正義の第三者
「王太子殿下、これはその……」
冬だというのにレーヴァティ公爵は滝のような汗をぬぐっている。オルディールの顔にもう笑みは残っていなかった。
「いや、健康ならそれに越したことはない。ただ、何故わざわざ体調不良のふりなどしたんだ? ……その……僕に会いたくないというなら、そう言ってくれればいいだろう?」
それは、否定の言葉がほしいからこその問いかけだった。まさかそんなことはないだろう、という自信があったからこそ言えた言葉だとも言える。
「聞きました? お父様、お母様。殿下もこう言ってくれてるじゃないですか。選択肢がないなんて、そんなの二人の思い込みだったんですよ。最初から言ったでしょ、わたしに王太子妃なんて無理だって」
しょせんバカ王子とはいえ、国家の最高権力者の息子が同席している場だ。そのため、ライラにしては珍しく、両親に対しての言葉遣いはいつもより丁寧だった。
堂々と口を開けたのは、オルディールが話せばわかる相手だと感じたからでもある。だが、オルディールの真意を見抜けなかったライラの言葉は彼の求めていた返事ではないし、そもそもこの場にふさわしい内容ですらなかった。
「ライラ、少し黙っていなさい。頼むから下がってくれ」
「……構わない。ライラ嬢、体調に問題がないというのならどうかこの場に留まって忌憚のない意見を聞かせてくれないか」
病弱な深窓の令嬢ごっこがもうできなくなったので、ライラは顔に大きく不満を表しながらも応接間に残ることにした。車椅子は壊れてしまったのでソファに座る。オルディールは深いため息をついたあと、レーヴァティ公爵夫妻に向き直った。
「ライラ嬢は、才気あふれる実業家であると同時に淑女としても非の打ち所がないと聞いている。不幸にしてこれまで僕とは会う機会もなかったが……母や僕の友人達も、たいそうライラ嬢のことを褒めていた。だが、今目の前にいるライラ嬢と、かつて伝え聞いたライラ嬢では、どうにも人物像が噛み合わない。それは、僕が嫌いだからあえて愚者のふりをしているということだろうか」
「め、めっそうもございません! そのようなこと、ライラは決して」
「では何故、このように奇矯な振る舞いを?」
王太子の純粋な疑問に、公爵夫妻は答えられない。公爵家の娘でありながら、貴族令嬢としての礼儀作法も教養も何一つ身につけさせてこなかったからなんて言えるわけがなかった。
さすがにライラも空気を読んで、口をつぐむことを選んだ。両親に言われたから令嬢っぽく振る舞っていただけだ。その化けの皮が剥がれたなら、それこそ黙っているしかない。
「社交界でライラ嬢が注目を集めていたのは、彼女の明晰な頭脳と可憐な所作ゆえだ。誰をも近寄ることを許さない気高さも、より彼女の魅力を引き立てていたと言えるだろう。……しかし残念なことに、つれない態度を許容できる心の広い男ばかりではないんだ。……今、社交界でライラ嬢がどのように言われているか、お二人が知らないわけはないだろう?」
「えっ? な、なんのこと?」
オルディールはやれやれと首を横に振って話題を変えた。思わず声を上げてしまったライラは困惑しながら両親とオルディールを交互に見る。オルディールはそんなライラに憐憫の眼差しを向けた。
「今日僕がここに来たのは、レーヴァティ家の名誉を回復させるためだ。妹殺しを目論んだ氷の悪女の真実の姿をこの目で見て、何か誤解があるならそれを解く手伝いをしたかった」
「はぁ!? ちょっと、それって一体誰のことなわけ!?」
直球でそれを言ってしまうオルディールもオルディールなのだが、だからといって気分を害せるほどレーヴァティ公爵夫妻は図太くない。ただ、何も知らないライラは心からの衝撃を受けてしまった。その素直な様子に、オルディールはようやく笑みを見せる。
「よかった。やはり噂は噂だったようだね。本当に君が黒幕なら、そこまで素っ頓狂にとぼけることはできないだろう」
オルディールは、別にライラに対して怒っているわけではない。ライラいわくバカ王子の彼は、思ったままを言っているだけだ。
「王太子妃の地位すらいらないと思う君なら、レーヴァティ家の次期当主であるアリア嬢に嫉妬することだってないはずだ。動機は権力欲ではなくノーディスの奴に横恋慕しているからだなんて説もあったが……」
「それは誤解です!」
「なるほど。それもそうだな。なにせこの僕を拒むくらいなんだから、他の男はもっと論外に違いない。しかしそうなると、ますます不思議だ。アリア嬢のように最愛の人に一途だというなら、拒まれるのは理解できるんだが……僕の一体何が駄目なんだろうか」
「えっとぉ……その自信過剰なところとかですかねぇ……」
ライラは乾いた笑みを浮かべる。もうどうにでもなれの境地だった。残念なことに、オルディールの耳には届いていないようだが。
そうだ、いっそここで王太子の不興を買って、没落させるなり勘当されるなりしてしまえばいい。プレイアデス商会は失ったが、貯金はまだまだ残っている。これを元手にして平民生活を謳歌しよう。アンジェルカとウィドレットがイチャラブバカップル道を邁進している今、内乱の危険はもうないのだから。
「ところで王太子殿下、悪女って一体なんのことなんです? わたし、悪いことなんて何もしてませんけど」
「先々月の収穫祭で、フェンリルが乱入してアリア嬢を襲ったのは君も知っているだろう?」
「……え?」
「幸い、怪我人が出る前にノーディスが討伐したらしいが。一歩間違えれば大惨事が起きていただろう。その襲撃の黒幕が君だと目されているんだ」
フェンリル。嫌な予感がライラを襲う。いや、まさか、そんなはずは。
「そのフェンリルって……もしかして、わたあめちゃんのこと……?」
「これほど素直な令嬢に、そんな大それた悪事が……何?」
うんうんと頷くオルディールだが、さすがに今度は聞き逃さなかったらしい。わななくライラをいぶかしげに見つめる。
「ライラ……貴方やっぱり、本当にフェンリルを連れて領都に来てしまったの?」
「だっておとなしくしてるから大丈夫だったんだよ!? 体が大きいだけで、普通の犬とそんなに変わらないし! そもそもあの時は、魔法で小さくしてたんだから! それなのに、討伐されたってどういうこと!?」
絶望を浮かべる公爵夫人に、ライラは金切り声で叫ぶ。愛しいペットが勝手に殺処分されて憤らない飼い主はいない。しっかりと見ていなかった自分に責任があるとしても、それとこれとは話が別だ。
「フェンリルに心当たりがあるのか? 夫人とライラ嬢は知っているようだが、まさか公爵も?」
「わたしのペットなんです。迷子になったと思ったら、まさか殺されてただなんて。ひどすぎるよ……!」
「……あれは事故なのです。ライラに悪意はありません」
レーヴァティ公爵は諦めに満ちた声を絞り出した。オルディールは手を額に当ててうつむく。
「その年ごろの令嬢としては、ライラ嬢はあまりに無邪気が過ぎるのでは? 悪意はなかった、で片付けられる域を越えているぞ。フェンリルのような珍しいモンスターの脅威を正確に認識できていないのは、仕方ないと言えばそうだろう。凶暴なモンスターだとしても命は命だ、愛護の精神を訴え共存を呼びかける者だっていないでもない。だが、それはそれとして、言動があまりにも目に余る。レーヴァティ公爵、公爵夫人。貴方達は、一体彼女に何をした……いや、しなかったんだ?」
「私達は……」
「まさかこの奔放な振る舞いが、本当のライラ嬢なのか? 悪女ではない、かといって才女でもない。では、僕達が見てきたライラ嬢はなんなんだ? もしここにいる彼女が本物のライラ嬢だと言うのなら、これは貴方達の責任だ。貴族令嬢としてまっとうな教養を培う機会を与えないなど、彼女があまりに可哀想だろう!」
オルディールにとってすべての女性は等しく美しく、尊いものだ。だから彼は心からの正義感と憐れみを持って────ライラを侮辱してしまう。
「何故だ!? 何故このような非道なことができる!? アリア嬢とは双子のはずなのに、教育環境に大きな差をつけるなど……。それほどライラ嬢を貶めたかったのか? それとも、愛しているからこそ腐らせてしまったのか? 貴方達がしっかりと養育者の責任を果たしていれば、ライラ嬢もアリア嬢のような素晴らしい淑女に育っただろうに。これではライラ嬢も被害者じゃないか!」
「あの、王太子殿下。淑女淑女って、アリアは何もできませんよ? あの子は毎日遊んでただけです。勉強してたのはわたしのほうなんですけど」
「可哀想に。智慧の翼を広げる機会を奪われて目が曇り、自分がどれほどの幸福を失ったのかも気づけなかったのか」
「話聞いてくれません?」
ぶりっ子アリアより下に見られては、当然ライラもいい気はしない。しょせん男ってああいう頭の空っぽな女のほうがいいんだよね、と深くため息をつく。だが、すぐにライラは凍りついてしまった。
「公爵家に生まれながら礼儀作法も常識も知らず、笑顔の浮かべ方ひとつとってもわからない。まさかとは思うが、王侯貴族の存在意義も理解できていないんじゃないか? そんな不憫な令嬢がいるだなんて、こんな残酷なことがあっていいのだろうか……! もしもまっとうな淑女教育を受けていたら、きっと避けられた悲劇だというのに!」
「うっ……だ、だから、淑女教育なんかよりもっと大事なことを学んできたんですって。わたしは領地経営にかかわってるし、魔具だってたくさん開発したんですよ。わたしが作った商会もありましたし」
「君がレーヴァティ家の才女と呼ばれるゆえんだね。うんうん、わかるとも」
なんとか反論するライラだが、頷くオルディールはやけに生暖かい目をしている。まるで聞き分けのない子供の自慢話に話を合わせているだけのような、居心地の悪さがあった。
それもそうだろう。もうオルディールは、ライラの輝かしい名声なんて信じていないのだから。
目の前にいるこの幼稚な令嬢に、一体どんな功績を上げられるというのか。レーヴァティ公爵夫妻が話を盛りに盛って吹聴したに違いない。オルディールはそう結論づけていた。
「どうしてこうなるまで放っておいた、レーヴァティ公爵。長女であるライラ嬢を飛ばして次女のアリア嬢を後継者に据えたのは、自身の失敗を隠すためか?」
「信じていただけないかもしれませんが、これは娘が望んだことなのです……。我々は娘の自主性に任せていただけで、決してライラは不幸では、」
「放任と信任は違うだろう! 養育者として、公爵家の人間として、貴方達は貴族の誇りをライラ嬢に教えてあげるべきだった。自堕落に生きることをライラ嬢が望んだとしても、貴方達が正道を歩む手ほどきをしていれば、まだ手遅れにはならなかったんじゃないか? 嘆かわしいことこのうえないよ。自分の娘を甘やかすだけ甘やかして、未来を潰してしまったというのに平然としていられるなんて。よくアリア嬢がまともに育ったものだ。それだけは救いだな……」
オルディールとしてはライラを庇っているつもりなのだが、飛び出る言葉は遠回しな罵倒でしかない。それに気づいたライラは赤い顔でぷるぷる震えていた。
「ところで、アリア嬢はどうした? 彼女は本当に病気なのか? ライラ嬢の体調不良は虚言だったじゃないか。アリア嬢は本当にここにいるのか? ……まさか貴方達は、彼女に対して何か恐ろしいたくらみをしていないだろうね? そうでないと言うのなら、アリア嬢を僕の前に連れてくることができるはずだ」
公爵夫妻を睨めつけて、オルディールは静かに問いただした。答えはない。その代わり、ノックの音がした。縮こまっていたメイドがドアを開けて来訪者を確認し、短い歓喜の声を上げる。メイドは主人に取り次ぐこともなく来訪者を通した。
「ご無沙汰しております、王太子殿下」
一分の隙もない淑女の礼を見せ、アリアはにこりと微笑んだ。