをしてきた明子は、母から借りた車で帰路を走っていた。ふと、ラジオからの会話に耳を傾ける。
「ラジオネームみきおさん。友人の実話です。松山の奥の山道をずっと登ったところで急遽職場に連絡しなければいけなくなり、電話の充電が切れていたので近くの電話ボックスに電話をかけました。すると聞こえてきたのは女の声。助けて・・・という声でした」
よくありそうな心霊話だが、興味がわいたのはその山が明子の実家から近いからだ。
「後日知り合いに話したところ、その電話ボックスはあの世につながっていて、死者と話ができるそうです。別の知人はあの世に連れて行かれるとも言っていましたが、僕はその後は何もありませんでした。もう二度と近づきません」
いやー怖いですねーと適当な反応をするリスナーの声を、明子は神妙な顔で聞いていた。
死者と話ができる。その言葉が妙に引っかかる。
そのまま車を走らせると、例の山が見えてきた。
気づくと明子はその山に向かってまっすぐ進んでいた。
車を降りて小道を登ると、昼間にもかかわらず道が急に暗くなった。奥に進めば進むほど、闇が深くなっていく。明子は踏み出す足に力を込めた。ここで引き返すわけには行かない。
自分でもどうかしているとは思った。所詮はラジオの噂話。さっさと受話器をとって、何もなければすぐ帰ろう。息が切れるのに構わず、明子は坂道をどんどん登った。
やがて、落石注意の看板が見えてきた。長いつたが巻き付いている錆びた看板のすぐ後ろに、それはあった。煤けたガラスと外から見てもわかるくらいの埃にまみれた電話ボックス。
明子は目の前に来て立ち止まった。日が傾いてるはずもないのに、あたりは暗い。2月の寒風が頬に刺さる。
汚れた取ってをひくと、耳障りな音を立てながら電話ボックスが開いた。空気がこもっており中は息苦しい。酸素が薄いだけではなく、何か陰気な雰囲気すら感じられた。
本当に、なにかあるのかもしれない。
周囲を見渡し、誰もいないことを確認するとそっとドアを閉めた。
緑の公衆電話はところどころ錆びており、受話器はベタつきすらある。テレフォンカードの残高を示す表示画面は動くのかもわからない。小銭の投入口はガムテープで塞がれている。
深く深呼吸をすると、受話器をそっと取り上げた。
耳に当てると、テレビの砂嵐のような音が遠くから聞こえる。明子の心臓が速る。しかし20秒ほど待っても砂嵐はやまない。
このままでは、あの世につれていかれるのか。
寒さのせいか、緊張のせいか。手が震え始める。
「オペレーターにつないでおります。」
「・・・え」
日常でよく聞く自動音声の声が聞こえてきた。何も番号を押していない。突拍子のない応答に思わず声が漏れる。
「もしもしー?」
若い男性の声だ。いや、これが噂の幽霊なのだろうか。これが私をあの世へつれていくのだろうか。
緊張で声が出ないところに、男性の声が続く。
「あれ?もしもしー?」
「も、もしもし」幽霊に応答してしまった。受話器のベタつきと手汗が混じって、力を入れないと受話器を落としてしまいそうだ。
「ああ、コジンのお問い合わせの方ですかー?」
「・・・・は?」
「あれ、いたずらの方ではないですよね?」
言っている意味がわからない。しかし「いたずら」というのは例の噂話のことだろう。それが分かると、最初は「個人」と聞き取っていた言葉が「故人」ではないかと察した。
「亡くなった方へのお問い合わせですか?」
「は、はい」
「ああ、よかった。ここ心霊スポットとして有名だから、たまにいたずらでかけちゃう人いるんですよね。砂嵐とか強めのモスキートとか女の声とか、いろんな音声流して追い払ってはいるんですけど。」
ラジオの話は本当なのではないか。飄々と話す男性が、急にマニュアルのような読み方を始めた。
「こちらでは亡くなられた方への通話サポートをしております。お繋ぎしたい故人のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか。」
半信半疑の明子は、ひとつも聞き落としがないように受話器を両手で抱えた。
「あの、そちらは天国なんですか?」
男性は首をひねるかのように「うーん」と言う。
「天国、って言葉はそちらではメジャーですよね。正確にはこちらが現世なんですが。まあそちらの世の次の段階の世界ですね」
言葉の意味がわからなくて応答に困る。
「まあ簡単に言えば死後の世界ってことです」
「あの、本当に電話できるんですか?」
何か作業をしながら「まあ最初は信じがたいですよねー」と軽く答えられる。背後からほかにも電話音が聞こえる。日常的なコールセンターのようにも感じられる。
本当に、電話が出来るのなら、少しでも声が聞きたい。
ひと呼吸おいて明子が受話器に話す。
「・・・三浦壮平さん。おつなぎできますか」
男性は明るい声で「確認いたしますので、ソウヘイ様の命日を生年月日でお答えください」という。
「平成28年2月4日です」間違えないように慎重に答える。手が震えている。
男性は「かしこまりました、お繋ぎしますので少々お待ちください」
男性の声が切れる。すると音楽が流れ始めた。葬式に流れるようなしんみりとした曲ではなく、普通の保留音楽だ。しかも「G戦場のアリア」。
聴き慣れたクラシック音楽を聴きながら、徐々に平静を保つ。
こんなことはありえない。きっといたずら電話だ。なにかの拍子でかかってしまった。
このまま電話を切って、家に帰ろう。外も暗くなってきた。
「もしもし」
受話器を落としそうになった。息が吸えない。
「・・・明子」
懐かしい声。小さい頃、毎日帰宅前に必ず電話をかけてきた、あの声。大きな地震があった時に、一番早くに家に電話をかけてきた、あの声。
「明子」
「お、お父さん」
声を出すと、目頭が急に痛くなってくる。
「おう、久しぶり」
上手く声が出せない。夢だろうか。早く、帰ろう。母が待ってる。
「明子?」
怒ったときに娘の顔色を伺う時の声。思春期の娘の扱いがわからなくて言葉に詰まった時の声。
お父さんだ。
「お父さん」
喉を抑えて声の震えを堪えるが、涙が途端に溢れてくる。
「明子」
「ばか・・・」
最初に出た言葉は、会いたかったとか、好きとか、嬉しいとか、そんな言葉じゃなかった。
父はしばらく言葉に詰まり、それから苦しそうに言う。
「ごめん」
なにがごめんよ。
「なんで、あの日、工事現場の方の道を歩いたの。」
遠回りして、出勤すればよかったのに。
「ごめん」
「もっと周りに、注意して歩いてよ」
口うるさく安全第一って言ってたのに。
「ごめん」
「ばっかじゃないの、家族みんな、置いていって」
だんだん声が大きくなる。いや、大きく息を吸って吐かないと、声が出ない。
「・・・・ごめん」
「ごめんごめんって」
息が詰まる。立っているのも辛い。
「ごめんって・・・・そんなこと言ったって、もう」
「明子」
「帰ってきてくれないじゃない!」
「・・・愛してる」
声が出ない。涙が止まらない。嗚咽を抑えながら、大きな声で叫んだ。
「大っきらい!」
ぷーっと音が聞こえる。現実味のある自動音声が聴こえてくる。
「ご利用頂きありがとうございました。天界通話会社の今後の業務改善に役立てたいので、アンケートを実施しております・・・」明子はその場で崩れた。
お父さんに会えた。胸が締め付けられる。懐かしい声に鳥肌が止まらない。お母さんに、伝えなきゃ。ここに来たら、お父さんに会える。
でも、お母さんが電話したらまたふさぎ込んでしまう。父が母を、引き止めてしまう。
ゆっくりと立ち上がり、重いドアを開けた。新鮮な酸素が肺に入ってくる。
見上げると、日が沈んでいた。ここについたのは夕方3時頃。電話ボックスの中と外では時間の進みが違うのかもしれない。
でも、明子には視界が明るく見えた。何かを得たわけでも、何かを捨てたわけでもない。ただ、ちょっと、懐かしい安堵感を取り戻した。今日あったことは誰にも言わない。
軽い足取りで小道を引き返す。電話ボックスの方は二度と振り返らなかった。
もうここには来ない。でも、何かあった時になら、いいよね。お父さん。