第1話 水銀の河と兵馬の沈黙(秦の始皇帝)
黄土の平原を、鉄と血の匂いが幾星霜にもわたって覆い尽くしていた。
戦車の車輪が巻き上げる乾いた土埃が空を黄色く濁らせ、青銅の剣が交わる鈍い音が絶え間なく響き渡る。五百年続いた殺戮の時代。七つの巨大な獣が相争うかのような大陸の混沌は、やがて漆黒の旗印の下にただ一つの巨大な影へと呑み込まれていった。
黒色を尊ぶその国は、西の辺境から怒涛のごとく溢れ出し、六つの国の国境を物理的に、そして概念的に踏みにじった。かつて異なる名で呼ばれた川はひとつの帝国の水脈となり、異なる掟で縛られていた土地は単一の法網によって覆われる。
王という古くからの呼称はもはや生温く、天上の神格である「皇」と「帝」を繋ぎ合わせた、いまだかつて誰も名乗ったことのない絶対的な称号が、この世界に誕生した瞬間であった。
平原に無数に刻まれていた轍は、ある日を境にひとつの規格へと統一されていく。
異なる幅で作られていた馬車の車軸は切り落とされ、帝国全土の街道に、ただ一定の幅の深い轍だけが延々と刻まれ続ける。それは大地に刻まれた巨大な縛めのようであった。
街の市場では、形も重さもバラバラだった貨幣や分銅が炉に投げ込まれる。ドロドロに溶けた青銅は、やがて全く同じ形、全く同じ重さの規格品として冷え固まる。竹簡に書き込まれる文字の形さえもが、ただ一つの書体へと削り取られていく。曲線は直線へと矯正され、異なる文化が育んだ無数の表現は、漆黒の墨によって画一的な記号へと塗りつぶされていった。
人間の感情や思考の揺らぎすらも、測量器具で測るかのように厳格に裁断されていく。風が吹き抜ける広場には、法を記した巨大な石碑が重々しく沈黙を守り、それを見上げる無数の顔には、畏怖という名の均質な仮面が張り付いていた。
やがて、空を焦がすのは戦火ではなく、知識を焼く炎となる。
宮殿の広場に山と積まれたのは、古の思想、歌、歴史を記した無数の竹簡である。火が放たれると、乾いた竹が爆ぜる鋭い音が夜の闇を引き裂いた。パチパチという音とともに、幾千の知恵が赤い舌に舐め取られ、黒い灰となって夜空へ舞い上がっていく。風に乗って流れるのは、焦げた木と漆のむせ返るような匂い。歴史が、過去が、帝国にとって不都合な記憶が、物理的な熱量をもって燃え尽きていく情景。
炎の周囲には、それを絶望の眼差しで見つめる者たちの影があった。だが、その影たちもやがて、冷たい土の底へと消えていくことになる。
深く掘られた巨大な穴。そこに投げ込まれるのは、書物と共に不要とされた思想を抱く者たちである。生きたまま降り注ぐ黄土。土が落ちる鈍い音。地表が平らに均される頃には、異端の思想は完全に地下深くへと埋葬され、地上にはただ、風の音だけが残された。不気味なほどの静寂が、帝都をすっぽりと包み込んでいた。
視点を北の辺境へと移せば、そこには果てしなく続く荒涼たる山脈と砂漠が広がっている。吹き荒れる北風は刃のように冷たく、大地を凍らせる。
この不毛の地に、地平線の彼方まで続く巨大な石の蛇が這いずり始めていた。北の騎馬民族という「外なる脅威」を遮断するために築かれる、長城である。
切り出された巨大な石、突き固められた土。それらを運び、積み上げる無数の影たち。痩せこけた手足、泥にまみれた背中。彼らは声を発することなく、ただ黙々と石を動かしている。鞭の音が空気を裂くたびに、影のひとつが地に伏し、二度と立ち上がることはない。
行き倒れた骸は、そのまま壁の礎石の隙間へと投げ込まれ、上から土が被せられる。石の灰色と土の黄色に、白い骨が混ざり合っていく。それは建造物というよりも、幾百万の死肉を喰らって伸びていく巨大な呪術的な防壁であった。吹き抜ける風は、壁の隙間を通り抜ける際に笛のような哀音を響かせる。それは土に埋もれた者たちの声なき慟哭のように、北の大地を永遠に彷徨い続けている。
生の世界を強固な法と壁で囲い込んだ絶対的な権力は、やがて「死後の世界」をも自らの支配下に置こうと渇望する。
帝都から東へ下った山の麓。そこでは、地上を凌駕するほどの巨大な地下空間が抉り出されていた。
釜から立ち上る黒煙が空を覆い、灼熱の炎の中で焼き締められていくのは、無数の土の兵士たちである。等身大に象られた兵馬俑。一体一体、顔立ちも髪型も異なる精巧な造形でありながら、その瞳には光がなく、ただ冷たい虚無を湛えている。
整然と立ち並ぶ八千の土の軍団。歩兵、弩兵、騎兵、そして戦車。彼らは生者の軍隊のように陣形を組み、東方に向けてじっと沈黙を守っている。彼らが手にしているのは、本物の青銅の武器だ。鋭く研ぎ澄まされた刃は地下の微かな光を反射し、鈍い輝きを放っている。軍馬のいななきも、兵士の鬨の声も聞こえない。ただ、永遠に続くかのような無音の圧迫感だけが、その巨大な坑道を満たしている。土の兵士たちは、来るはずのない敵を待ちわびるかのように、ただ静かに、幾星霜の時を睨み据えていた。
さらにその奥、巨大な封土の下には、狂気とも呼べる規模の地下宮殿が広がっている。
天井には夜明珠(発光する宝石)が嵌め込まれ、永遠に瞬くことのない偽りの星空を形成している。そして眼下に広がるのは、帝国の領土を模した巨大なジオラマ。しかし、そこを流れるのは水ではない。
銀色に妖しく光り輝く、水銀の河である。
長江と黄河を模した水銀の大河が、機械仕掛けによって永久に循環し、地下の大海へと注ぎ込んでいる。水銀の表面は滑らかで、星空の光を不気味なほど鮮明に反射している。空間には、生者を死に至らしめる猛毒の気化ガスが充満し、何人たりとも立ち入ることを許さない絶対的な不可侵の領域を形成していた。
永遠の命を求めた絶対者の魂は、この毒の河の中央に浮かぶ巨大な銅の棺の中で、一人静かに眠りについているのか。生前、あれほどまでに恐れた「死」から逃れるために築き上げたのは、皮肉にも、死そのものを結晶化させたような毒と沈黙の宮殿であった。
時が経つ。
季節は巡り、灼熱の太陽と凍てつく雪が大地を交互に覆う。
絶対的な権力は、それを手にした者の肉体が滅びた瞬間に、音を立てて崩壊していく。
広大な大陸を巡行する豪奢な馬車の列。しかし、その中から漂ってくるのは、生ける神の威光ではなく、腐敗した死臭を誤魔化すための、大量の塩漬けの魚の強烈な生臭さであった。生きているかのように偽装されたまま、かつての絶対者の骸は自らが整備した果てしなく続く直線道路を、ただの肉の塊として運ばれていく。
やがて、黒き帝国を象徴していた巨大な宮殿群は、反逆の業火に包まれる。三ヶ月もの間燃え続けたという炎は、天を焦がし、豪華絢爛な大黒柱も、精緻な彫刻も、すべてを灰燼に帰した。
焦土と化した帝都に、かつての威容はない。
残されたのは、風化していく巨大な土台の跡と、大地に刻まれたままの轍だけである。
そして、深い地下の闇の中。
頭上の世界で帝国が滅び、いくつもの王朝が興っては消え、歴史の歯車が狂ったように回り続けても、彼らは決して動かない。
水銀の河は音もなく流れ続け、八千の土の兵士たちは、闇の中でただ東を見据え続けている。
その瞳に光が宿ることはなく、その青銅の剣が振るわれることもない。
ただ、圧倒的な沈黙だけが、皇帝という名の巨大な幻影の残滓として、冷たい土の下に閉じ込められている。帝国という概念を初めてこの世に生み出した孤独な魂は、水銀の毒気に守られながら、誰に触れられることもなく永遠の時を漂流し続けていた。




