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第17話 サボテンと銃殺の朝(マクシミリアン / メキシコ帝国)

 アドリア海の紺碧に抱かれた、北イタリアのミラマール城。そこには、大理石の白さが波飛沫と溶け合い、潮風が精緻な彫刻を優しく撫でる、静謐な欧州の時間が流れていた。

 ハプスブルク家の血を引く若き大公がその城のテラスから眺めていたのは、秩序だった庭園の緑と、遠く水平線を滑る帆船の優雅な姿であった。そこにあるのは、何世紀にもわたる伝統と洗練が作り上げた、揺るぎない貴族社会の安寧である。

 しかし、その静寂のなかに、大西洋を越えて運ばれてきた一つの「署名」が入り込んだ。

 インクの匂い。封蝋の重み。それは、新大陸の彼方に用意されたという、黄金の輝きに満ちた「帝冠」への招待状であった。

 メキシコ。その名前が欧州の宮廷に響くとき、そこには古代アステカの埋蔵金、広大な大地、そしてフランス皇帝ナポレオン三世の野心が生み出した、煌びやかで危うい幻影が張り付いていた。

 絶対者は、古き良きミラマールの潮騒を捨て、未知なる荒野へと漕ぎ出した。彼を運ぶ軍艦ノバラ号の帆が風を孕むとき、アドリア海の青い水面には、取り返しのつかない決別という名の白い航跡が刻まれていった。

 新大陸の港、ベラクルス。

 絶対者の軍靴が最初に踏みしめたのは、欧州の石畳ではなく、熱帯の湿気と黄色い砂塵が舞う、見知らぬ土地の感触であった。

 太陽は容赦なく垂直に降り注ぎ、空気には饐えた腐敗臭と、名もなき異国の花々の強烈な香気が混ざり合っていた。出迎えるはずの熱狂的な群衆の姿はなく、ただ、サボテンの鋭い棘が乾燥した風に震え、遠くでハゲワシが弧を描く、拒絶に近い沈黙だけが広がっていた。

 帝都メキシコシティへと続く、長く過酷な行軍。

 豪華な馬車の車輪は泥濘に足を取られ、随行する欧州の貴族たちは、見たこともない巨大なサボテンの列に、自らの美学が通用しない世界の到来を予感していた。

 かつてアステカの神殿が聳えていた場所を、大理石とステンドグラスで塗り替えようとする試み。チャプルテペックの丘に築かれたカスティーリョは、絶対者の命により、ウィーンの宮廷を模した優雅なテラスと、幾何学的な庭園で彩られていった。

 しかし、その白亜の城の足元に広がるのは、何千年ものあいだ、太陽と土に忠誠を誓ってきた民衆の、どす黒く淀んだ沈黙であった。

 絶対者が真に愛したのは、軍事的な制圧ではなく、啓蒙主義的な「美しき統治」であった。

 宮殿の書斎。そこでは、何千もの条文が、流麗なインクの文字で羊皮紙に刻まれていった。

 奴隷制の廃止、労働時間の制限、そして先住民たちの権利の保護。

 カリカリと音を立てるペン先。それは、ハプスブルク家の高貴な理想が、メキシコの乾いた大地に染み込もうとする微かな音であった。

 しかし、その法典が届くよりも先に、帝国の辺境からは「銃声」という名の異質な言語が聞こえ始めていた。

 山岳地帯に潜む、黒い帽子と白い麻の服を纏った共和国軍の兵士たち。彼らの手に握られていたのは、洗練された法典ではなく、泥に汚れた古い小銃であった。

 絶対者がウィーン風のワルツを奏で、シャンパングラスを重ねる宮廷の夜、城壁の外では、馬の蹄が荒野を叩く音と、自由を叫ぶ名もなき者たちの呻き声が、不気味な地鳴りのように響いていた。

 崩壊は、潮が引くように、音もなく始まった。

 海を隔てたフランスから、支援という名の生命線が断ち切られたのである。

 撤退するフランス軍の太鼓の音が、帝都の街路から少しずつ遠ざかっていく。残されたのは、不釣合いな欧州風の軍服を纏った少数の兵士たちと、あまりにも広大で制御不能な荒野、そして、かつてアドリア海で見た幻影に縋り続ける絶対者の孤独だけであった。

 最愛のカールロタは、狂気という名の深い霧の中へと沈み込み、助けを求めるために欧州へと戻ったまま、二度とその姿を現すことはなかった。

 広大なチャプルテペックの城内に響くのは、主を失った部屋のカーテンが風に揺れる音と、孤独な絶対者が大理石の床を踏みしめる、力ない足音だけであった。

 最後の戦場。ケレタロの街。

 そこを包囲したのは、共和国軍の圧倒的な物量と、砂漠の太陽が焼き尽くした執念であった。

 絶対者は、城塞のなかに閉じ込められ、次第に汚れていく白いハプスブルクの軍服を見つめていた。

 水はない。食料もない。聞こえてくるのは、絶え間なき砲撃音と、傷ついた兵士たちが喉を鳴らす音、そして、サボテンの間を吹き抜ける熱風の咆哮。

 ついに、帝国の最期を告げる「裏切りの鍵」が、重い城門を開いた。

 鋼鉄の閂が外される鈍い音。なだれ込んできたのは、埃にまみれ、汗の匂いを漂わせた共和国軍の兵士たちであった。

 絶対者の手から零れ落ちたのは、黄金の指揮杖ではなく、泥に汚れたハンカチであった。

 1867年、六月十九日の早朝。

 ケレタロの郊外、「鐘のセロ・デ・ラス・カンパナス」。

 そこには、三つの簡素な十字架が立てられていた。

 太陽はまだ昇りきらず、大地は冷ややかな青紫色の影に沈んでいる。空気は凛として冷たく、遠くで教会の鐘が、この世の終わりを告げるような乾いた音を響かせていた。

 絶対者は、処刑場へと向かう馬車の中で、自らの金色の髭を整え、純白のワイシャツの襟を正した。そこには、一国の王としての尊厳よりも、ひとつの「悲劇の完成」へと向かう役者のような、透明な静寂が宿っていた。

 丘の上に立った彼の前に並んだのは、七人の兵士たち。

 彼らが構える小銃の銃身が、朝陽を反射して鈍く光る。

 絶対者は、傍らに立つ兵士に、数枚の黄金の硬貨を手渡した。

 「私の胸を狙ってくれ。顔は傷つけないでほしい。母が悲しむから」

 その言葉は、もはや命令ではなく、ひとつの切実な願いであった。黄金のコインが兵士の掌に落ちる、チャリンという小さな金属音。それが、この帝国が支払った最後の代償であった。

 沈黙。

 丘を吹き抜ける風が、絶対者のブロンドの髪を優しく揺らす。

 遠くで小鳥の囀りが聞こえ、サボテンの花が鮮やかな赤を誇示するように咲いている。

 「狙え」

 指揮官の掲げた刀が、空を斬る。

 ドン、という腹に響くような一斉射撃の轟音。

 硝煙が朝の光の中に白く広がり、次の瞬間、絶対者の肉体は重力に従い、ゆっくりとメキシコの乾いた土の上へと倒れ込んだ。

 純白のシャツに、急速に広がっていく真紅の斑点。

 それは、ミラマールの海辺で夢見た黄金の帝冠が、赤い血という名の現実へと還元された瞬間であった。

 ハプスブルク家の絶対者は、自らの血でメキシコの土を濡らし、ようやくこの異国の地と、物理的に一体となったのである。

 その後、絶対者の骸は、長い時間をかけて欧州へと戻された。

 防腐処理を施された肉体は、かつての威厳を失い、まるで蝋人形のような無機質な質感を湛えていた。

 ウィーン、カプツィーナー納骨堂。

 歴代の皇帝たちが眠る、冷たく暗い地下室。

 重厚な金属の石棺の中に収められた絶対者は、ようやく、アドリア海の潮騒に似た、古き欧州の沈黙の中に帰還した。

 しかし、メキシコの丘に残された血の跡は、雨に洗われ、風に削られながらも、大地の記憶の一部として深く刻み込まれた。

 今日、ケレタロの「鐘の丘」には、小さな礼拝堂が建ち、サボテンが当時と同じように鋭い棘を天に向けている。

 かつて欧州から運ばれてきた、あまりにも高貴で、あまりにも場違いな帝冠の物語。

 風が丘を吹き抜けるとき、人々はふと、小銃の撃鉄が落ちる「カチッ」という音と、その直後の圧倒的な静寂を思い出すことがあるという。

 砂漠の太陽は、今日もかつてと同じように、無慈悲なほどに眩しく、丘の上の十字架を照らし出し続けている。

 それは、美しき理想と、冷酷な現実が交差した場所に咲いた、赤く、そして孤独な、一輪の徒花のような記憶であった。

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