3・こんにちわ異世界、さようなら命(後編)
前回のあらすじ「森で迷ったらなんか見つけた」
それは大きな羽……に見えた。
鳥の羽に詳しいわけではないが、なんとなく鷲の羽のように見えた。文鳥や鳩のように綺麗な羽ではなく、野生の動物がもつ力強さを感じる翼だ。
その翼の先端が一瞬だけ見えて、すぐ木の裏側に隠れて見えなくなった。羽を折りたたんだのだろうか。先ほどまで背後にいる何かに対して恐怖を抱いていたが、羽を見たせいで疑問がわいて恐怖が少し薄らいだ。
え、熊に羽が生えているの?
背後にいる何か……仮に熊ということにしておこう……熊の姿は見えていないけれど、羽の根元の場所を推測すると、どう考えても熊の背中から生えているようにしか思えなかった。熊が鷹を襲って食べている可能性も一瞬考えたけれど、それもまた違う気がした。謎である。
でも熊に羽が生えているわけがない。そんな熊いたらどこぞの動物園のパンダも真っ青の人気者になれるだろう。羽の生えた大型動物、というと真っ先にグリフォンが思い浮かんだが、これもない。グリフォンは神話に出てくる想像上の生き物だ。現実にいるわけがない。
冷静に考えれば、このまま木の根元に身を潜めて相手が去るのを待つべきだったのだろう。だが度重なる混乱と心身ともに疲れ切った悟は、ほぼ思考停止の状態だった。羽の生えたよくわからない動物がいるということに少しだけ、本当に少しだけ好奇心がわいた。わいてしまったのだ。
悟は先ほどより大きく身を乗り出した。音を立てず気づかれないようにそおっと。左手側に少しだけ見えていたお尻から腰まで見え、太い前足が見え、背中が見えてそこに羽があることを確認して驚きつつ、そしてそいつと目が合ってしまった。
過去の偉人はこう言いました。好奇心ネコを殺す、と。
あまりにびっくりしたので、心臓がバグンと物凄い音を立てて鳴った気がした。
身を乗り出し過ぎた悟の目の前に、熊モドキの顔があった。そしてその鋭い目は突然現れた悟の顔を凝視していた。
熊モドキの顔は、なんというか、豚に似ていた。ただし、ちょっと間抜けな感じの豚の顔ではなく、精悍な顔つきというか、ライオンでも食い殺しそうなほど凶悪な面構えをした豚だ。劇画調で戦う豚を描いたらこんな顔になるかもしれない。
その、ただの豚相手だったら一噛みで嚙み千切りそうな牙と、睨んだだけで家畜の豚を即死させそうな目で、羽豚は悟を見ていた。よく見ると口元が血に塗れている。どうやらお食事中だったらしい。何を食べていたのかまではこちら側からは見えなかった。人間じゃないと嬉しい。
悟と羽豚との距離は2メートルほど、文字通り目と鼻の先だ。羽豚もこんな近くに別の生き物がいたとは思っていなかったらしく、困惑している様子だった。
羽豚は少しだけ距離をとりつつ羽を大きく広げて唸り声をあげた。威嚇しているのだろう。すでに恐怖やら後悔やらで混乱の極致にあった悟にはあまり効果はなかった。あったところで今と変わらず、腰を抜かしたまま呆然としていただけだろうが。
ああ、これは食べられるな。もはやこれまでと完全に自分の命を諦めた。死んだふりをしたところで見逃してもらえそうにも思えない。どう足掻いても死は確実だろう。生きたまま食べられるのって痛いのかな、と見当違いの心配をしていた。
羽豚もすぐに気づいたようだ。こいつは敵ではなく、餌だと。羽を畳み、一瞬だけ全身のバネを絞ると、全身で悟に伸し掛かってきた。
幸か不幸か、そのとき羽豚の左側にあった巨木の根にその左足の爪がぶつかって悟の体に直接は当たらなかった。羽豚の突進の軌道がほんの僅かにズレて、右足の爪だけが悟の体にぶつかり、その意外と短いツメが悟の左肩に突き刺さった。
「いたっ!」
激痛が走る。悟の左肩に三本の爪が深く刺さっていた。特に一番大きな爪は、悟の肩を半ば切断するくらい深く刺さっていた。視界が痛みで真っ赤に染まる。
羽豚はすぐ噛みついてトドメを刺そうとしてきた。しかし、あまりの痛みに左肩を抑えようとした悟の右手が、運よく羽豚の目に当たって羽豚は怯んだ。同時に羽豚の左足に圧力がかかり激痛に悟はうめき声をあげる。
悟は必死にあらがう。車に轢かれるときは死んでもいいやと思っていたくせに、あまりの現実的な痛みと食べられるという被捕食の恐怖から逃れようとする。
痛い、痛い、痛い、重い、苦しい、死にたくない。
悟は羽豚の首元に右手をおいて顔を遠ざけようとする。羽豚の力や重量を考えれば全く意味のない行為であったが、そんなまともなこと考えられない。ほんの少しでも死から遠ざかりたい。
痛い、痛い、重い、痛い、臭い、怖い、痛い、食べられたくない。
左肩に刺さる3本もの爪がとにかく痛い。少し羽豚が動くたびに新しい激痛が走る。羽豚の憎悪の目が怖い。ほんの少し手が当たっただけなんだからそんな目で見ないでくれ。血塗れの口から漏れる吐息が果てしなく生臭い。こんな口の中に齧られたくない。
助けて、助けて、誰でもいい、助けて。
悟の涙は止まらない。もう羽豚の口は目の前だった。自分の寿命は1秒もしないうちに尽きる、そう確信する。誰かに助けてほしいが、こんな森の中に人なんていない。
羽豚の口が迫る。
死にたくない。
どこか遠くで人の声が聞こえた気がした。
…………
(間に合わない!)
アイツァは焦って森の中を走る。勝手知ったる森の中であるが、小柄なアイツァは走るのが遅い。風の魔術を身体に纏っているためツタや枝葉は気にならないが、それでも遅い。
人間が結界内に入ったのはすぐ感知していた。この隠れ家の近くに人が来るのは相当珍しいが、それゆえに急いで"挨拶"しに行く必要があった。迷い人なら案内して外に追い出さなければならないし、こちらに害意ある不埒者には相応の"挨拶”をしなければならない。
どうやら迷い人であったようだ、とアイツァは安堵する。対人用の魔術具は効果的なものばかり用意した半面、あまりに効果的過ぎて、晩御飯が食べれなくなる光景を作ってしまうことがある。迷い人なら脅しつつ食料を少し渡して追い出せばいい。
それにしてもなんとも間の抜けた迷い人だろう、とアイツァは呆れた。仮にも死の樹海と名高いレーテの森で何の準備もなく爆睡しているのだから。
迷い人の背後にグレーターブラントがいることにすぐには気づけなかった。迷い人がグースカ寝てるすぐ隣にそんな凶暴な魔物がいるなんて思わなかったためである。迷い人が起きてグレーターブラントに気付いたときに、同時にアイツァも凶悪な魔獣の存在に気付いて焦った。
助けるべきか、見捨てるべきか。
今の装備では中型の魔獣ならともかく、大型魔獣でしかも空を飛ぶこともできるグレーターブラントを相手にするのは厳しいものがある。知らない人間を助けて自分が傷つくのなんて馬鹿馬鹿しい。だが見捨てるのも後味が悪い。アイツァは一瞬だけ迷い、その一瞬の迷いが致命的だった。
急いで走って近づいたが、距離があったため近づくのに時間がかかる。魔術の効果範囲内に入らなければさすがのアイツァもどうしようもない。手持ちの魔術具のうち最も強力な術式を起動させつつ、しかし迷い人が食われる方が先であろうと半ば諦めていた。
(ごめん、もっと早くに気付いていれば……)
魔獣が迷い人に襲い掛かり、噛みつこうとする。魔獣が一瞬怯んだように見えたが、すぐにまた噛みつこうとするのが見えた。あの牙を体に受けて無事な者はいないだろう、とアイツァは目をそらす。
ブシュッ、と思っていたより大きな音がした。
アイツァは心の中で謝罪しつつ、撤退しようとした。今の装備ではこちらもやられる危険性があったからだ。踵を返して距離を取ろうとしたアイツァだが、ふと違和感を覚えて魔獣のほうを見た。
グレーターブラントの首が転がっていた。
アイツァは混乱した。何が起こったのか。迷い人が魔獣の首を落としたのか? だが迷い人は無手だったし体勢も悪かった。魔術を使ったのか? だがグレーターブラントの首を真っ二つにするような魔術なんて大規模儀式が必要な魔術以外聞いたことがない。
慌てて駆け寄る。グレーターブラントの首は綺麗な断面を見せており、どう見てもそれはただの死体だった。死体になってもなお恐ろしい魔獣の頭から目をそらしつつ、迷い人のほうを見た。
「大変!」
グレーターブラントに押さえつけられていた迷い人は、その巨体の首なし死体に伸し掛かられていた。こんな重いものに押し潰されていたら、健康な人だって死んでしまう。遠目では見えていなかったが、左肩に爪がぎっちり刺さっており、出血も酷かった。急いで治療しなければならない。
アイツァは急いで土の魔術具を起動して死骸の周辺の土を操作する。ぐにぐに動く土をうまく使ってグレーターブラントの死骸をどけた。そしてすぐさま水の魔術具を使い、爪を引き抜くと同時に傷口から溢れる血を凝固して止血した。これで少なくとも失血死はしないだろう。
アイツァは一息ついて、これからどうしようか考えた。迷い人は森から追い出すのが基本だが、こんな死にかけを見捨てるほど非情にはなれなかった。かといって自分の工房に人を招き入れるのもよろしくない。師匠に怒られる。
さんざん悩んだ挙句、グレーターブラントの死骸をチラリと見て、アイツァは諦めたように呟いた。
「……グレーターブラントの新鮮な素材一式と引き換えにあなたを保護します。異論はないですね?」
気絶している迷い人に異論はないかどうかを聞いて、異論はないことを確認したのちに土の魔術具を再度使用して迷い人の体を運ぶ。グレーターブラントの死骸は、少しくらい置いておいても大丈夫だろう。
アイツァはぐにぐに動く土に運ばれていく迷い人に何か不自然なものを感じながら、ため息をついた。
「面倒なことになったわ……」
次回「異文化交流って大変だね」