5・空腹は最高のスパイス
前話のあらすじ「助かったけど先行きが真っ暗」
悟は目を覚まして安堵した。目の前の景色が多少なりとも見覚えある景色だったからだ。
どうやら相当熟睡していたらしい。頭の中がびっくりするほどすっきりしていた。ほんの数時間とはいえ、見ず知らずの森の中に身一つで放り出されたストレスはよほど悟には負担だったようだ。左手で目をこすろうとして、肩の痛みに身悶えた。
ゆっくり体を起こして周囲を見渡す。推定少女の姿はなかった、が下から物音が聞こえる。推定少女のたてる音なのか、それとも他の同居人がいるのかは判別できなかった。
あらためて部屋の中を観察すると、ここは恐らく物置のようなところなのだろう。雑多な代物が部屋の隅に積み上げられていた。水差しが置いてあった机は、実はただの木箱であり、しかも自分が寝ていたベットは、古い大きなテーブルに毛布を敷いてベットの体裁を整えたもののようだ。物置と言うと埃が酷いイメージがあるが、あまり埃立っているようには見えなかった。部屋の荷物も整然と整理して積み上げられている。
部屋を出て推定少女に声をかけにいこうとベッドから足をおろして、すぐにやめた。力が入らない。足を踏ん張ろうとしたら、膝からカクンと力が抜ける感じがして、このままでは転ぶと咄嗟に判断して慌ててベッドに座りなおした。どうやら血を流し過ぎたらしい。思えば肩に大穴を三つも開けてぎりぎり助かった直後なのだ。すぐさま元気に動くのは無理な話である。しばらく寝たままで過ごすべきなのだろう。
水差しの水が補充されていたのでありがたく頂いた。また一気飲みしてベッドに横になる。やることもなく手持無沙汰であるが、ほんの少しでも動くと肩がジンジン痛むので大人しく寝ていた方が良い。どうせならもうひと眠りして現実逃避したいところだが、目が冴えてしまってしばらく眠れそうになかった。
どうしてこんなことになっちゃったんだろうなぁ……。
悟は横になりながらとりとめもないことを考える。正義感と投げ槍な気持ちで己が命を捨てて子供を救った。あの子は無事だろうか? どこまで歩いても変わらない森の景色。とんでもない化物に見つけたこと、そして見つかったこと。羽豚を真正面から睨み合ったときなぜか心が落ち着いていたこと。爪が刺さったときの激痛。助けられたこと。
コンコン、という音に驚いた悟は、ビクッとすると同時に顔をしかめた。肩の傷が痛い。なんとか我慢してノック音に返事をする。
「起きてます、入ってください!」
扉を開けて推定少女が顔を見せた。こちらが起きていることを確認して、右手で左手を摘まんで引きちぎる動作をした後、その右手を口元に持っていって口をパクパク開け閉めした。
何か食べるか? ってジェスチャーかな?
「あ、食べます。食べたい、ご飯、お願い!」
悟も似たような動作をしたあと頭を下げたり片手で拝んだりした。何度かしているうちに推定少女も理解したらしく、ドアを開けたまま廊下へ消えていった。
しばらくして廊下から良い匂いがしてくると同時に推定少女が皿と籠を持ってやってきた。悟は気を利かせて水差しを別の場所に移動させると、推定少女はその空いた木箱の上に皿と籠を置いた。皿の中身は透明なスープと煮崩れしている野菜が入っていて、籠の中は黒く焼き固められたパンだった。
推定少女が手の平を上にしてこちらに差し出した。たぶん、食べて良いよ、の合図なのだろう。また何か違和感を感じたが、腹の虫には勝てなかった。悟は空腹に突き動かされるようにして真っ先に黒パンに手を伸ばした。
硬っ!
あまりの固さに歯が通らなかった。これは本当に食べ物なのか、と疑問に思った悟だが、そういえば昔のパンは固かったとか聞いたことを思い出した。現代日本で当たり前のように食べられるふわふわしたパンはイースト菌があるからだとかそんな話を聞いたことがあるが、パンについては詳しくないのでよくわからなかった。
仕方ないのでスープに手を伸ばす。食器がなかったので行儀は悪いが皿から直飲みする。スープは塩気が凄く薄かったし、野菜も少なくて淡泊な味だった。でも森の中で疲れ切ったあとに久しぶりに食べる食べ物の味で、びっくりするほど美味しく感じられた。一気に野菜ごと飲み込んだ。
スープは美味しかったのでおかわりが欲しかったが、言葉が通じないため諦めて黒パンにとりかかる。頑張って奥歯の方で齧ればなんとか噛み千切ることができた。口の中で噛んで柔らかくするのも大変だったが、空腹で野性児のようになっていた悟には苦行ではなかった。むしろ喜々としてパンを引きちぎり、ガリガリと何度も噛み、そして飲み込んで行った。
二つ目のパンを取ろうとした際、推定少女の様子に気づいた。鼻から上は見えないが、なんとなく眉根を寄せているような気がする。こちらの食べ方が不快だったのかな、と悟は気づいて、慌てて感謝しようとする。
「スープ、パン、美味しかった、ありがとう」
空になった皿と2個目のパンを指差したあと深くお辞儀をする。伝わったかどうかはわからないが、悟はそんなことよりパンを食べたかった。推定少女の表情は相変わらず読めなかったが、再度手の平を上にして食事を勧めてくれた。
そして、その時、ようやく気付いた。
悟は驚愕に目を見開いた。だが声を出すのを我慢して「ありがとう」と言葉と引き攣った笑顔で示して食事を再開する。だが先程までの勢いはない。何とか2個目のパンを食べ終わって両手を合わせ……ようとして肩の激痛により右手のみで「ごちそうさま」と呟いた。
推定少女にもういらない旨をどうやって伝えようか考えていた悟は、ふと推定少女はこちらを見ていないことに気付いた。パンを片手に持って何やら考えている様子だった。
「……الخبز」
相変わらず何を言っているのかわからない。ただパンを指差しながら何度も同じ単語を繰り返しているようだった。最初は何をしたいのかわからなかったが、ハッと気付いて推定少女の持っているパンを指差し答えた。
「パン」
推定少女は伝わったことに満足しつつ、次は籠を指差し「سلة」と言った。悟も合わせて「籠」と答えた。次に皿を指差したので「皿」とすぐに答えた。少女はふんふんと頷きながら皿と水差しを持って、足早に部屋から出て行った。
悟は推定少女を見送ると、そのままベッドに横になった。籠の中にはパンが2個ほど残っていたが、手を出す気にはなれなかった。まだ空腹を感じているとはいえ、もうこれ以上あの硬いパンとの格闘をする気にはなれなかったのだ。水差しが戻ってきたら、今度は水でふやかしながら食べてみようかなと悟は考える。
ただ悟は心臓がバクバクしつつも落ち着いているという変な状況になっていた。先程気付いたことにより、自分が置かれた状況の一端が、もしかしたら、わかったかもしれないからだ。
交通事故から急に森の中へ移動したこと。少なくとも日本にはないと思われる巨木の数々。見たことも聞いたこともない羽の生えた凶悪面の豚。そして推定少女の手……。
もしかしたら、ここって……。
次話「コミュニケーションをとろう(王道編)」