夜道で拾い物
会社の仕事はなんとなくで書いてますので、多目に見てやってください。
商品の搬入のミスで残業を余儀なくされた私は、日付が変わる頃会社を出ることができた。うちの会社は駄菓子を生産販売している。大手の駄菓子メーカーの子会社であるため、安定した仕事があるのはこの不景気の時代にはありがたい話である。
私は会社では営業担当をしている。取引先の新規開拓はもちろんのこと、現在取引のある企業の商品発注の依頼を承ったりするのが私の仕事になる。今日の残業は商品の生産数が取引先から依頼された受注数と異なることを総務が気づいたため、急遽取引先への確認と謝罪、工場への指示をすることになったからだ。長い付き合いの取引先だったということもあり、穏便に済ませることができたが、自分の至らなさに溜め息が出てしまった。
「本当、私って新人教育するの、向いてないのかなぁ」
今、私は今年入社したばかりの新人社員の指導係をしている。新人の子は明るくてバイタリティーに溢れた好青年なのだが、おっちょこちょいでミスも多い。それでも最近は仕事を覚えてミスも無くなっていたから、すっかり安心していた。とは言っても新人は新人だ。ミスをするかもしれないなんて簡単に予想できたはずだ。それなのにちゃんと確認しなかったのは私の失敗だ。これが取り返しのつかないものだったら、と思うとゾッとする。
今は初夏だが、夜はまだ肌寒い。ジャケットの前を掻き合わせ、私は歩を速めた。コツコツとハイヒールの音が静かな住宅街に響く。この時間だと人通りもないし、家の明かりもほとんどない。点々とある街路灯のぼんやりとした光だけが道路に落ちている。なんとなく、不気味だ。
そういえば近頃、この辺では痴漢が多発しているんだったっけ。
被害者は高校生や大学生ばかりだから、28の私は対象外でしょ。
そう強がってみせるが、ヒールの音だけが聞こえる状況は無闇に恐怖を掻き立てる。背筋がすっと寒くなり、私は思わず身震いをした。
ひた…ひた…。
ふと私は背後から自分以外の足音が聞こえることに気がついた。
もしかして、痴漢!?
足と手の指先が冷たくなり、感覚が消えていくのを感じた。
どうしよう…
気のせいだ、と口の中で唱えてみても混乱は収まらない。心臓が鼓動を速め、うるさいくらい身体中に広がっている。
自然と足が早く動き、気付けば小走りになっていた。続けて、後ろから聞こえる足音も早くなる。
つ、付いてきてる?!!
私は無我夢中で走った。学生時代から走ることは苦手で、自慢じゃないが足は遅い方だ。しかも今はハイヒール。スピードが出るわけもないが、だからといって優雅に歩いていられるわけもない。
足音はだんだん近づいてくる。たぶん100メートルも走ってないのに、私の息は早くも上がってきた。
私、体力無さすぎるよ…!
と、いきなり肩を掴まれ、私は思わず体を竦めた。人間、本当に恐怖の時には声も出ないらしい。ぎゅっと目を瞑り、私は持っていた鞄を振り回した。
「ちょ、ちょっと待ってくださいってば!!」
男の人が慌てた声で何か言っている。でも最早パニックに陥っている私の脳は理解できない。今の恐怖から逃れようと必死で抵抗した。肩に乗る手は尚も離れない。
「待って!待ってください!!僕です!貴女がいつも寄るコンビニのアルバイト!」
「いや…っ!!…て、え?」
あれ?なんか聞いたことある声?え?
私は思わず動きを止めて、目を開けた。そこには見慣れた長身の男の人。
「やっと、気づいてくれたみたいですね」
軽く息を乱しながら、彼は私を見下ろした。肩に置かれた手も離される。
「あ、え…どうして」
「ちゃんと声、かけました。けれど貴女は考え込んでいて気づかなくて。と思ったら急に走り出したから。
これ、落としましたよ」
彼の手には私のクリーム色の定期入れがある。そこでやっと私は自分が定期入れを落としたことに気づいて、顔が熱くなるのを感じた。
は、恥ずかしい…。
親切にも落とし物を拾ってくれた人を痴漢と勘違いするなんて。自意識過剰にも程がある。
彼はにっこりと微笑んで、私の手に定期入れを握らせた。
「これがないと、明日困ると思いますよ。
それにしても…こんな遅くに一人で夜道を歩いちゃダメです。危ないでしょう。今日だって僕が痴漢だったらどうしてたんですか?貴女、捕まってましたよ」
「ご、ごめんなさい」
何故だか分からないが彼の声に怒りが見えて、私は慌てて謝った。なんだろう、今日は私、謝ってばかりだ。
彼はじぃっと私を見つめていたが、その表情がふっと柔らかくなる。
「分かってくれれば良いです。…そんな泣きそうな顔をしないでください。可愛い顔が台無しですよ」
「あの、」
え?え?今、なんて。可愛い?
目を丸くした私に、彼が相好を崩した。
「僕、貴女のことをアルバイト先で見かける度に可愛い人だなって思ってました。それにいつも、レジで会計を済ませた後に軽く微笑んで会釈する姿がとても綺麗で。気づいたら、貴女に会うのが楽しみになってたんです。
レジで貴女に何を話しかけようって考えたり、でも結局ほとんど話せなくて落ち込んだり。ずっと会えない時は貴女のことを思い出したりして。
だから、実は今日、こうして会えたのは僕としてはラッキーだったんです。しかも話すきっかけができたって。そう思ったら痴漢と間違われたのは予想外でした」
ま、確かに下心はあったので痴漢と間違われても仕方ないですけどね。
最後はおどけて彼は言葉を締め括った。少しざらついた声だけど、それはそれで渋くて聞き心地が良い。
ぽかんとして聞いていた私だが、やがて脳が彼の話を理解するとじわじわ頬に熱が集まっていくのを感じた。
「あ、あの…キミは私のこと、そんな風に思ってたの」
なんだか直球すぎて居たたまれない。冗談を言い合えるくらい親しい間柄でもないから、誤魔化して流すこともできないし。それこそ予想外の展開だ。
挙動不審な私に、更に彼は追い打ちをかける。
「前からずっと僕は貴女が気になってます。まさか、貴女が僕より年上だと思いませんでしたが…僕、全然大丈夫ですから。
え〜と…クミカさん?読み方合ってます?」
「あ〜、はい。吉居玖美花です」
反射的にフルネームを言うと、ふっと彼が笑う。
「良かった。…玖美花さんは、年下って範疇外ですか?僕、24歳で大学院2年なんです」
「はぁ」
それって恋愛対象として範疇外か、ってことだよね?
私はまじまじと彼の顔を眺めてしまう。卵形の綺麗な曲線を描く顔の輪郭や、切れ長の涼しげな目。薄くもなく厚くもない唇は固く引き結ばれている。改めて見ると、整った顔をしてるなぁと思う。
今まであまり興味を持って見たことがなかったからなんだか新鮮だ。親切な好青年という印象に、イケメンで長身という項目が増やされる。
「こう見えても僕、剣道初段に空手3段だから番犬代わりくらいにはなりますよ。それに無事に就職も決まりましたから、来年からは晴れて社会人です。公務員ですから食いっぱぐれはありません」
「なんか、やたらとアピールするね?」
「だって、年下で学生とか頼りないじゃないですか」
少しだけ拗ねたように唇を尖らせる彼は間違いなく幼い。今まで年下だとか気にしたことなかったけれど、そんな姿は確かに年下だと思う。まだ学生、って感じで若い。
自然と肩の力が抜けていく。いつの間にか緊張していたらしい体の力が抜けると、強張っていた顔の筋肉も弛むのが分かった。
「ふふっ、可愛い」
「可愛いって…僕、立派な成人男性なんですが」
むっと顔をしかめるその仕草も、余計に彼を幼く見せる。
何この可愛い子。反則だわ。
「ごめんね。キミ、名前何て言うの?」
「あ、名乗るの忘れてました。僕は後藤晋介です」
「後藤君、」
話しかけようとした私を遮って彼が言葉を重ねた。
「晋介って呼んでください」
「いや…あの、名前呼びするほどの間柄では」
すがるような目で見つめられて、私の声はだんだん尻窄みになる。絶対に私がこういう表情に弱いの知っててやってるでしょ!って言いたい。…たぶん、知らないだろうけど。むしろ知ってたら怖い。びっくりする。
「し、晋介君…」
無言の圧力に負けた私は、呼び方を変えた。声が裏返ったのは呼び慣れてないからだ。断じて緊張からではない。…断じて違う。
「はい」
私の呼び方に満足したのか、にっこりと彼が返事をする。って子供でしょ!
ふぅ、と長く息を吐き一度落ち着いてから私は話し始めた。
「私は今まで、年下の人を恋愛対象として見たことなかったし、正直晋介君のことも興味を持って見てなかった」
だって、よく行くコンビニの店員さんってだけだし。
黙っている彼の表情は固い。
「定期見たなら分かってると思うけど、私ってアラサーなの。キミよりおばさんだし、特筆することのないOLだから。そんなに魅力はないと思う」
「でも、」
「話は最後まで聞いて。あのね、それでも私はまっすぐに気持ちを伝えてくれたキミを、何も知らないうちから切り捨てる程冷たくはないから。
だから、まずはお互いのことを一つずつ知ることから始めませんか?付き合うとかそういうのはそれからね」
彼はきょとんとして私を見下ろしている。大人ぶって喋っていた私だが、実はものすごくドキドキしてる。手が震えているのがバレてしまうんじゃないかと思うくらい。心臓はさっきから早鐘を打っている。
正直な所、私は年下に興味はない。けれど、彼の気持ちを聞いても拒絶する気持ちは浮かばなかった。むしろ今こうして一緒にいる事実を至極自然に受け入れ、心地よさすら感じている。
人間関係ってそういうフィーリングも大切なんじゃないかな。一緒にいて居心地の悪い人とは、どんなに条件が良くたってお付き合いは無理だし。その点は晋介君は合格よね?
それに、年齢を理由にフるのは残酷かなと思ったから。年齢なんて本人の努力じゃどうしようもないことを理由にするのは、ズルい気がした。それだけだけど。
「良いんですか?」
たどたどしく彼が問う。心なしか泣きそうに見える。
私は唇の端をにぃっと吊り上げて笑った。
「晋介君が私をからかって口説いてるんじゃなければね」
そう言ったのは私なりの保険。…のつもりなんだけど、彼は必死の形相で私に詰め寄ってくる。
「2年も片想いしてる相手をからかうなんてあり得ないです!僕の気持ちを疑わないでください」
そんな風に追い縋るから幼く見えちゃうんだよ、と思ったけど、予想以上の彼の本気が見えてちょっと嬉しかったから指摘はしないでおいた。
なんだか飼い主にまとわりつく子犬みたいな子。どうしても憎めなくて困る。
でも、悪い気がしないから不思議よね。やっぱり私って犬好きなのかな?今まで猫好きだと思ってたんだけど。
「とりあえず、帰ろうよ」
私は彼に微笑んで、服の袖を引っ張った。彼は目を見開いた後、街路灯の光でも分かるくらい真っ赤になった。
「玖美花さんって、小悪魔ですよね」
恨みがましい視線。私が何をしたっていうのよ。
「…良いです。何でもありません。行きましょうか。送ります。あぁ、正式にお付き合いの許可が出るまで手は出しませんから安心してください」
「ん?うん」
「これから、覚悟してくださいね。絶対に振り向かせてみせますから」
私の背に手を添え、歩き始めた彼が不敵な宣言をする。その言葉にどきりとしたが平静を装って、私は微笑んだ。
「期待してる」
「余裕でいられるのは今だけです。…好きです、玖美花さん」
「もぅ…」
全然余裕じゃないんだよ。そんなにまっすぐにぶつかってこられると、私はきっとすぐに陥落する。でももう少しだけ、気のないフリをさせてほしい。だって年上なんだもの、大人の余裕ってヤツを持っていたいじゃない。
ゆっくりと歩きながら、私はそっと彼の横顔を見上げた。
私の落とし物を拾ったのは彼。そして私はその彼自身を拾ったのかもしれない。
「大きな拾い物だわ」
「何ですか?」
こちらを向いて尋ねてくる彼に私はゆるゆると首を振る。
夜道には案外、持ち主を待つものが多いのかもしれない。それを見つけるのも悪くない、そう私は小さく笑ったのだった。