2・こんにちわ異世界、さようなら命(前編)
前話のあらすじ「車にひかれかけた」
「え?」
目の前に広がる景色に、金井悟は大いに戸惑った。
車に轢かれる、次の瞬間に自分の体は吹っ飛ぶ、と覚悟して目を閉じたものの、その衝撃はいつまでたっても訪れなかった。10秒くらいだろうか、何も起きないことを不審に思って目を開けると、地面がコンクリートではなくむき出しの土になっていた。それだけでなく周囲を見渡すと鬱蒼とした森が広がっている。
真っ先に思いついたのは、自分は夢を見ているのではないか、という考えだった。あまりに動揺していて心が浮足立ってしまっている。このふわふわした感じは確かに夢の中のことのようにも思えるし、だがじっとりと湿った空気や何かの鳥の鳴き声は現実のものにしか思えない。
地面の土を触る。本物だ。都会ではそうそう見かけない生の土。しかも学校のグラウンドや公園の土のような、なんというか綺麗な土ではなく、水がじっとり染み込んでいて栄養素の多そうな野生の土の感触だった。とても手が汚れそうだ。
もう一度周囲を見回す。木、木、木、木、木……どこを見回しても樹しかない。それも両手で抱えきれないくらいの太さの大木ばかりで、二本の大きな木が根元で捩じれあっていたり、電車を縦に置いたかのような太い木もあった。木というより樹だ。樹齢何百年もありそうな大木が視界を埋め尽くす勢いでそこらじゅうに立っている。
まだ半分夢の中にいるような気分で立ち上がろうとして、尻餅をつく。腰が抜けていた。そういえばさっき車に轢かれそうになっていたんだなー、と他人事のように思い出す。自分が現在いる場所があまりに突拍子もなくて、何もかもが現実感がなかった。
近くの樹を支えにしつつゆっくり立ち上がる。そして途方にくれた。こんなのどうすればいいんだ。自分がどこにいるのかわからず、そしてどこへ行けばいいのかもわからない。確認しようにも何をどうすればいいのかもわからず、きょろきょろ周りを見回すことしかできない。
「大声で助けを呼ぶとか? 人がいるとは思えないけど……参ったな、方位磁石なんて持ち歩いてないよ……」
と、そこで携帯電話は持ち歩いていることを思い出す。現代社会の最高便利ツール、スマートフォン。後ろのポケットから取り出して電話をかけようとする。一番頼りになる叔父にかければ何とかなるのだろうか、それとも事故直前だったわけだし119?
「って、圏外に決まってるじゃん!」
無慈悲なり情報化社会。どう考えても森のど真ん中にいてネットや電話が繋がるわけがない。インターネットに繋がらない情報端末ツールほど無力なものはないだろう。
「方位磁石のアプリでも入れておけばよかった……」
森の中で遭難する予定などなかったのだから仕方ない、と落胆しつつ自分を慰め、せめて現在地を調べようとするがGPSもダメ。自分がどこにいるか全くわからないし調べようもない、ということがわかっただけだった。
「遭難時の対策って無暗に動かないことだっけ? でもそれって救助がくる場合だよね……救助くるのか、これ……」
自分で自分のいる場所がわからないのに、他人がここの場所を知っているとは思わなかった。そもそも、車にはねられかけて樹海に迷い込んだ、なんて意味不明な状況から捜索や救助がくるとは思えなかった。
とりあえず歩こう、と思ってどちらに向かえばいいか考えてまた困った。目印がない。周囲は木だらけ、地面になんらかの案内があるわけでもなく、そして頭上は大量の枝葉で覆われていて空すら見えなかった。
これなら都心の駅のほうがまだわかりやすかった、と小さく呟きながら歩きだした。どっちに向かっていいのかわからないならどっちに進んでも同じだ、と最初の位置から真っすぐに歩き出した。
ふと思い出して一度スタート地点に戻り、財布からいらないポイントカードを抜き取って木の根元に置いた。森の中で歩くと迷いやすく、まっすぐ進んでいるつもりで同じ場所をぐるぐる回っていることがあるという話を思い出したからだ。ついでにプラスチックのカード式の会員証を取り出してその木に大きなバッテン印をつける。歩きながら木に印をつけていけば、自分が一度通った場所はわかるはずだ、という浅はかな考えでやってみた。実際は木にほんの少しの傷跡がついただけなので、もし2週目に同じ道を通り過ぎたとしても、この印に気付くかどうかは難しいところかもしれない。気休めともいう。
再び歩き出した。次は右手にカードを持ちながら、右手側の木1本1本に横線の印をつけながら歩いていく。やはりこれも気休めだが、現在の自分は助かるかどうかわからない状況なのだ。少しでも助かる可能性をあげたかった。
そして10分も歩かないうちに息が上がってきてしまった。足場が悪すぎる。どこもかしこも木々の根っこが波打っており、まともに真っすぐ歩けやしない。木の根がないところは意外と平らな場所が多いのだが、その分若木やらツタやらが体中に絡みついてきて歩きづらいうえ引っかかって痛い。レンジャーが使うようなナタやナイフがあれば歩きやすいんだろうけど、バイト帰りの自分がそんなもの持っているわけない。
少し歩いて少し休憩、少し歩いてまた休憩、を何度も繰り返して進んだが一向に森が途切れる気配がない。自分は本当に進んでいるのか不安になってくる。だんだん喉の渇きが辛くなってきたが水場は見当たらない。歩き続けるしかない。
歩いて、歩いて、歩いて、そしてへたり込んだ。何日も歩いた気がするが、実際は3時間くらいだろう。歩きづらい道のりを何の準備もなく、そして助かる保証もないままに歩き続けたのだ。肉体的にも精神的にも疲労が酷い。まだ昼間のようだったが、ここで長時間の休憩をいれることにした。
休憩といっても何もすることがない。水がないから喉を潤すこともできず、火をつける道具がないからたき火もできない。こんなときライターがあれば、と思ったがタバコを吸わない悟は普段から持っていない。そもそも火をつけたところで意味があるのか、と自分の思考がぐちゃぐちゃになっていることを悟は自覚する。
「なんでこんなことになっちゃったのかなぁ……」
ぼそりと呟いて近くの樹に寄りかかると、急激な疲労感に全身が脱力した。そして同じく強烈な睡魔も襲ってきた。
悟はそのまま眠りに落ちた。
ガサガサッ。
悟は驚いて目を覚ました。そしてものすごい悪寒が背筋を貫いた。
何かいる。
自分がよりかかっている大木のその反対側らへんに、何かの生き物が動いているような気配があった。
足音はない。ツタが揺れる音がする。鼻息のような荒い呼吸音が聞こえる。何かをこすっているようなガサガサという音がする。
何か大きな生き物が木の裏側で何かをしている。
真っ先に思いついたのは熊だ。今の季節は春だ。冬眠から覚めた熊がエサを探して森の中を彷徨っている、そしてその熊が自分の真後ろで餌をあさっている。そういうイメージが一番最初に浮かんだ。熊じゃなくて猪かもしれないがそこはどうでもいい。
どっちにしろ危険な大型の獣が自分の近くにいるのは間違いない。
明らかにまずい。熊であれなんであれ、野生の動物がエサを求めているときに自分みたいな部外者がいたら確実に攻撃される。逃げたくてもこの悪路だ、達人のハンターでもない限り逃げ切れやしまい。春って野生動物の発情期だっけ、発情期は危険なんだっけ大丈夫なんだっけ。思考が空転する。
とにかく相手の位置を見よう。そう決意して木の根元に隠れていた身をほんの少しだけ乗り出す。いる。木を背にして左手側に、暗くて色はわからないけど、黒い何かの尻の部分が見えた。
急にバサリ、と大きな音がして驚いて身を隠そうとした。だが実際はあまりの恐怖に身が硬直していた。そして自分が隠れている木のすぐ横から、大きくて羽毛の生えた巨大な何かの先端が見えた。
羽?
次話「さようなら命、こんにちわ魔女さん」