佐倉君と竹内先生
「で、話ってなに」
教師生活三年目。教え子がタメ口を利いてくることに違和感はなくなった。
まあ俺もそうだったし、そうする先生のことは好きだったから、悪い気はしない。
「佐倉さ、最近中村と一緒に居ないみたいだけど、喧嘩でもしたのか?」
「あー……」
佐倉は「なんだそのことか」と言うように、パイプ椅子にもたれて言葉を濁した。
「……そんなんじゃないよ」
「そんなんじゃない。けど?」
俺が食い下がると、佐倉はハッキリとため息を吐いて、不憫そうに俺を見上げた。
「先生ってそんなことまでフォローしなきゃなんないの? 俺ら小学生じゃないんだよ?」
そうだよね、ごもっとも。
「俺が気になるだけだから、言いたくないならそれでもいい」
耳障りのいいことを言ってるわけじゃなくて、本当にこれが本音だった。
事細かに追及するつもりもない。でも、見ていると伝えることには意味がある。揉め事であれば牽制にもなるし、ずるい意味で言えば俺自身のアリバイにもなる。
佐倉の視線が俺の顔とテーブルでうろうろとしたあと、唇が離れた。
「別に大したことじゃない。俺とあいつが違うってのが分かって、それで」
「違うってなにが?」
「はぁー」
しつこいなあという本音を隠しもしない佐倉に、じっと聞く姿勢を取り続けると、口を結んだ佐倉は、いくつか言葉を選ぶ間を取ってからまた口を開き、
「あれだよ、価値観ってやつ」
そう言って、少し不自然に感じるほど綺麗に整えられた眉を持ち上げた。
「価値観」
なるほど、価値観か。そう言われたら話は終わりだ。価値観が違えば大人だって離婚をする。
「それで、今はどういう状態?」
「距離を取ってる。価値観がぶつからないようにさ」
「じゃあ、深刻なことが起こってるわけじゃないんだな?」
「深刻? ああ、いじめとかじゃないよ」
「そうか、ならよかった」そう言おうとしたところで、佐倉の視線が横に流れたのが引っ掛かった。
つっけんどんな口調の向こうに、寂しさが垣間見えた気がした。
こういう生徒同士の物別れは珍しい事ではないけど、放って置けないほどには近ごろの佐倉には笑顔がなかった。
「……でも、お前だけ一人で居るよな?」
返ってきた鋭い視線に、俺はまたじっと堪えた。
「俺は一人が気楽なの。みんなはそれを尊重してくれてるだけ」
教え子の横顔を見ながら、佐倉の言葉と自分の心を整理する。
最近の中村は、宮西や大江、綿谷と一緒につるんでいる。でも佐倉は一人だ。
価値観が違ったって言うんだから、きっと喧嘩くらいはしたんだろう。詳しくは分からないが、距離を取ったのは賢明だ。
それに佐倉が言うように、周りが佐倉を孤立させているようには見えない。宮西たちは佐倉を無視していないし、他のクラスメイトも普通に声を掛けているのを見る。
みんな中村と佐倉になにかがあったことは察しているが、そのことと自分たちは別だと割り切っているようだった。
年々子どもたちの精神年齢は上がっている。下がっている項目ももちろんあるが、感心する機会は多い。
俺も大人らしく彼らに任せて静観するべきだろうか。でも、それで俺は離婚になったしな。
あまりに個人的な経験を基に生徒との関わり方を迷う自分に、つい「ふっ」と鼻が笑ってしまった。
「なに」
すっと目を細めた佐倉に、俺は「いや」と首を振った。
「俺より君たちの方がずっと大人だなって思って」
「はあ?」
首を傾げた佐倉の髪の隙間から、銀色のイヤーカフがチラッと光る。
「みんなは佐倉をそっとしてあげられるみたいだけど、俺は価値観の違いがなんだったのかが気になるなって」
「ああ、そういうこと」
「そう」
佐倉はまた少し間を取った。ツンとしていた表情は素に戻り、そのことについて考えているのが分かった。
きっと考えたくなかったろう。中村と距離を取ることで収めたのに、俺が掻き回して申し訳ない。
「……みんなも初めは聞いてきたよ。でも、俺たちのことだからって中村がきっぱり言って、それからはみんな普通」
俺の欲しかった質問の答えではない。やっぱり言いたくないのかな。この辺で引くべきか。
「やっぱりみんな大人だね」
「先生は気になるんだ」
「そりゃあね。だから今だってこうしてわざわざ呼び出してる」
「暇じゃないのにね」
「もちろん暇じゃない」
皮肉に同意してやると、佐倉が座りを直しパイプ椅子がキチキチと音を立てた。
「さっきも言ったけど、言わなくてもいいよ。問題が起こってないっていうなら」
また深いため息が佐倉の口から吐き出された。でもそこにさっきまでの煩わしさは含まれていなかった。
「起こってないよ。ただ、俺が男が好きってだけ」
「ふーん……ん?」
理解より先に疑問が来て、そんな俺を佐倉が鼻で笑った。
「俺の恋愛対象と性欲の対象が男だって中村に話したら、ちょっと受け入れられないって距離を取られた」
「…………」
大切な打ち明け話の後に長い間を作るのはよくないと頭の片隅では分かっていたが、佐倉があまりにさらりと言うもんだから、中々頭が整わなかった。
「中村に、告白したってこと?」
俺の難しい顔を見てか、佐倉がぶふっと噴き出す。
「いいや。ただのカミングアウト。俺はでっかい男が好きだからさ、中村は俺より小さい。ま、それも悪かったんだけど」
「それもって?」
飲み込めないまま情報が増えていく。それをなんとか抱えながら、話の流れを止めないよう声色に気を遣う。
「中村にさ、俺のこともそういう風に見られるってことかって聞かれて、なんか慌てちゃってさ。友達だよって言えばよかったのに、自分より10センチは大きくないと対象外って言っちゃったんだよね」
佐倉の右手が神経質な動きで左の耳の後ろを掻き始め、その瞬間の居た堪れなさがこちらにも伝わってきた。
「それってさ、あいつが好きな子に告白して振られたときに言われた言葉だったんだ。もう少し身長があったらーって。あのとき俺はありきたりな言葉であいつを励ました。見た目なんか重要じゃないとか、その子は分かってないとか言って。だから、それで」
「そうかー……」
「ゲイだって話したら、前に吐いた嘘まで自白しちゃった。でもさ、実際見た目って重要だろ? ピンポイントじゃなくても、好みの範囲内じゃないとさ」
佐倉は軽い調子で肩を竦めて見せたが、恐らくそのカミングアウトは中村との友情のためにしたんだろうし、同じく友情のためにと慌てて失言してしまったんだろう。
きっと後悔している。だから佐倉は一人でいるんだ。
「そいうことがあってのこの状態なの。あいつは俺がそうだってバラさないでいてくれてる。だから、問題なし」
「わかった」
「じゃ、もういい?」
「いいよ」
室内の電気を消して引き戸を引くと、夕暮れが廊下をオレンジ色に染めていた。
「遅くなってごめんな」
「いいよ、俺の委員会のせいだし」
「俺の電話も長引いたから」
お互いに謝りあって、ふと佐倉の唇が中途半端な形で止まった。
「どうした?」
「……先生って身長なんぼ?」
毎日会っているのに今更身長を問われ、俺は疑問に感じたまま、「184」と最新の健康診断の結果を伝えた。
「げ」
ぎょっと身を引いた佐倉に、俺もつられて後ずさる。
「なに?」
「いやー……丁度10センチ差だなーって思って」
決まり悪そうに視線を泳がせた佐倉に、俺は思わず噴き出してしまった。
「佐倉の好みに一致してたか」
「いや先生とかマジで無理だし!」
照れくさそうな佐倉が、ぷいっと顔を背ける。
「教え子とかマジで無理だし」
真似して返すと、何故かムッとした顔が振り返って、俺はまた笑ってしまった。
とつとつと階段を鳴らしながら下っていると、「ほんとはさ、分かんないんだ」と、空気を含むような佐倉の声が背後から届いた。
「なにが?」
振り返った先で、夕焼けで髪を染めた佐倉が顔に影を落としている。
「まだ、ちゃんと好きになったことないから」
筋張った指先が背負ったリュックの肩ひもをぎゅっと握っている。今にも陰陽に飲まれてしまいそうな細い声が、また大切な告白をする。
「男の人を?」
そっと寄り添う気持ちを持って、小さく頷く佐倉に身体を向けた。
まだよくわからないまま、一番身近な友人にカミングアウトをして、その友人を失ってしまったのか。
可哀想に。
口の中で呟くと、全身が染みるように痛んだ。
今にも佐倉の輪郭が夕陽に燃え尽くされてしまうんじゃないかと思えて、俺は慌てて手を伸ばした。
「俺の好きなエロ動画の男優がさ」
「え?」
物憂げな雰囲気を破壊する言葉を耳に留めて、浮いた手がはたと止まった。
「身長184センチだったんだよね」
伸ばしかけた手で額を抱えた。
「佐倉……年齢制限は守って」
「フルじゃないよ。ちょこっとだけのやつ」
軽い口調に罠に掛けられたような気持ちがする。なんだったんださっきの空気は。
「サンプルも駄目だよ」
「しょうがないじゃーん? 興味の尽きないお年頃だし」
「まったく……」
「先生だって見てたくせに。サンプルとか言っちゃってさ」
トントンと階段が鳴って、隣に並んだ佐倉がピッタリ10センチ下方から悪戯な顔で見てきた。
「まあ…………見てたよ」
「ほらね!」
はあ、生徒に言質を取られてしまった。でも、久しぶりに歯を見せて笑う佐倉を見られたのは良かった。
「そうだ先生! 俺ひとつ悩んでることがある」
「なに?」
「ちょっとさ、ハグしてくんない?」
「は?」
「ハグだよ。ぎゅって」
隣に立つ佐倉の両腕が俺を挟むように前後に伸びた。
「ど、どうして?」
細い階段の踏面をじりと後ずさると、それを追うように両手を伸ばした佐倉が一歩俺を追い詰める。
「多分俺、ネコちゃんなんだよねー」
「ネコちゃん?」
にゃーん。
家にいる愛猫のシュシュが耳の奥で鳴き声を上げた。可愛いと癒された瞬間、直ぐにそれがゲイのポジションの呼び名だと思い出した。
「ああ、ネコね」
「でも実際のところどうなんだろうって。アナニーは気持ちいけど、ちんこだって気持ちいいし。でかい男に抱かれるのも興味あるけど、でかい男を抱くのも同じくらい興味が――」
「わわわわわわっ!!」
俺は慌てて佐倉の肩を揺さぶった。
「なに?」
「なにじゃない! 急に色々打ち明けるな!」
「え?」
「えじゃなくて!!」
「でかい男が好みなのは確定してんの。せんせーくらいの。だからー、ハグして?」
さすがに言葉がなくなって、背後に壁の気配を感じて身動きも取れなくなった。
佐倉の両腕が俺の肩に乗っかって、俺の両手は佐倉の両肩を握っている。望まれたハグまでもう10センチもない。
「よくわかんないままじゃさ、不安なんだよ」
「…………」
こういうシミュレーション、講習でやったな。100%断るべきだろって設問ばっかりだった。でも今は、ただのハグで佐倉の問題が一つ解決するなら構わないと思える。
いつだって現実は想像よりも複雑だ。
「俺で抱かれたいか抱きたいかを判断するのか?」
「できないかもしんないけどさ、ちょうどいい機会じゃん?」
「佐倉……」
がっくりと肩を落とす俺を佐倉がけけけと笑う。
「お前、俺を舐めてるだろ」
「舐めてみてもいいと思うかもねーってか!」
「じゃあできないよ」
「いいじゃん。生徒のためだよ?」
佐倉が唇を突き出して、駄々をこねるように体を揺らす。
「俺の悩みって結構レアだろ? 誰にも相談できなかったんだよ。話した友達には距離取られるし。先生もいい経験になると思うよ? 他にハグ出来る男紹介してくれるならそれでもいいけど」
頼むよと続けられて、ふっと廊下から夕陽色が消えた。
まるで気を利かせたみたいに一瞬で薄暗くなった世界に、俺は背中を押されてしまった。
「一瞬だぞ」
「ぎゅーってしてよ? 手抜きなしで」
「手抜きなしね」
そっと緊張を吐き捨てたのは、大人としての矜持だった。いや、男としての、かな。
わざわざリュックを下ろした教え子の背中に腕を回した。
何時ぶりの抱擁だろう。あったかい。思ったよりも痩せているな。ちゃんと食べてるんだろうか。
一日30秒の抱擁が寿命を延ばすなんてのを見たことがあるけど、確かにホッとする。いや、俺がホッとさせてやらなきゃならないのか。
目を閉じると幾つかの一人ぼっちの佐倉の近影が浮かんで、腕に力が籠った。すると鼻先に微かな香水が漂い、その大人ぶった香りを追いかけると、もう少し抱擁が深まった。
「先生」
「うん?」
「先生のちんこが当たってる」
「当たってません」
「くくっ」
こいつはどうしていちいち雰囲気を壊すようなことを言ってしまうんだろう。中村にした失言も、こういう癖があるせいなんじゃないだろうか。慰める時も適当にありきたりな事を言ったとか話してたし。
「もういいか?」
俺が離れようと重心を動かすと、「もう少し」と佐倉の身体が寄り掛かってきて、「一瞬って言ったろ」と責めると、「人肌恋しいでしょ? 離婚して」と公にしてないはずの個人情報が耳に飛び込んできてギョッとなった。
「お前、なんで――」
「なにしてるんですかっ!!!」
なんでそれをと言いかけた俺を聞き覚えのある声が遮った。
パチッと階段室の電気が付いて、見下ろすとベージュのブラウスに朱色のカーディガンを羽織った宮川先生が目を丸くして立っていた。
「やーべ」
佐倉の言葉は宮川先生に届かなかっただろう。小さく笑ったのも。でもそれを合図にしたように猛然と階段を上がってきた宮川先生が佐倉と俺を引き剥がした。
「ちょ、待って下さい宮川先生!」
「いいえ待ちませんよ!! 佐倉君!! 早くこっちへ!!」
「いやー大丈夫ですよー」
のんびりという佐倉に俺は呆れたが、興奮した宮川先生はそんな佐倉を守るように背後に置いて、未だ階段に立つ俺をべっ甲縁の眼鏡の奥から睨みつけた。
「わかってますよ佐倉君!! もう大丈夫!! 竹内先生!! 生徒に手を出してただで済むと思わないでください!!」
「いや、違いますって!」
「違うってばー」
佐倉はやっぱりのんびりとしていたし、俺もどこかシリアスになり切れず、それが不誠実な印象を深めたのか、宮川先生のまなじりはますます吊り上がってしまった。
「それで、何がどう違うって言うんです」
俺と佐倉はテーブルに向かいあって座っていた。
会議室に俺、そして佐倉と宮川先生と教頭と学年主任。完全なる糾弾態勢。校長は出掛けていた。
「ええと、ですから」
「教頭先生、やっぱり佐倉君は別室にした方が!」
落ち着いたと思った宮川先生が、わっと思い出したように身を乗り出す。
「いやいいんです。俺が悪かったんです」
ようやく事態の深刻さを理解したのか、佐倉が真面目な顔で宮川先生を遮った。
「そんな風に思わなくていいのよ。あなたは何も悪くないんだから」
今にも泣き出しそうな宮川先生が顔を寄せてきて、佐倉は明らかに逃げ出す姿勢になった。俺はうっかり笑いそうになったが、さすがにここで言動を間違うのは職に関わる。いや、もうすでに危うい状態ではあるけど。
「そうじゃなくて、俺がハグして欲しいって言ったんです」
そっと息を吐いて佐倉が事実を語った。
「ハグ?」
「そうです」
「まあ、なにか悲しい事でもあったの?」
「その……」
俯く佐倉を三人の立場の違う教育者がじっと見守っている。俺はこの緩急の使い方が際どい教え子がなんと言うのか、こんな状況に立たされながらも、少し好奇心を持って待ってしまう。
「父の不倫が発覚しまして」
「まあっ!」
大人たちが息を呑んだ。もちろん俺も。
ここに来てなんていう嘘を。
俺は顔を覆ったが、三人は張り詰めた空気のまま佐倉に注目している。
「それでー、かなり落ち込んでて。なんかもう毎日がどうでもいいような感じになってて」
「なんてこと……」
多数決に負け、悲痛な空気が嘘と呆れを飲み込んでいく。
「そしたら先生が俺の様子がおかしいのに気付いて声を掛けてくれて、さっき相談にも乗ってくれて」
「あらあらまあ」
「でもこれから家に帰るって思ったら、ちょっと憂鬱になっちゃって」
「ええ、ええ」
宮川先生の頭が何度も大げさに揺れて、お団子を結ぶリボンも揺れた。
「それで俺から頼んで景気付けにハグしてもらったんです。だから、先生はなにも悪くないんです」
「そうだったんですか?」
佐倉の嘘に釣られた三人の大人が沈痛な面持ちで同時に俺を振り返った。
親の不倫に悩む生徒に景気付けのハグというのは大間違いな気がしたが、同意するしか術がない。
「まあ、私の行動としてはそうです」
嘘に乗るのはかなりつらい。でもここから佐倉の話を覆すのはかなり苦労しそうだ。
「そうですか、そういうことなら……」
ぼそぼそと三人の大人が円になって言葉を交わし始めた。その横で佐倉が小さくピースを出して、俺は笑いそうになる唇を齧った。俺の反応に、佐倉が顔面をくしゃくしゃにして肩を震わせている。
悪戯を誤魔化す共犯みたいになってしまった。でも、正直言ってさっきのハグは俺にもメリットがあった。
しょうがないと気持ちにケリをつけたつもりでいた。周りもそっとしておいてくれていたし、子どもがいなくて良かったじゃないかなんて言われて、そうだななんて笑って返して。本当はそれにも傷付いたくせに。
父親の不倫か。まさかあいつ、俺の離婚理由も知ってるんじゃないだろうな。
「では、今回は事情があったということで」
教頭先生がいつもの丸く収めるトーンでそう言った。
「それでも、他の生徒に見られて誤解を生んでからでは遅いんですからね、竹内先生」
宮川先生は変わらず厳しい口調だが、言っていることはもっともだ。
「はい。軽率でした」
ああ今日は早く家に帰りたい。帰ってシュシュの柔らかいお腹に顔を埋めてスースーと吸いたい。
「佐倉君」
学年主任が優しく佐倉を呼んで、すでに立ち上がっていた佐倉は持っていたリュックを椅子に置いた。
「はい?」
「お父さんのことはご家庭の問題なので、学校に出来ることはあまりないけれど、こうして担任の先生に打ち明けられたのはとてもいいことだと思います。自分の中に溜め込まず、スクールカウンセラーの先生もいらっしゃいますし、絶対に一人で思い悩んではいけませんよ?」
言い含めるような熟練者の口振りだった。これはさっき佐倉のカミングアウトがあった時に俺が言わなければいけなかったことだ。けど、こんな風に響かせることはできなかったろうな。
数秒言葉を失った佐倉が、ほんの少し下げた視線を滑らせるようにして俺を見た。俺が頷いて見せると、佐倉は微かに笑った。
「ありがとうございます」
三人の先生方へきっちりと頭を下げた佐倉に、俺も倣って頭を下げた。
「失礼しました」
二人で会議室を出て、すっかり暗い窓の外に目をやりつつ、並んで少し廊下を歩く。
「…………」
「…………」
「お前の父さんって――」
「してない」
「あ、そう」
やっぱり嘘か。まあしてたとしても嘘だけど。
「それで、俺をクビにしかけたハグはどうだった?」
「ああ」
佐倉はくくっと笑った後、「よかったよ」と意味ありげな声で言った。
「あっそ」
「どっちだったか聞かないの?」
歩みを速めた俺をぺたぺたと上靴が追いかけてくる。
「別に。佐倉が分かってればいいことだろ」
「えー冷たい」
「あ、それよりも、なんで俺のプライベート知ってんだよ」
俺が振り返ると、佐倉はあからさまに惚ける素振りでそっぽを向いた。
「佐倉。ちゃんと」
俺の引かない態度に、佐倉の肩がぴょこっと上がる。
「先生のマンションに偶然俺の親戚がいてさ」
「はー」
やれやれ、なんて世間は狭いんだ。
「ねねね、どうして別れちゃったの?」
歩き出した俺を興味津々の佐倉が追いかけてくる。
「そうやってプライベートをやすやすと聞き出そうとするな」
「いいじゃん。離婚の話だって誰にも言ってないよ?」
「俺にも言わないで欲しかったよ!」
ごめんごめんと言いながら、お腹を空かせた猫のようにまとわりついてくる佐倉は、今度はくんくんと俺の肩に鼻を寄せる。
「あーこの匂い、傷付いてる人間の匂いだ。さては浮気されたなー?」
ああ、こいつは本当に……。
俺は再び足を止め、教え子の悪癖についてなんと言ってやればいいかと思案していると、佐倉の表情に不安が差し込まれた。
――かなり落ち込んでて。なんかもう毎日がどうでもいいような感じになってて。
父親の不倫と言う大嘘の後に続いた言葉が、何故か今になって胸に響いた。
自分も少し前、そんな感じだった。
「あなたは悪くない」と言って、彼女は新しい恋人の元へと旅立っていった。
身に覚えのある高揚感。それを彼女は別の男に感じている。離婚してまで乗り換えるんだから、俺と感じていたものよりももっとずっと素晴らしい幸福が待っているんだろう。
いや、もしかしたら俺には感じていなかったのかもしれない。こんなもんかなんて妥協して俺と結婚した途端、特別に思える相手が現れたのかも。
なんにせよ気持ちが変わってしまったのなら、引き留めたって意味がない。
しょうがない、しょうがないと子どものように唱えながら毎日をやり過ごした。いつしか癒えたように思っていたのに。
「……先生? 怒った?」
すぐそこで困った顔の佐倉が俺を見ていた。振り回されてばかりだったせいか、やっと佐倉にそんな顔をさせられて、ついつい悪い気持ちが湧いた。
「怒ってるよ」
嘘じゃない。怒っている。人肌が恋しいって思い出させてくれて。
「えっと、ごめん……」
俺の演技に騙されたのか、困った顔で俯く佐倉に、もうひとつくらい言ってやろうと胸を張った。
「佐倉、お前は思ったことを口にする前に少し――」
まだ言葉の最中だったのに、ちょいっと肩に手が置かれたかと思うと、10センチを背伸びで追いついた佐倉の唇がふにっと頬に押し付けられた。
「俺、先生には抱かれたいみたい」
こそっと耳打ちをして、「また明日ね!」と佐倉の後ろ姿が階段を駆け下りて行った。
「あ……」
パタパタと上靴の音が遠ざかる。代わりに頬に触れた佐倉の吐息や唇の温もりが、じわじわと皮膚を抜けて体内に染みてきた。
佐倉の囁いた直接的な言葉が食べ物と同じ道筋で身体を下り、胃を通り過ぎて下腹部に落ちていった。
久しく眠っていた性欲が、チリッと刺激されたのが分かった。ゾクゾクと身震いがして、微かに熱を持った股関に額を抱えた。
「ああもう、あいつ……」
「あら? 竹内先生どうしました?」
後ろから宮川先生の声が掛かって、俺は慌てて職員室へ駆け込んだ。
神出鬼没の宮川先生。