悪意がないほうが最悪
「ヨランダ、それはなぁに?」
ベッドの上で上半身を起こしたアリアは、差し出されかけたティーカップを目で追う。今、それはヨランダの背中に隠されていた。
今日から目覚めの紅茶を淹れるのは、専属を外したロザの代わりに新しくアリア付のメイドになった少女だ。ヨランダは泣きそうな顔で答えた。
「も、申し訳ございません! すぐに新しいものと取り換えてきます!」
ヨランダが紅茶を注いだばかりのティーカップには、二匹の小さな蜘蛛の死骸が浮いていた。もしかしたらティーポットの中にはもっといるのかもしれない。
さすがに自然に混入したとは考えづらいが、ヨランダの狼狽ぶりからしてそれが彼女の手によるものでないのは明らかだ。そもそもヨランダが犯人なら、よりにもよってアリアの目の前でわかるようにはやらないだろう。厨房でティーポットを用意している間、目を離した隙に仕組まれたに違いない。
ヨランダはまだ雇われてから日が浅い。淑女として完璧なアリアの元につかせることで彼女の成長を促したい、とかなんとか女中頭は言っていたが、ようは指導役を押し付けられた形だ。
使用人の教育などアリアの仕事ではないのだが、アリアはこれを「使用人の仕事ぶりに文句があるなら好きなように育てろ」という意思表示として受け取っていた。
公爵令嬢が不出来な使用人を連れていれば家の沽券にもかかわる。外出には別のメイドを連れていくことになるだろう。
家の中だけであれば、傅くのが新米メイドでも構わない。どうせベテランの使用人だろうと、ライラの名を盾にしてささやかな悪意をぶつけてくるなら傍に置くだけ邪魔だ。
「そう。今日はもう、紅茶はいりませんわ。片付けておいてくださる?」
「かしこまりましたっ!」
可哀想なヨランダの声はすっかり裏返ってしまっている。たとえ彼女がライラに寝返ったとしても、彼女に大それた悪事は難しそうだ。
警戒するべきは、彼女自身も無自覚のうちに嫌がらせに加担してしまうことぐらいだろうか。ちょうど今のように。
「次からは気をつけてくださいまし。それから、飲食物に手を加えるような行為は、貴方達の大好きなライラお嬢様でも庇いきれない問題を起こしかねないことを理解しておいてちょうだい、と使用人達に伝えておいてくださる?」
ヨランダはがくがくと頷いた。犯人捜しがどう進展し、ライラがそれをどう庇うのか見ものだ。
ティーポットの中身を思うと気分が悪くなる。うんざりしながら起き上がり、朝の身支度を整えた。
アリアは朝食のために食堂に向かった。両親に挨拶し、食事が運ばれてくるのを待つ。そんな時、食堂の扉が勢いよく開いた。
「まあ! ライラ、今日はここで食べる気になったのね?」
母が嬉しそうな声を上げる。もしアリアがこんな騒々しい登場の仕方をすれば、きっと目を三角にして怒るのに。それよりも母にとっては、普段自室で食事をするライラが姿を見せたことのほうが嬉しいらしい。
「たまにはね、たまには」
「なら、すぐにお前の分の食事をここに用意させよう」
従者のダルクを引き連れたライラは、堂々とした足取りでテーブルに近づいた。
父が給仕係に命じる。ライラはぽっかり空いた椅子に座り、隣のアリアを呆れたように一瞥した。ほどなくして全員分の食事が運ばれてくる。
「アリア、あんたって本当ワガママだよね。わたしが庇ってなかったらロザは路頭に迷ってたかもしれないのに、また同じことをするなんて。あんたの一言で人の人生が左右されるかもしれないってことの重みをもっと考えたら?」
「おっしゃっていることの意味がよくわからないのですけれど?」
「だから、この前ロザがちょっと予定を間違えたのを、大げさに訴えたことがあったじゃん。あんたが使用人をいじめるたびに、わたし付きに変えてもらってるけど……あれ以来ロザはずっと怯えてるんだよ。自分の後任が同じような目に遭ってないかって」
(ああ、なるほど。ヨランダは伝言を、きちんと犯人に伝えられましたのね。ですから先手を打って、ライラに牽制をさせるよう仕向けたのでしょう)
「いじめてなどおりませんわ。ロザが貴方付きになったのは、元々ロザがわたくしより貴方に仕えたがっていたからでしょう?」
「いじめの加害者はみんなそう言うんだよ、自分はやってませんーって。でも、被害者は覚えてるんだから。今朝だって、メイドのちょっとした失敗を責めておどしたでしょ。悪気もない人にそんなことするなんて最低だよ」
「……それは、冗談でおっしゃってらっしゃるのかしら」
言いたいことは色々とある。だが、何を言っても理解される気がしない。沈黙の末、アリアは微笑を浮かべた。
「悪気がないというだけで許される世界があるのなら、そこはきっととても生きづらいでしょうね」
「は?」
「やめなさい、二人とも。いい加減にしないか」
父がうんざりした様子でいさめたので、姉妹の舌戦はいったんの停止を迎えた。ライラは不服そうだが、アリアは何事もなかったかのように食事を始める。
「ねえライラ、せっかくだし今日は一緒に出掛けない? 新しいドレスを、」
「興味なーい。ドレスなんて何の役にも立たないし。アリアと行ったら? わたし、アリアと違って忙しいんだよね。アリアならどうせ暇でしょ」
母の誘いを鼻で笑い、ライラは大きく口を開けてオムレツを頬張る。ライラの無神経さはもちろんだが、その無作法さにも眩暈がした。自分と同じ顔でそんな振る舞いをしないでほしい。
「そ、そうね。少しでもノーディス様に気に入っていただけるよう、もっとたくさんのドレスを仕立てましょう。いいわね、アリア」
「はい、お母様」
「ノーディス? なんで?」
「シャウラ家のノーディス殿が、数日前にアリアに会いにいらしたのだ。ライラ、お前も年頃なのだから、アリアのように良縁を掴まないといかんぞ」
父の言葉にも、ライラの目には軽蔑が浮かぶばかりだ。アリアがライラを嫌っているように、ライラもアリアを嫌っていた。
「そういうの、どうかと思うよ。結婚だけが幸せじゃないし、そもそも男に気に入られるかどうかが基準って言うのがありえない」
「よりよい条件の家と結びついて、自領と我が家を盛り立てることは、貴族の女の義務ではなくって?」
「うっわぁ。なんでアリアもそうやって自分をわざわざ貶めるのかな」
ライラは心底呆れたようにため息をつく。アリアだってわかりあえない姉の相手はもうしたくなかった。
「ライラは相変わらずですこと。貴方がどのような主張をしようと自由ですけれど、わたくしの邪魔はしないでくださるかしら。ウィドレット様だけでなく、ノーディス様にまで礼を欠いた振る舞いをするようであれば、もう誰も貴方を庇えませんわよ」
「そもそも庇ってくれなんて頼んでないんだけど。いっそあの時の不敬が理由でうちが没落してたらよかったのにね。そうすれば面倒な貴族社会から離れて生きられるから。そっちのほうが楽なのに」
「ライラ!」
さすがに看過できなかったのか、父が声を荒げる。はっとした父は咳払いをしてごまかすが、ライラの失言の事実は取り消せない。
「安心なさって、ライラ。いずれ貴方は、貴方の望み通りの生き方ができるようになりますわ。ですから、わたくし達を巻き込まないでくださるかしら?」
家が没落すればいいだなんて言ってのけた者に、家督が譲られることはないだろう。両親がどう考えていようと、それが馬鹿げた幻想だったとわかってくれるはずだ。
アリアが家督を継げば、ライラにはもうこの家の敷居は跨がせない。ただのライラとして、彼女の望む通り好き勝手に生きればいいのだ。
ライラ・レーヴァティさえいなくなれば、アリアはきっと唯一の存在になれる。
そうなれば、二度とライラの代役にされない。ライラと比較されることもない。ライラではなく、アリア自身を見てもらえる。認めてもらえる。
その未来に想いを馳せ、アリアは小首をかしげてうっとりと微笑んだ。