149・アイツァの異世界旅行記
前話のあらすじ「悟くん、実は作者だった(安心してください、フィクションですよ)」
……あの人の声が聞こえた、気がした。
私は目をゆっくりと開けると、途端に傍からはしゃいだ声が聞こえてきた。小さい顔にこれでもかと感情を乗せてベッドに横たわっている私のもとに飛び込んでくる。
「おばあちゃん起きた! おはよう!」
「あら、もうお昼かしら?」
「またお寝坊だよ、おばあちゃん? もうお昼ご飯食べちゃったよー」
「はいはい、ごめんなさいね」
私はベッドに横になったまま、可愛い孫娘の頭を撫でる。私と同じ黒髪がとてもきれいに光を反射していた。くしゃりと目を瞑って嬉しそうに私に頭を撫でられている。
久しぶりに懐かしい夢を見た。そのせいかどうかわからないが、今日はとんでもなく寝坊助だったし、体の調子がすこぶる良かった。今なら昔みたいに飛んで跳ねたりすることができるかもしれない。
そんなあり得ないことを想像して苦笑する。人に支えられてなお歩くことすら苦労する私が、もうあの夢のように動き回ることなんてできやしないだろうに。
「おばあちゃんおばあちゃん! またチェスしようよ。あのねぇ、この前お父さんとやったら私勝ったんだよ! 凄いでしょー」
「ええ、凄いわね。あの子に勝てるのなら、もう手加減はいらないわね。本気で相手してあげるわよ」
「えー、おばあちゃんって街で一番チェス強いんでしょう? 勝てるかなー?」
「もし勝てたら、そうね、魔術具作ってあげましょうか。可愛い指輪がいいかしらね」
「え、ほんと! やったー!」
孫娘は笑顔で私に抱き着きいて、頭をお腹に力いっぱい押し付けてくる。可愛らしい仕草だが、正直ちょっと痛いのでやめてほしい。ベッドの上で寛いでいた黒猫が驚いて尻尾を立てて逃げていった。
私がやんわり押しのけると、孫娘は上目遣いで私を見た。そして「あっ」と口元に手を当てると、勢いよく喋りだした。
「そうだ、おばあちゃんが起きたら教えてってお母さんが言ってたんだった! 忘れてたちょっとおばあちゃん待っててねお母さん今呼んでくるから!」
「はいはい、わかりました。走ってもいいけどまた階段で転ばないようにね。また頭にたんこぶできちゃうわよ」
「そんな昔のこと忘れてよー。もう私、子供じゃないんだから!」
そう言って部屋を走って飛び出す。賑やかに扉を開けて、大きな足音と立てて廊下を走り、階段を一段飛ばしで降りるバタンバタンという大きな音がする。
その後、女の人の声で「階段を走って降りたらダメでしょ!」という大きな叱り声が聞こえる。しょんぼりとしている孫娘の顔を思い浮かべて苦笑した。窓の外を見る。
窓の先には大きな街があった。
私は異世界から帰ったあと、精力的に働いた。空間魔導の研究のために必要なものがたくさんあったのだ。お金を始めとする必需品の確保の為に、ありとあらゆる手段を取った。
異世界で見ることができた文化や生産技術などを参考に、色々なものを魔術具として再現したのだ。
植物で作る紙の作成は簡単にできそうだったけど大変だった。柔らかい苗木を使うと良いことと、粘着性のノリを使うことがわかってしまえば、そのあとは魔術具でどうとでもなったのだが、その結果を得られるまでに2年はかかってしまった。
他にも純度の高い鉄の生成や、キックボードや洗濯ばさみなど異世界で見かけた便利な道具の数々を再現した。珍しい料理については魔像が覚えている物から再現してこちらの世界に作り直した。車や電車の技術を流入させて魔術馬車や魔術列車の基礎理論も構築したし、飛行船の空を飛ぶ仕組みを解析してさらに改良・増産にも着手した。おかげでお金は山ほどできた。
しかし、お金だけでは足りなかった。
空間魔導の研究は少しずつ、本当に少しずつ着実に進んでいたが、その結果必要な魔術回路がとんでもない大きさになってしまった。
魔導士の体から魔術回路の基本を写し取ってはみたものの、それを解析していくうちに、やれこの回路は普通の人では使えないため他の回路で補助をさせないとうまく機能しないとか、この部分を元のまま使うと魔力の消費量がバカでかくなってしまうため、やむなく他の回路を使って迂回させる必要がある等、問題点が山積みだったからだ。
ディート師を含む色々な人に相談したが、これ以上の名案も浮かばず、量産した紙に描いた魔術回路だけでも家一軒に収まらない大きさになってしまっていた。しかもどうやら大きくすれば大きくするほど安定度が増すらしい。なぜあの人は普通に使いこなせていたのかが実に謎である。非常に困った話だった。
そのため、巨大な魔術具を作ろうとすると素材と敷地が足らず、作る場所や材料があっても一人では手が足りなくて作れず、仮に作れたとしても人間一人では回路全体に魔力が満たせないような状態になっていた。頭を抱える羽目になった。
悩んだ結果、私は街を作ることにした。
その時には空間魔導の基礎回路だけは解析できていて、辛うじて魔法使いの称号を得ることができていた。その史上4人目の魔法使いという称号と、師匠や知己の皇族の人などの伝手を頼って森の中に街を作る許可をもらった。
そしてそこそこ大きな街を一つ作り上げたのだった。
街造りは難航するかと思ったが、意外と簡単にことは進んだ。
私が様々な産業機械を生み出したのが良かったのか。それとも異世界の真似をして魔術学校を作ったのが良かったのか。もしくはこの街にしか見られない可愛い動物のおかげか。原因はよくわからないけれど人を集めることができた。
そして街を作り、発展させた。円形に作った街全体にこっそり空間魔導の魔術回路を刻み、そこに暮らす人たちから僅かずつ魔力を自然徴収する代わりに、魔術に関する様々な知識を享受し、異世界から輸入してきた産業を人に与えて仕事をできるようにしたり、周囲に存在する強い魔獣を撃退するための装置を作ったりと様々なことをした。その結果、街はどんどん大きくなり、今やベーラの街にも負けず劣らずの大都市になっていた。
もちろん苦労もあった。最初は「魔族モドキの魔法使いなんて信用できるか」と唾を吐かれたり、通行の便が悪すぎて行商人が誰も立ち寄ってこなかった。しかしトンネルの広さを”じどうしゃ”が2台すれ違って余裕があるほど広く拡張したり、異世界で見た知識をもとに作った独創的な魔術具を大量に開発したりしているうちにだんだんと人が訪れるようになってきてくれた。
そして軌道に乗ることができてからの発展は凄まじかった。私は日々街の創始者として奔走する羽目になった。
こうして今に至る。私は窓の外に映る街並みを優しい眼差しで眺めていた。まるで愛し子を見る母親の目で平和な街の光景と遠くに映る時計塔を眺めていた。
しばらくして階下から誰かが上がってくる音がした。その軽い足音と、その後ろにバタバタと激しい足音から誰が来たかがわかる。
扉を開けて中に入ってきた。おばさんというにはまだ若い女性と、先ほどの孫娘だった。女性は私に話しかけてくる。
「お義母さん、起きましたか? 具合はだいじょうぶですか?」
「ええ、もう大丈夫よ。それよりごめんなさいね、お昼まで寝ちゃってて」
「いいえ、大丈夫です。それよりご飯を作ってあります。食べられそうですか?」
「ええ、頂くわ。ありがとう」
「おばあちゃん、今日のご飯はなんだと思う? ヒントはおばあちゃんが好きなもの!」
「あら、何かしらね。楽しみだわ」
元気にクルクル回る孫娘を見ながら私はクスクスと笑った。彼女の母親である義理の娘も苦笑している。
「私がおばあちゃんのお昼持ってくる!」とものすごい勢いで飛び出していった孫娘を見送って、義理の娘が私の着替えを手伝ってくれた。服の袖を通しながら、私に様々な報告をしてくれる。
「また給水塔の魔術回路が壊れたみたいです。修理は頼んだのですが、機械工の人たちはお仕事が忙しいみたいで手が回らなくて……どうしましょうか?」
「それは困ったねぇ。息子はなんて言ってる?」
「あの人なら今会合に出ていて留守なんです。お義母さんの後身をどうしようかと会議が進まなくて……あの人がお義母さんの次代を引き継いでくれたらそれで丸く収まるのですけれど、そういうわけにもいかなくて……」
「そうね、息子には自由にさせてあげたいから無理に仕事を押し付けたくないもの。それにあの子は人を率いるには優しすぎるわ、全く誰に似たんだか……」
私は寂しそうに笑った。義理の娘も複雑そうな表情であいまいに相槌を打つ。
私に夫がいないのは周知の事実だし、それでもあの息子は自分の血を引いているため、複雑な事情があるんだなと誰もが思っている。
そこまで複雑な事情ではないのだけれど、確かに事情が事情だけに話すわけにはいかない。適当に誤魔化している。
私は話を逸らすために思いついたことを話していく。
「給水塔に関しては私が元気になったら、私が見に行くわ。もしどうしても早く直したいのなら、従騎兵の工房の人たちに任せれば良いと思うわ。あの人たちも魔術回路を扱う魔術師の一員なんだし、なんとかできるでしょう。嫌がるようだったら私の名を出してもいいわ」
「ええ、わかりました。お義母さんをあまり無茶させるわけにいかないので、工房の人たちに頼んでみますね」
「お母さん、ドアあけてー。開けられないよー」
両手が塞がってドアの前に立ち往生している孫娘の情けない声に私たちは一瞬顔を見合し、笑いあった。
私はお昼を食べて、孫娘とチェスで遊び、私に面会を求めてくる人たちを「気分が悪いから」とあしらって帰ってもらい、そんないつもの一日を過ごしていた。
…………
……また、あの人の夢だ。
老いた魂はあの世に近い分魂が軽いせいか、目を閉じると過去の記憶に簡単に飛んでいける。
懐かしくも悲しい記憶に、私の動きの悪くなった心臓がさらに脈打つ速度が遅くなった気がする。とても憂鬱な気分だった。
時刻は夕暮れだった。
窓の外が赤く染まり、時計塔の鐘が「早く家に帰りなさい」とばかりに重い音を鳴らす。家に帰る人々の姿を遠目で眺めながら、私は唇をかみしめた。
空間魔導の魔術回路は完全に完成した。ある日、懐かしい顔が戻ってきたのを切っ掛けに異世界へと行き来できる魔術回路が出来上がったのだ。その時の私の喜びようは言葉に表せないほどだった。
約束をしてからもう10年も経ってしまった。もうあの人は私のことなんて覚えていないだろうか。もしあの人がまだ待っていてくれたら、私は最初になんて声をかけるべきか。あの人は今もまた優しげに笑ってくれるのだろうか。色々期待と不安をないまぜにし、私はワープホールを動かそうとした。
そしてその時、大失敗を悟った。
まさか、あんな欠点を残していたなんて。私は全身から冷や汗をかいた。危うく大量の人間を殺してしまうところだった。
私は、私が何年もかけて作った空間魔導の魔術が失敗であることを認めるのに、ここからさらに2年もかかった。
なんとか欠点を取り除けないか試した。何度も試行錯誤を繰り返したが、無理だった。もし作り直すというのなら根幹から見直さねばならず、街を一度破壊して作り直さないといけなくなる。
街の人を追い出してから起動しようともした。しかしそれもダメだった。今度は魔力が足りない。宝珠に魔力を込めるにしても、必要な宝珠の数が国を買えるほどの大金を投じないと足りない計算だった。
私はどうにかできないか何度も、何度も、何度も考えた結果、諦めることにした。
確かにあの人に会いたい。でも、もう他に大切な人がたくさんいるこの街を見捨てることはできなくなっていた。
あの人と私の血を引く息子にも話した。父親に会いたいかということを。しかし答えは否だった。「会ったことない父親より、街のみんなの方が大事だ。みんな家族なんだ」と答えた。
その言葉に私はショックを受けた。薄情だと思ったからではない。私も、同じ意見だったからだ。
私はいつまでも泣いた。
「……あれ、母さん。起きてたの? もう夜だけど、体調は大丈夫?」
「……ああ、ごめんなさい。少しぼんやりしていたの。なんでもないわ」
見慣れたはずの息子の顔が、あの人と同じに見えて私は息を飲んだ。黒髪の朴訥な青年、あの人がもう少し歳を取ったらこんな見た目になっているだろう。あの人より逞しい体つきだけどぼんやりとした笑顔が凄くよく似ている。
そしてほんのちょっとのことでも人を心配するその心優しいところは本当にそっくりだった。
「……母さん、相談してもいいか?」
「いいわよ、どうしたの?」
息子が珍しく神妙な顔つきで私に相談してきた。私はベッドに横になったまま彼を手招きする。
息子はベッドの横の椅子に座って何か言いづらそうにしていた。促すと、おずおずと話を切り出した。
「……やっぱり街を作った母さんの息子であるオレが町長になった方がいいって意見が多いんだ。その方が街全体も納得して受け入れやすいって……それに一代でこの街を作りあげて、魔法使いの称号まで得た母さんのことを考えると、やっぱりオレが町長になった方がいいのかなって、思ってさ。母さんはどう思う?」
「……そうね、そうかもしれないわね」
私は瞼を閉じる。愚かな過去の自分を思い出しながら、息子に言うべき言葉を考えた。
そして緊張した面持ちで私の言葉を待っている息子にこう言った。
「あなたが何をしたいか、何すべきかどう悩んでるのかは私は知らないわ。それはあなただけの悩み、自分で答えを出すしかないの。でもね、あなたが私の名誉のために町長の役を受けるというのなら、私は反対します」
私の強い言葉に、息子は息を飲んだようだった。ゴクリという音が聞こえた。
私はそれに気付かぬふりをしてそのまま話を続ける。
「お母さんはね、昔、大好きな人の為になると思って一番ダメな選択をしちゃったことがあるの。自分は望んでない、相手も望んでないことがわかっている選択を。それでも大好きなその人の為になると思って。そうしてお母さんは、今でも悔やんでるわ。あの時なんで彼と一緒に手を取る未来を選ばなかったのか、なんで私は臆病で一番弱気な選択をしちゃったんだって。……他人の為に何かをするという考え自体は立派よ。でも他人の為に自分が犠牲になる、という考えなら絶対にダメ。そんな自分勝手なこと、お母さんは許さないわ」
「……わかったよ、母さん。ありがとう」
「確かあなたの小さい頃の夢はパン屋さんだったっけ? 『お母さんに一番美味しいパンを焼いてあげるんだ!』って勢い込んでいたっけ」
「ちょ、母さん。そんな昔のこと言うのやめてよ! 恥ずかしい!!」
いい年になって息子が子供のように恥ずかしがる姿を見て私は笑った。何歳になっても子は子であって、いつでも可愛いものだった。
あの人にも息子のことを見せてやりたい。そう思ったらまた後悔する気持ちが増えた気がした。
…………
……ああ、私は、もう、死ぬんだ。
ふっとそれがわかった。目覚めがいつもより白い。体が軽くて気分も良いのに、指先一本動かすこともできない。
夢と現実の境が今まで以上に曖昧だった。本当に魂が軽くなると過去に行きやすくなるのかもしれない。ほんのちょっと意識の手綱を離すだけであの人に会えそうな気がした。
……ワープホールなんてなくても彼に会うことができるなんて、本当に簡単ね。
「おばあちゃん!? おばあちゃん起きた? お母さん、お母さん! おばあちゃん起きた! 起きたよ!!」
隣でとても煩い声が聞こえた。誰の声だろうと思って、すぐに孫のことを思い出す。
でも初孫だったあの子は、もっと小さい女の子じゃなかっただろうか。何か記憶と齟齬があった。わからない。わからない。
急に家の中がうるさくなったのがわかった。慌ただしく階下から誰かが登ってくる音。ドアが蹴破られるように開く。
そこには見覚えのある人たちが、見たこともない表情をして私を見下ろしていた。不思議な顔で私は挨拶する。
「あら……みなさん、どうした、んですか? お久しぶり、ですね」
「母さん、だいじょうぶ? もう3日も眠ってたんだよ。だいじょうぶ、意識はある? 何か食べたいものはない?」
サトルが心配そうに私の手を取った。今にも泣きそうな顔をしている。
彼はこんなに大人っぽい顔をしていたっけ。そんな違和感を覚えつつも私は返事をする。
「だいじょうぶ、ですよ。みんなの顔を見たら、元気になりまし、た。ああ、喉が少し渇いた、かも。お、お水を」
「はい、お義母さん、こちらです。ゆっくり飲んで、ください」
そう言って❘ベアチェ《・・・・》が私に水差しから水を注いだコップを渡してくれる。私は彼女の髪にも違和感を覚える。
また髪を染めたのだろうか。ということはやっぱりお忍びで遊びに来てくれたのだろう。嬉しい、彼女と会うのも凄く久しぶりだった。
10年も前に彼女の国葬があって、三日も泣き続けたことは覚えていなかった。楽しいことしかもう思い出せない。
「おばあちゃん、だいじょうぶ? ねぇ、私やだよ。おば、あちゃ、んしんじゃう、って、いや、だよ?」
言葉の途中でボロボロと泣きながら❘チエ《・・》が私のお腹にグリグリと頭を押し付ける。私はあまりの痛みに軽く頭を叩いて離れてちょうだいとお願いした。
それにしても相変わらずチエは積極的だ。私はいつも彼女の天真爛漫さに振り回されていた。そんな彼女が大好きだった。
私は記憶より幼く見える彼女の頭を撫でながら慰めの言葉を呟いた。
「だいじょうぶ、ですよ。私は、死なないから、ね? また、遊びましょう?」
「うん、絶対だよ。おばあちゃん。私とチェスする約束あるんだから、ね? また元気になってよ」
そういうと彼女は私の膝元から離れた。そして急に慌ただしくなった。
黒髪の青年は医者を呼びに行こうと走り出し、茶髪の女性は寝たきりで何も食べていない私に食事を用意すると台所へと走っていった。そして幼い黒髪の少女に「おばあちゃんの面倒をみてあげてね」と見張りにつけさせた。
「おばあちゃん、何か欲しいものない? 何でも持ってくるよ? あ、猫ちゃんいる? おばあちゃん猫撫でるの好きだよね。連れてこようか?」
黒髪の少女は何かしたいらしく、うずうずと体を動かせていた。
私はその時何かを思い出して、少女に用事を頼むことにした。
「……ああ、そうだ。私の執務机の上に、たくさんの紙があるから、それをあなたにあげるわ」
「紙? お絵かきに使うの?」
「違うわ。そこには私がした昔の物語が書いてあるの。私が異世界へいって、頼りないけど凄く優しい男の人と冒険するお話」
「あ、それおばあちゃんが昔してたやつ? あれの本があるんだ、初めて知った!」
「そうなの、もし良かったら読んでみて。私の人生が変わったときの物語よ」
「そうなんだ。ちょっと見てくる! おばあちゃん、待っててね」
黒髪の少女は元気よく返事をすると、すぐさま部屋を飛び出した。私はその元気のいい後姿を見て、微かに笑った。
そして苦労して反対の窓側へと顔を向ける。窓の外はとても明るかった。日の光が街を白く照らし、輝き溢れていた。穏やかな風が吹き抜ける。
目がぼやけていたらしい。いつの間にか窓際に黒猫が座っていた。いつも私の元へと来る黒猫。
特別飼っていたわけではないけれど、生まれたばかりのとき捨てられていたのを拾ってしばらく面倒をみた子猫だった。なぜかこの黒猫のことだけはよく覚えていた。
私は丸太でも持ち上げるかのように力を込めて、自分の細腕を持ち上げる。枯れた枝のような腕と指で、黒猫の頭を撫でた。
気持ち良さそうに目を細める黒猫に、私はお願いごとをした。
「お願いがあるの。私は、この街に大事な物がたくさんできたの。お願い、その全てを守ってちょうだい。お願いね」
「なぁぉ」
黒猫は鳴き声をあげると、私の枕元に近寄ってきた。私の顔のすぐ横で丸くなる。
なめらかで手触りのいい黒い毛皮の感触を首元に感じながら、私は窓の外の光景をしばらく眺めていた。遠くに誰かの声が聞こえた気がするが、何を言ってるかわからなかった。ぼんやりと青い空と流れる白い雲を見る。
……ああ、綺麗だなぁ……。
あの人が「君の方がきれいだよ」と恥ずかしそうに呟いたのを思い出す。
あの時、あの人の顔が真っ赤になって言葉も尻すぼみだったのが凄くおかしくて、そして褒められたのが嬉しくて私も同じくらい真っ赤になっていた。
……ああ、眠い。すごく、眠いなぁ。
瞼がだんだんと落ちていく。意識が遠のく。現実の気配が薄れていくのと同時に、夢の中へと足を踏み入れていく。
あの楽しかった異世界での日々。緑と魔獣が徘徊するこの世界ではなく、灰色と平和が溢れていた世界。大好きだった人たちがいた世界。私がいつまでもいたかった世界。
背後から何かが落ちる音がした。誰かの叫ぶ声に一瞬だけ覚醒して現実に引き戻されるも、すぐにまた夢の世界へと落ちていく。
夢の世界では、みんなが待っていた。
……サトル、久しぶり。元気だった?
こうして、私は、彼に会えた。
これにて終わりです。長い間ご愛読、まことにありがとうございました。感謝の言葉もありません。
あと閑話を書いたりするかもしれませんが、基本的にこれで完結になりました。ほぼ一年もの長い間、お疲れさまでした。
たくさんの感想やポイントを入れてくださった方、皆様のおかげでここまで頑張れました。本当に、本当にありがとうございます。
このエピローグは「猫と時計塔のある街で」(現在11話連載中)に続きます。もしよろしければそちらの方もご覧くださいm(_ _)m
あと「次回作について」という活動報告をあげました。内容は「次回連載の紹介」と「更新日程の変更」です。




