開演の時間
アリアの隣に立つノーディスも恭しく一礼する。二人の背後にいるのは、書類を手にした執行官だ。
もっとも、公爵夫妻は彼が領主の補佐役たる執行官だとは認識していないかもしれない。不正に加担していた前任者を更迭したアリアが最近任命した、新しい執行官だからだ。
アリア達を視界に収めた公爵夫妻の表情がぱっと明るくなった。ペットの仇を見つけたライラの目に怒りの炎が燃え上がるが、喉まで出かかった罵声は公爵夫人の勢いに飲みこまれたまま声にならずに消えていく。
「アリア! 一体どこにいたのです! 探したのですよ、まさか黙っていなくなるだなんて!」
けれどアリアは、公爵夫人の言葉には答えない。使用人達に退室を命じてからまっすぐにオルディールの元に歩み寄り、応接間を見渡す。縋るような眼差しを向ける公爵夫妻、悔しげなライラ、そして安心したような顔のオルディール。アリアは状況を素早く理解した。
「ご挨拶にうかがえなかったご無礼をお許しくださいませ、殿下。ですがこれはわたくしの愛と矜持のために、どうしても譲れなかったことなのです」
「会えて嬉しいよ、アリア嬢。君にそこまで言わせるなんて、一体何があったんだ」
オルディールはアリアの手を取り、今度こそはと親愛を示すキスを落とす。その唇が手の甲に触れることはないが、アリアはにこやかにそれを受け入れた。
「殿下もご存知の通り、わたくしにはノーディスという婚約者がおります。ですがレーヴァティ公爵夫人は、こともあろうにわたくしにライラのふりをして、殿下をおもてなしするようにとおっしゃいました。殿下のこともノーディスのことも欺くような、恥知らずな振る舞いです。どうしてもお二人を裏切ることができなくて……気づいた時には、わたくしは出奔していました。ずっとノーディスに匿っていただいたんです」
そう言いながら、アリアはまなじりに浮かんだ涙をそっとぬぐう。オルディールは痛ましげに眉根を寄せた。
「ノーディス。アリア嬢の保護をしてくれて感謝する」
「婚約者として当然のことをしたまでですよ」
「それにしても……公爵夫人、今の言葉は本当なのか? まさかこれまでも、ライラ嬢を人前に立たせるときはアリア嬢に演じさせていたと? もしそうだと言うのなら、この変わりようにも説明がついてしまうが」
アリアは震えながらうつむいた。ライラも目をそらさざるを得ない。二人のそれは無言の肯定だ。
オルディールの厳しい視線を向けられて、公爵夫人はわなないている。そして彼女は、この期に及んで双子の娘を天秤にかけた。
「代役を務めることは、元々アリアが自ら買って出たことなのです。姉を思ってのことだったのでしょう。ライラは優秀ですけれど、とても繊細な子ですから……。ですから今日も、アリアは進んで代わってくれたものとばかり。アリアの優しさに甘えてしまって、そこまで思いつめていたことに気づかなかったなんて、わたくしは母親失格ですわ」
肩を震わせた公爵夫人は扇子で顔を覆い隠す。現状、レーヴァティ家で一番信用があるのはアリアだ。そのアリアが自発的に始めたことにすれば、ある程度の酌量を勝ち取れると思ったのだろう。だが、ノーディスがそれを許さない。
「殿下。今年の社交期で、レーヴァティ家を訪れた若者達を歓待したのはアリア一人だけです。ライラ様に取り次ぎを求めた者はみな門前払いを食らったとか。社交界でライラ様と出会えた幸運な者も、社交上の挨拶をした程度で私的な話はほとんどできなかったと申していました。いかにアリアが姉君を憂慮していようと、進んで彼女のふりをして他人と親密な関係を築くことまではしていないのです」
「つまり、事情はどうあれアリア嬢が多くの人を欺いていたのは事実だということじゃないか。その中には、王妃も含まれているだろう。いくら姉妹間のこととはいえ、名を偽って王族の前に現れるのは……」
「おっしゃる通りです。ですが殿下、そもそも何故アリアが淑女の鑑たりえるようになったかご存知ですか? ライラ様が公爵家の人間としての責任を放棄したからです。その結果、アリアは姉君の分の重責まで背負うことになりました。公爵夫妻は、最初からアリアをライラ様の代役として育てていたのですよ」
ノーディスはアリアを守るように抱き寄せ、公爵夫妻を冷たく睨む。彼はすでにこの場を掌握していた。
長子を差し置いて、次子が後継者と目される。相応の理由があるからこそ起きる番狂わせだ。レーヴァティ家でどうしてそれが起こったのか、実際にライラを目にすれば理解できるだろう。オルディールは思案げな表情を浮かべた。
「なんの力も持たない子供が、庇護者たる親の言うことに背けるはずがありません。幼少期から徹底した教育を受けて支配され続けたのであればなおのことです。幼い頃に形成された価値観は、容易には覆せませんから」
「けれどノーディスが、わたくしを変えてくださったのです。ノーディスの愛に触れて、わたくしはようやく心を知ることができました。……そして、今までわたくしを取り巻いていた環境が異常なものだと気づいたのです」
ノーディスの手を握り、アリアは声を震わせる。そんな悲劇の中にいてなお少女は希望を見出だせたと知ったからか、オルディールは感動したようにしみじみと聞き入っている。博愛主義の理想家ということで予想はしていたが、愛の名による美談にはめっぽう弱いようだ。
「アリアにライラ様の代役をさせようと最初に言い出したのが誰なのかは、この際重要ではありません。アリアに決定権はなく、公爵夫妻にはあった。大事なのはそれだけです。両親に支配されて正常な判断力を奪われ、彼らの求めることをやり続けることでしか自分の価値を証明できないと思った少女を、一体誰が責められるでしょうか。両親が『姉を庇って矢面に立つ献身的な子』を求めていると感じれば、そういう風に振る舞いもするでしょう。すべての元凶は、ライラ様を堕落させてアリアを壊した者達なのでは?」
「確かに……。本人は自主的に行ったつもりでも、無意識のうちに親の意を汲んでいたからこそ行ったことだというなら、アリア嬢を詐称の罪に問うのは難しいな。なにより、そんな彼女が裁かれるなどとても看過できない。アリア嬢も救われるべき被害者だ。真に裁かれるべきは……」
オルディールは何度も頷き、公爵夫妻に鋭い視線を向ける。
生贄を差し出しても王太子の追及からは逃れられないと知って力が抜けたのか、公爵夫人は扇子を取り落とした。どうやら自らの処遇を案じるあまり失神してしまったらしい。そんな妻を支え、公爵は重い口を開く。
「私と妻は、大きな過ちを犯しました。娘達を愛するあまり、親として本当にすべきことを見失ってしまったのです。自由を愛するライラには人としての幸福を、勤勉なアリアには貴族としての幸福を与えたかった。ただそれだけだったはずなのに、どうしてこうもねじ曲がってしまったのか……。王太子殿下のおっしゃる通り、娘達に非はございません。罪はすべて私達にあります」
(この方、旗色が悪くなるとすぐにわたくしの味方のようなお顔をなさるのね。さもご自分が常識人のように振る舞うだなんて)
琥珀の瞳をすっと細め、アリアはレーヴァティ公爵を見た。
どれだけ殊勝な態度を取られようと、親子の絆はとうに断っている。今さら悔やまれたところでもう遅い。
「わたくしのことも、愛していただけていたのですか? ライラの代わりの、都合のいい人形としか思っていなかったのではなくって?」
「何を言うんだ、アリア。愛していなければ、お前に次期当主としての帝王学など施すわけがないだろう。確かに少し厳しかったかもしれないが、すべてはお前のためだったんだ」
「だって……わたくしがフェンリルに襲われたという話は、王都でもすっかり広まっているとうかがいました。それでもお二人は、わたくしのことよりも大事になさっているものがおありでしたでしょう? 我が家とライラの名誉のほうが、わたくしの命よりよほど価値がございますものね?」
瞳を涙で潤ませながら、アリアは悲痛な声で問う。するとライラが不愉快そうにローテーブルを叩いた。
「フェンリルに襲われたって言うけど、アリア達が先にちょっかいをかけたからなんじゃないの? あの子は理由もなく人は襲わないんだから」
「ライラ、いい加減にわきまえなさい。今はそんな話をしている場合ではないんだ」
「だって、お父様!」
「ライラ様が望むのであれば、あの日の様子をつまびらかに語るためにも関係者を全員集めた審問会を開きましょうか。獰猛なモンスターを手懐けて市街地に放ち、妹君を含む領民が危険にさらされてなお平然としているどころか開き直っていたことが知れ渡ることになりますが」
「……ッ! で、でも、いきなり殺すだなんてひどすぎるよ。せめて眠らせてから捕まえるとか遠くに逃がすとか、他にもっとやりようがあったでしょ」
冷え切った赤い瞳に射抜かれて、ライラは言葉を詰まらせる。それでも返ってくる反論を、ノーディスはあっさり切り捨てた。
「フェンリルをどうやって殺さないまま無力化するかは大変興味深い議題ですが、あいにくとそれほど余裕のある状況ではございませんでしたので。いっとき無力化できたとしても、再び暴れ出さない保証はないでしょう。なにより、領都に突如として現れたフェンリルを、一体どこに放つというのです?」
「それは……」
ライラは再び押し黙る。ノーディスの圧に気を取られていたせいで、オルディールに信じられないものを見るような目で見られていることには気づいていないようだ。妹のことよりペットのことを重視する少女の姿は、オルディールに何を思わせたのだろう。
「レーヴァティ公爵におかれましては、いっそわたくしがフェンリルに殺されていればよかったとお考えになったのではありませんこと? だってわたくしは、知ってはならない秘密を知ってしまったんですもの」
「何? アリア、どういうことだ? 秘密など私には何も……まさか!?」
顔色を変えた公爵を無視し、アリアは執行官に視線を移す。執行官はオルディールにうやうやしく書類を差し出した。オルディールは怪訝そうに受け取るものの、眉間に深いしわが寄っていくのにそう時間はかからない。
「レーヴァティ公爵。建国の代から王家に仕えてくれたその忠誠心に免じて、貴方にふたつの道を与えようじゃないか。ひとつは、公費の横領とご息女達への虐待、そしてご息女に詐称をさせていた責任を取って、夫人と共にこのまま隠居すること。貴方達が潔く自分の罪を認めるのであれば、レーヴァティ家自体への弾劾は行わない。僕の名において、これらの問題はこの場だけで処理しよう」
ライラを中心に据えた執政院とレーヴァティ公爵の腐敗の証拠は、王太子を動かすには十分だった。
「もうひとつは、王家の名による法廷への召喚状を受け取ることだ。いかにご息女達を愛しているか、裁判所で堂々と語るといい。せめて家の名誉は守りきるか、それとも正義と真実に賭けて争うか。好きなほうを選びたまえ」
ライラへの過剰な優遇。フェンリル襲来の真実。そして、姉妹の入れ替わり。オルディールが見せた最後の恩情に従わなければ、すべてが白日のもとに晒されるだろう。
そこで下される刑罰の重さなど関係ない。重要なのは、これまでレーヴァティ家が必死になって隠してきた恥部が暴かれ、積み上げてきた何もかもが一瞬で崩れ落ちるということだ。
憶測だらけの醜聞は悪趣味な真実として定着し、レーヴァティ家を覆せない嘲笑の対象にする。悪意ある噂というだけならまだしも、事実なのだから否定すらできない。
レーヴァティ家のお家騒動は、すでに面白おかしく吹聴されている。まだ風評の域を出ていないそれをもっとも確実に鎮静化させる方法は、当事者達が存在感を消して人々を飽きさせることだ。
そうすれば、そのうちまったく別の火種が生まれて人々の興味はそちらに移る。表舞台から立ち去ることさえ許容できれば、わざわざ足掻く必要などなかったのだ。それができないからこそ、これまで公爵夫妻は奔走していたわけなのだが。
貴族にとって体面が何よりも大事だということをよく知る公爵は、選択肢がひとつしかないことに気づいて力なくうなだれた。