婚活を始めた理由
* * *
「ノーディス! 次はこの夜会に行ってこい!」
「またかい、兄上」
ノックもなしに部屋のドアが開く。読書をしていたノーディスは顔を上げた。ちょうど今面白いところだったのに。まあ、訪問者が異母兄ウィドレットなら拒む理由はない。
勝手知ったるウィドレットは、傍のテーブルに招待状の山をどさりと置く。ノーディスはその中から何通かを適当に引き抜いた。
社交期になると、必ずウィドレットはシャウラ家宛てのパーティーの招待状をノーディスにだけ押しつける。自分で行くのが嫌だからだ。シャウラ家の異母兄弟、そのどちらかがパーティーやら晩餐会やらに出席していれば招待主は満足するので、ノーディスだけが応じていた。
「じゃあ、これで。他は断りの連絡を入れさせよう。あまり多くに出席しても、希少性が薄れるから」
「本音は?」
「面倒だから行きたくない」
口ではそう言うものの、ノーディスは強く拒まない。社交は確かに嫌いだが、別に苦ではないからだ。その重要性もよく知っている。ウィドレットに求められれば、よほどのことがない限り出席していた。
「時間を割くだけありがたいと思ってほしいよ。金だってないんだから」
冗談めかしてそう言うと、ウィドレットはからからと笑う。ノーディスが態度を取り繕わないのは、異母兄の前だけだ。
彼と二人きりでない時、ノーディスはいつも理想的な紳士の仮面を被る。誰に対しても人当たりがよく、親切で。ノーディスの本性を唯一知るウィドレットからは転身ぶりが不気味すぎると不評だが、幸い真実を吹聴されたことはない。
「いい加減兄上も、もっと社交に熱心になったらどうなんだい? 私が家を出たら、兄上の代わりに社交界に出ることもできなくなるけど?」
「アンジェが社交界デビューして、社交界に行くと言ったら行くぞ」
「行きたいと言わせるつもりは本当にある?」
「俺だって賭場や紳士クラブには顔を出して、きちんと人脈を築いているとも。パーティーはお前の領分というだけだ」
ノーディスが呆れたように一瞥すると、ウィドレットは意味ありげににやりと笑いながら話題をそらした。答える気はないらしい。
異母兄の、自身の婚約者に対する偏愛ぶりはよく知っている。王女アンジェルカを大事にするあまり、「他の男の目に触れるような場所にいさせたくはない」「いつも俺の隣にいればいいし、俺以外の者に向ける眼差しも言葉もいらないのに」と口癖のように言うぐらいだ。
幸い、アンジェルカは彼の束縛を苦に思ってはいないようなので、なんとかうまくやれているようではあるが……一歩間違えれば、王家から裁きを受けかねないほどの執着っぷりだった。ウィドレットの異常な愛情のせいでアンジェルカが害されるようなことがあれば、いくらシャウラ家が傍系王族とはいえ罰はまぬがれないだろう。
「これは俺の兄心なのだぞ、ノーディス。社交に出る機会を与えるのは、お前にも俺の女神のような女と巡り合ってほしいからなのだ。無論、アンジェに並ぶ女などこの世のどこにも存在しないが」
「余計なお世話」
ノーディスは読書に戻った。今年の社交期はまだ始まったばかりだ。恋だのなんだのにうつつを抜かすよりも、魔導学について最新の論文を読んでいたい。
だが、ウィドレットは中々退室しない。いつもなら、招待状を押しつけたらそれですぐに帰るのに。「さっさと出ていってくれる?」「そう急かすな、話は終わっていない」ウィドレットは咳払いをして言葉を続けた。
「実は……お前の母親が騒ぎ出していてな。お前を正式な跡取りにするべきだ、と」
「は?」
一瞬虚をつかれたノーディスだったが、すぐに嘲笑が浮かぶ。
「なに、あの人。恥知らずなのは元からだったけど、そこまで見境がなくなったんだ」
ノーディスの母親は浪費家だ。彼女の趣味は散財で、シャウラ領の宝石鉱山を過信しているせいか年々シャウラ家の資産を食い潰している。
ウィドレットと執行官が厳しく目を光らせているため領地への影響は出ていないが、シャウラ家自体の財政は決して健全とは言えない。見栄っ張りかつ妻を溺愛する父親には、家計を切り詰めるどころか妻を諫めるという発想はなさそうだった。実の親とはいえ振る舞いに問題のある両親のことを、ノーディスは軽蔑しきっている。
ノーディスと家族のつながりは希薄だ。両親の顔など、社交期の王都でしか見なかった。大学が夏季長期休暇に入るので、それを利用して王都に遊びに来たついでに顔を合わせるのがせいぜいだ。
ただし滞在先は、両親がいるタウンハウスではなく、別のタウンハウスを使っている。ハウスの所有者はウィドレットだ。自分は王女の婚約者だからできる限り彼女の傍にいたいと言い張ったウィドレットは、数年前から単身で王都と領地を─そして王族の保養地を─せわしなく行き来しながら暮らしている。だから彼のタウンハウスは、ノーディスが休暇のたびに転がり込む先としてちょうどよかった。
そういうわけで兄弟は一足先に王都入りをしていたが、両親はまだ着いたばかりなのだろう。今期はまだ顔を合わせていなかった。
ノーディスは九歳のころから、領地を離れて遠方の寄宿学校に一人で通っていた。学術都市の呼び声高い領地にある名門校だ。同じ都市にある難関大学にも進学した。
一見、明晰な頭脳を持つ若者の順風満帆な進路にも思える。だが、実態はただ家から─より正確には母親から─離れたいがための行動だ。
ノーディスの母親は、シャウラ公爵が結婚する前から彼の恋人として振る舞っていた。しかし彼女は身分が低く、そもそも公爵には政略で結ばれた婚約者がすでにいたため、長らく愛人の座に甘んじていた。
しかしそんな彼女に転機が訪れる。一途に夫を愛し続けた公爵夫人が幼い息子ウィドレットを残して亡くなったのだ。心を病んでの自殺だったという。
……厳密に言えば、彼女は命を落としたわけではない。ただ、もはや表舞台に立てないとして、死んだものとして扱われている。
しかし公爵は傍系王族としての権力でその醜聞を握り潰し、妻の死はあくまでも不慮の事故だったことにした。そして彼は、「幼い息子のためにも母親役が必要だから」と、かねてからの愛人を後妻として迎え入れた────そんな彼女より先に、生まれたばかりの乳飲み子がシャウラ家の人間として一応は認められていたのだが。
ノーディスが実は後妻の子で、先妻がまだ存命の折りに生まれていたというのはシャウラ家に近しい親族にしか知られていない。表向き、ウィドレットとノーディスは同腹の兄弟ということになっている。
前シャウラ公爵夫人の実家の顔を立て、変わらず嫡男として育てられることになったウィドレットだが、その立ち位置は不安定なものだ。二歳年下の異母弟ノーディスがいたこともあり、ウィドレットはいっそう苦しい立場に追い込まれた。
ただ、この異母兄弟の仲は、親族の大人達が無責任に予想していたようなものではなかった。ウィドレットはノーディスを可愛がったし、ノーディスはウィドレットを信頼していたので、家督やら何やらを巡って争うということがなかったのだ。
とはいえ、周囲のぶしつけな視線にさらされることに変わりはない。
ありもしない野心を煽られたり、大人の権力争いに利用されたりすることを嫌がったノーディスは、自分をシャウラ家から遠ざけたい前夫人の実家の策略にあえて乗る形で早々にシャウラ家から脱出した。それが寄宿学校入学の真相だ。
ノーディスは両親のことも母方の祖父母のことも嫌いだったが、異母兄ウィドレットのことだけは好きだった。
ウィドレットに迷惑をかけたくないし、彼との間に余計な対立を生みたくない。だからノーディスは徹底して実家と距離を置いた。母方の親族との接触は断ち、シャウラ家の人間として振る舞う時も必ずウィドレットを立てる。ウィドレットと不仲だと思われて、付け込まれる隙を与えたくなかったからだ。
「仮にもお前の母親だろう。口の利き方には気をつけたほうがいい」
「生んでくれたことに感謝こそしても、尊敬までできるかは別の話。……シャウラ家を継ぐべきは貴方だよ、兄上。父上や母上が何を言おうとね」
ノーディスは、ウィドレットの努力を知っている。争いを避けるためとはいえさっさと実家から逃げた自分とは違い、ウィドレットは親元に残って戦ったのだ。
自分の母方の実家と連携して居場所を確立し、かといって彼らの傀儡にならないよう繊細なバランスを保ち続け、領地と領民のこともしっかりと考えているウィドレット。王女アンジェルカと婚約したのだって、一番の理由は直系王族の後ろ盾を得るためだ。そんなウィドレットがシャウラ家の次期当主ではないというのなら、この世の誰にもその資格はない。
公爵位もシャウラ領も、継ぐのは長男のウィドレットであるべきだ。次男のノーディスには何も譲られることはないし、欲しいとも思わない。
ノーディスは金や権力を求めるより、学問を探求していたほうが性に合っていた。爵位を持たない上流階級の人間として、このまま安穏と生きていられるだけで十分だったのだが……母がウィドレットの廃嫡に動こうというのなら、早めに手を打たないといけない。どうやらウィドレットも、同じことを考えているようだ。
「では、率直に言わせてもらおう。ノーディス、できるだけ早くどこかの家に婿入りしてはくれないか。お前がシャウラを名乗っていると、いよいよ俺の立場がおびやかされかねん」
「いいよ。私も、親にあれこれ口を出されるのはうんざりなんだ。成人した息子のことなんて、放っておいてほしいのに」
ノーディスは左目を覆う眼帯に触れる。異母兄のことだけは信じられると思ったのは、この目をふさいで生きると決めた日のことだった。その日は、ノーディスが両親を見限った日でもあった。
「感謝する。アンジェが嫁いでくる前に、すべての憂いを断つつもりではいるが……不安要素はできるだけ排除するに限るからな」
まっすぐで自分本位で、自分のためなら他人をどうとでも利用できるウィドレット。そんな異母兄だからこそ、誰しも虚飾を纏うこの世界においてはむしろすがすがしく見えた。愛だの倫理だのと綺麗事を盾にして甘い言葉を囁かず、利害というとてもわかりやすい基準でもって接してくれるウィドレットは、一周回って信用に値する。
「ノーディス、お前なら受け入れてくれると思っていたぞ。まあ、お前が誰かいい相手を見つけて、幸せな結婚をしてほしいというのも本音だが」
「私達にとって、幸せな結婚の基準って簡単じゃない? ようは父上と母上と、貴方の母上のような関係を作らなければいいんだろう?」
ウィドレットの執念にも似た愛の重さは、きっと父親の遺伝だ。父は愛する女以外のすべてを軽視している。前妻やその息子はおろか、最愛の女が生んだ息子のことすら彼にとっては邪魔者だった。彼女の愛が奪われるとでも思っているのだろうか。
ウィドレットはそんな父を反面教師にしているつもりのようだが、それでもやはり好いた女への情の深さは隠せないらしい。それでもきっと、自分達の子供をないがしろにするようなことはしないだろうが。
父はおそらく、現公爵夫人にはいつまでも無垢で愚かな女のままでいてほしいのだ。恋した少女の面影が失われるのを、彼はことのほか嫌う。清らかな思い出が汚されて、愛した女がただのうるさい女に成り果てるのを防ぐためなら、きっと彼は何でもするだろう。
彼女の愚行が我が子の輝かしい未来を求める母親ゆえの行動だと言うのなら、元凶である息子を排除しかねない。あの手段を選ばない父のことだ、どんな劣悪な環境に落とされるかわかったものではなかった。
そうと決まれば早速動かなければ。社交期はまだ始まったばかりだが、うかうかしてはいられない。母親に諦めてもらうためにも、父親より先になんとしてでもノーディスにとって都合のいい婿入り先を見つけなければいけないのだから。