18 知らないところの卒業式
18 知らないところの卒業式
突発的にスタートさせてしまった放浪生活も限界を迎えていた。精神的に辛いのももちろんだったが、いよいよ体力に自信がなくなってきた。こうなってくると、ときどき思考が四方に飛んで行ってしまい、自分でも何を思っているのか、何を見つめているのかわからない状態に陥ることがある。今のエリックにとって、自らの思考だけが頼りだった。その思考がうまくいかないとなると、本当に放浪している人間だ。この世界に自分の身を漂わせているだけの意思のない肉の塊ということになる。もしかするとそこまで極端な話ではないかもしれないけれども、とにかくエリックとしては、あらゆることを考え続けることで何とか自我を保っているという感じだった。何にせよ早く区切りをつけなければならない。区切り――果たしてそれがどんなものになるのか、エリックは想像しても想像しきれることのないこの巨大な謎にある種の憧れ、崇拝したいような気持をいつしか抱くようになっていた。もしくはそんな感じには全然なっていなかったかもしれないが。
目の前に一台の車が止まった。レクサスだ。運転席の窓が開いて中からサングラスをかけた男が話しかけてくる。「兄ちゃんどこに行くんだい? もしどこか行きたいところがあるなら乗せていってあげようか? 私はお金があるんだ。私はお金持ちなんだよ。仕事も当然しているけれども、週休三日くらいだし、出勤もほとんどしていない。自由自適に暮らしているんだよ。だから余裕があるんだよ。さあ兄ちゃんどこに行くんだい? どこか行きたいところがあるというのならば、遠慮しないで言ってくれ。どこへでも連れて行ってあげるよ? このレクサスには今私一人しか乗っていないんだ。だから心配しないでくれ。お兄ちゃんの乗る席はちゃんとあるんだよ。私の隣でもいいし、後ろのシートに乗ってくつろいでくれてもかまわない。自由にくつろいでくれてもいいんだよ」
「結構です」エリックは言った。「そんな車に乗せてもらうなんてできませんよ。そんなことおこがましすぎて僕にはできません。それに僕は今行きたいところなんてないんですよ。行きたいところなんてないからこうしてずっとふらふら歩いているというわけなんです。ですが確かにもうそろそろそれも限界のようです。僕はもう今しんどくてしんどくて、だんだん自分が自分でないような感覚にさえ陥っているのです。目に入るものすべてが痛々しくてね。もうどうにもならないんですよ。そうですね、どこか行きたいところでですか。行きたいところに行ったところで、どうせ今の僕にはお金がありませんしね。ただ行きたいところに行ってもそこを眺めて帰ってくるだけで終わってしまうことでしょうね。行きたいところがあるというのならもうとっくに自力で向かっていますよ」
「本当にどこか行きたいところはないのか?」男が問い掛けてくる。「そうするとじゃあ君はどうして歩いているんだい? どこへ向かうつもりであるいているんだろう。どこへも行かないつもりで歩いているのかな? しかし歩いているということは、やっぱりどこかへは向かおうとしているんじゃないのかね。そうじゃないとそもそも歩き出したりはしないだろう。君だってまさか生まれたときから歩いていたわけじゃないはずだ。歩き始めたタイミング、理由というものがあったはずなんだよ? 私はお金持ちだ、もし君に何か協力できることがあるのならばぜひ協力してあげよう。お互い困っているときには助け合ってこその人間だ」
「歩き始めた理由ですか?」エリックは言った。「そんなものありませんよ。そんなものはこれっぽっちもありませんね! たとえそんなものがあったとしても、僕はもうすでに忘れてしまっていることでしょう。少なくともあなたにお教えするようなものはないんです。お金持ちだと言いましたね? 今あなた自分のことをお金持ちだとおっしゃいましたね? だとしたら私をどこかおいしいレストランに連れて行ってください。ご飯をたらふく食べられるところならどこでもいいんです。おいしいご飯屋さんに連れて行ってくださいよ。そしてそこでの食事代も出してください。そこでの食事代もおごってはくれませんかね。そうしたら私はささやかな幸せを手にすることでしょうね。こんなに気持ちがイライラすることもなくなるかもしれません。そして歩くことをやめ、家に帰り始めるかもしれません。それが私の周りの人間たちにとっても幸福なことかもしれませんね。なのでどうでしょう。本当にいかがですかね。私にご飯をおごるというのは? お金持ちのあなたであればそこまで不可能なことではないでしょう。一人の人間のご飯代を出すくらいきっと何でもないはずだ」
「よろしい!」男が言った。「では行こう。ではおごらせてもらおうじゃないか。なんといっても私はお金持ちだからね。真のお金持ちだからね。だから確かに君の食事代をおごるくらいなんでもないよ。ちっとも痛くもかゆくもない。ちゃんと行きたいところがあるじゃないか。君にだってちゃんとこうして行きたいところはある。それはご飯屋さんだ。君は今何かしらの理由でご飯をたらくふ食べたい気分なんだろう。そういうときはある。人間には、生きていればそういう瞬間というのは訪れるものだ。今なのだ。君は今きっとかなり強烈にご飯屋さんに行きたいのではないのかな? そこでたくさんご飯を食べたいのだろう。いいだろう! 連れて行ってやろうじゃないか。私はお金持ちだからね、今の君にぴったりな感じのご飯屋さんももちろん知っているのだよ。だから何も心配しなくていいだろう。移動手段は私の車でいいかな? このレクサスで問題ないかな?」
「もう放っておいてくれ!」
道を歩いていると急に声をかけてきたこの謎の男。この謎の男との会話の流れで、彼の車に乗ってご飯屋さんに行きご飯をおごってもらうような感じになったが、エリックはこの一連の流れに対して唐突な拒否を表明した。このまま何も言わなければ、エリックは男のレクサスに乗せられてどこかのご飯屋さんに連れて行かれてしまうことだろう。本当にご飯屋さんにたどり着いて、そして男が本当に金持ちだったら、そこではもしかすると幸福な時間を過ごせるかもしれない。だがそれはエリックにとって受け入れがたいものだった。そんなことをして何になるのかという問い掛けが彼の中で発生してしまったのである。つまり一時だけ幸せになってどうするのかと。こうなると彼はそれに対する答えを何も持っていないので、見事に身体的な欲求と精神的な欲求のズレを生み出すことになった。というか知らない男の、見ず知らずの何の面識もないおっさんの車に乗せられてしまうなんて信じられないことだった。そんな出来事って起こっていいものなのだろうか。何か変な意地でもなけりゃ成立しないことなのでは? だからいくら自分がやつれていても、精神的にも身体的にも疲弊しきっていたとしても、それをやったらもう世界はおしまいだ、この世界はもうぐちゃぐちゃだ、あくまでも俺は自分の足で歩くんだ、歩いて歩いて拒否するんだ……
エリックは気が付くと駆け出していた。よく駆け出せたもんだ、と自分でも思ったほどだったが、このあり得ない男のテリトリーから早く逃げ出したかった。道を外れてとうとう山道へと突入してしまった。もうわからない。ここがどこなのかまったく見当もつかない。急な山道だ。だがとにかく歩き続けなければ、下山というものをしなければ命の危険が常にあることだろう。こんな時期に山道で迷ってしまったら、それはすなわち死だ。死を意味するに違いない。死にたいか? 死にたい――初めて出てきた言葉だ。俺は歩くことを決めはしたが、それは死にたいという気持ちからそうしたのではなかった。むしろ解説させてもらうとまったく逆の感情だろう。違和感のなるべくない生を獲得したいという気持ちが俺を歩かせたに違いない。しかし今になってみてこの変な感じは何なんだ! 本当に目に入るものすべてが痛々しいし、結局この世界で起こる出来事も、自分で処理できないもの以外は拒否する体勢に入っている。俺は一体何がしたいのだ。高校だ! 俺はただ無事に高校を卒業したいだけなんじゃなかったのか。それがいつの間にかこんなことになっている。こんなわけのわからないことに! 誰なんだ、何なんだ、果たして何のせいで俺は今こんな事態に陥っているんだ。本当なのか? 本当のことなのか? 俺が今こうして一人で放浪しているなんて、マジで現実の世界で起こっていることなのだろうか。誰か答えるものはいないか。さあ、誰かこの問いかけに答えるものはいないか!
まったく見たことのない校舎が見えてきた。中学校なのか高校なのか、遠目ではよくわからなかったが、しかし山の中からだと体育館の様子がよく見えた。興味があったので近づいて行ってみる。何やらそこの学校の生徒たちが体育館に一同に集まって何か催し物を
しているようだった。「卒業生」という言葉と、賞状を次々に受け取る生徒たちの姿が見えていた。これは……この光景には見覚えがある。これは、確か俺が中学のときにもやった、中学を卒業する生徒たちに向けて開かれる最後の式――卒業式ではないかな! エリックはその場に崩れ落ちたい気分になった。終わった。これでもう俺の高校生活も終わった。確かにここの学校の卒業式は俺には関係のないものだが、時期的に考えてきっと俺の通っていた高校でも今日が卒業式の日取りになっている可能性が高い。俺は卒業式の前に放浪をはじめてしまったからその式には参加できていないが、今頃クラスメイトたちだった奴らは卒業式に参加していることだろう。俺はどこの学校の卒業式を見ているのだ。だが終わった。本当にこれで終わった。俺は今日を持ってして間違いなく卒業してしまったことだろう、高校を! 今までの生活を!
エリックは最後まで自分の知らない学校の卒業式に山側から傍観者として参加した。もうその場から動く気力さえなかったとえいばなかったのだが、目を閉じないでいると、嫌でも卒業式の光景が目に入ってくる。泣きくずれる生徒たち、感動で涙をぬぐう保護者たち。それを静かに見つめている学校関係者。だがエリックは密かに今だと期待していた。今この他人の幸福の渦巻いている瞬間。そしてその渦とはまったく関係のないところに立っている自分が、果たしてどのような結論に至るのか。これにエリックは自分自身で注目していたというわけなのである。式が無事に終わって体育館の戸締りが開始された。おばちゃんの先生みたいな人がめっちゃつま先立ちをしながら二階のカーテンを閉めている。エリックはその様子さえも見届けようと思えば見届けられることを発見した。式が始まり式が終わって式の終わったあとが続く。そこに明確な区切りはなかった。




