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第11話 湖上の水上都市と浮遊する羽根(モクテスマ2世 / アステカ帝国)

 海抜二千メートルの高地、雲に近いその盆地を支配していたのは、人智を超えた調和と、極彩色の沈黙であった。

 テスココ湖の青く澄んだ水面に浮かぶ、白亜の巨塔群。テノチティトラン。それは、地上のいかなる都市とも似ていない、水の上の曼荼羅であった。湖を十文字に切り裂く巨大な石造りの堤道つつみみちは、都市の心臓部へと正確に伸び、その周囲には「チナンパ」と呼ばれる浮き庭が、緑の絨毯のごとく整然と広がっている。

 早朝の霧が晴れるとともに、運河を無数のカヌーが滑るように進み出す。漕ぎ手が操る櫂の音がパシャリと水を叩き、その微かな飛沫が、太陽の光を浴びて真珠のように輝く。市場に並ぶのは、色とりどりのトウモロコシ、カカオの豆、そして南方の密林から届いたばかりの、息を呑むほどに美しいケツァールの羽根の束であった。

 この水上の楽土を統べる「大いなる話しウエイ・トラトアニ」は、神そのものの化身として、地上のいかなる汚れからも隔絶されていた。

 彼が歩むとき、その足が直接大地に触れることは許されない。付き従う臣下たちが、その足元に絶えず贅を尽くした絹の布や、芳香を放つ花びらを敷き詰め、黄金の箒で塵を払い続けるからである。

 彼が身に纏うのは、一万枚にも及ぶケツァールの尾羽を編み込んだ、巨大な頭飾り。深緑の羽根は、わずかな風にも波打ち、翡翠の輝きと混ざり合って、皇帝の周囲に超自然的なオーラを形成していた。耳には金象嵌の耳飾り、胸には蛇を模した大振りな翡翠のペンダント。その重厚な装飾品が奏でる乾いた金属音と、沈黙を強要する皇帝の存在感。

 彼が視線を向けるだけで、屈強な戦士たちも、知恵を誇る神官たちも、道端の草木が風に伏せるように、音もなく平伏した。そこには、言葉による統治を超えた、絶対的な「秩序の体現」があった。

 都市の中央に聳え立つのは、巨大な双子の神殿を戴く「大神殿テンプロ・マヨール」である。

 空を突くような石の階段を、一歩ずつ、重い足取りで登っていく祭列。神殿の頂上から響いてくるのは、巨大な太鼓「テポナストリ」の地鳴りのような鼓動であった。ドーン、ドーンという重低音が、湖の水を震わせ、人々の鼓膜に死の予感を刻み込む。

 その頂上で繰り広げられるのは、宇宙の運行を維持するための、凄惨なまでの献身であった。

 黒曜石の刃が太陽の光を反射し、次の瞬間、生暖かい朱色の奔流が石の階段を流れ落ちる。

 太陽は、血という名のエネルギーを喰らわねば、翌朝昇ることができない。アステカの人々にとって、犠牲の血は残虐の象徴ではなく、明日という日を買い取るための切実な代償であった。階段を赤く染める血の匂いと、絶え間なく焚かれる没薬の煙。それらが混ざり合い、テノチティトランの空気は常に、甘美で鉄臭い、独特の重みを帯びていた。

 しかし、その「第五の太陽」の時代に、回復不能な不協和音が混じり始める。

 ある夜、東の空を切り裂いたのは、尾を引く巨大な流星であった。それは天を焼く巨大な柱のように見え、翌朝になってもその残像は人々の網膜から消えなかった。

 さらに、風もないのにテスココ湖の水が激しく波打ち、白亜の神殿の壁に不気味な亀裂が走る。

 皇帝の耳に届くのは、深夜の路地裏で女が泣き叫ぶ「我が子らよ、どこへ逃げればよいのか」という、実体のない慟哭の声。

 予兆。

 かつて海へ去り、いつか白い肌の神として戻ってくると予言された「ケツァルコアトル」の再来。皇帝の瞳には、かつての冷徹な光に代わり、底知れぬ「運命への諦念」が宿り始めていた。彼は、宮殿の奥深くで沈黙を守り、東の海から届くという不穏な報せを、ただ震える手で待っていた。

 そして、ついに「それ」が姿を現した。

 東の水平線に浮かんだのは、巨大な羽根を持つ白い山のような、見たこともない異形の船であった。

 海岸に降り立ったのは、太陽を反射する「硬い肌」を持つ男たち。

 彼らが跨る、四つの足を持つ巨大な獣(馬)。その獣がいななき、鉄の蹄が大地を叩くたびに、アステカの使者たちは震え上がった。

 さらに、雷鳴よりも激しい轟音とともに火を噴く、鉄の筒。煙が立ち込め、一瞬にして巨大な樹木が粉砕される光景。

 アステカの黒曜石の刃に対し、彼らが手にしていたのは、灰色の冷光を放つ「鋼鉄」の剣であった。それは触れるものすべてを切り裂き、いかなる盾も通さない、異世界の暴力の結晶であった。

 皇帝モクテスマと、異邦の将軍。二つの世界の激突は、テノチティトランへと続く長い堤道の上で、静かに行われた。

 皇帝は黄金の輿に乗って現れた。その周囲を埋め尽くすケツァールの羽根と、極彩色の織物。

 対する異邦の男たちは、錆びた銀色の鎧を纏い、汗と埃と馬の匂いを漂わせていた。

 翡翠と黄金を尊ぶ文明と、鉄と火薬を信じる文明。

 皇帝が異邦人を「神」として迎え入れたとき、都市の空気は一変した。

 宮殿に足を踏み入れた男たちの瞳には、アステカの美学や宗教への敬意など、一片もなかった。彼らの視線が捉えたのは、神像を飾る黄金の円盤であり、壁を彩る金細工の細工物であった。

 アステカにとって黄金は「太陽のテオクトラトル」、すなわち神の排泄物としての神聖な物質であった。しかし、異邦人にとってそれは、物理的な欲望を果たすための、ただの「通貨」に過ぎなかった。

 神殿の奥から運び出される黄金の装飾品。それらは異邦人の手によって容赦なく槌で叩き潰され、無機質な金の延べ棒へと溶かされていった。幾千年の歴史と信仰が込められた芸術品が、音を立てて破壊され、価値を剥ぎ取られていく。それは、ひとつの文明の魂が殺害される、静かな屠殺の儀式であった。

 皇帝は、自らの宮殿に幽閉される身となった。

 かつて、彼の歩む道を清めていた臣下たちは、今や背を向けて立ち去った。

 神としての威光を失い、ただの「囚われの王」へと成り下がった皇帝。

 悲劇の絶頂は、自らの民衆からの拒絶として訪れた。

 騒乱を鎮めるために宮殿の屋上に現れた皇帝に対し、民衆が投げつけたのは、祈りの言葉ではなく、憎悪を込めた石礫であった。

 鈍い音とともに皇帝の額を砕いた石。

 崩れ落ちる皇帝。その極彩色の羽根飾りが、自らの血で赤黒く染まっていく。

 数日後、宮殿の片隅で冷たくなった皇帝の遺体には、もはや黄金の装飾品も、敬意ある埋葬も与えられなかった。その骸は、異邦人によって人知れず運び出され、運河の汚泥の中へと投げ捨てられたとも伝えられている。

 その後、テノチティトランを襲ったのは、火薬の煙よりも残酷な「目に見えない死」であった。

 異邦人が持ち込んだ天然痘。

 かつてあれほど活気に満ちていた水上都市は、呻き声と、死臭の漂う巨大な病室へと変貌した。

 戦士たちは戦う前に病に倒れ、神官たちは祈る術を失った。

 最後の大攻勢。

 異邦人の大砲が、白亜のピラミッドを粉々に粉砕する。

 堤道は崩落し、運河は死体で埋め尽くされて水の流れを止めた。

 アステカの誇りであった湖上の曼荼羅は、数週間のうちに、瓦礫と死肉が散乱する不毛の焦土へと姿を変えたのである。

 戦いが終わった後の静寂。

 かつて太陽を養うために流された血は、今や都市そのものを滅ぼすための、無意味な赤い水溜まりとなっていた。

 テスココ湖は、異邦人たちの手によって少しずつ埋め立てられ、水の都は土の下へと封じ込められていった。

 神殿の石材は、新しい神を祀るためのカテドラルの礎石へと転用された。アステカの神々の浮彫は、暗い地下で逆さまに据えられ、二度と日の目を見ることのない闇の中へと押し込められた。

 今日、巨大なメキシコシティの地下深く。

 アスファルトとコンクリートの下には、今なおテノチティトランの残骸が、深い沈黙とともに眠っている。

 時折、地下鉄の工事現場から、巨大な石の円盤カレンダリオや、翡翠の仮面が掘り出されることがある。

 それは、失われた「水の帝国」が、現代の喧騒の下で今なお微かに呼吸を続けている証。

 風が街を吹き抜けるとき、ふと、湿った湖の匂いと、かつて皇帝が纏っていたケツァールの羽根のざわめきが、陽炎のように立ち上ることがある。

 しかし、その音はすぐに、鋼鉄とアスファルトが立てる近代の轟音の中へと掻き消されていく。

 湖上の宝石と呼ばれた都市は、歴史という名の深い泥の中に沈み、ただ、空高く舞う鳥の影だけが、かつての絶対者の孤独な魂を追いかけるように、青い空を横切っていくだけであった。

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