苦肉の策
イクスヴェード大学前広場は市民の憩いの場として愛されているようだ。通行人は多く、点在するベンチにも利用者がいる。アリアとノーディスも、そんなベンチの一つに並んで座っていた。
「まさか本当に気づかれずにここまで来れるなんて。中々の冒険をしたものだね、私の聖女様は。言ってくれれば私が迎えに行ったのに」
「アンティちゃんのことは、多くの者が目撃していますもの。貴方に迎えに来ていただいたら、すぐに居場所がわかってしまいますでしょう? でしたら、ライラを装って逃げたほうが確実ですわ」
ノーディスに髪を梳かれながら、アリアはくすくすと笑った。ちらりと時計塔を見上げる。そろそろアリアの不在に気づかれて、緘口令を敷いた竜丁達が真実に気づき密告を始める頃合いだろう。
ここまで連れて来た竜丁には、想いを告げるのに邪魔だからどこか遠くで適当に時間を潰しておけと言って追い払っている。アリアを連れて帰るという使命があるので、一人で勝手にレーヴァティ領に戻ることはないだろう。アリアは彼をここに置いていくつもりだが。
「どこかに隠れてやり過ごそうにも、始まる前に見つかってしまえばすべてが台無しですし。きっと公爵夫妻は、わたくしを血眼で探し出そうとするでしょうから。どうしてライラに代役が必要か、あの方々はよく理解してらっしゃるのよ。せめてライラ本人が殿下の接待をするまでは、絶対に見つからないようにしませんと」
アリアがいなければ、ライラが出てくるしかない。アリアが不在でライラが病欠となれば、公爵夫妻はせっかくライラを売り込むチャンスをふいにすることになる。王太子という大物を、あの二人がみすみす逃すとは思えない。
それとも、限界までアリアを探して粘るのだろうか。どうせライラ本人がオルディールに会ったところで、あのがさつさでは彼の心を射止められるはずがないのだから。
「ですけれど、家の不始末の責任は取りますわ。殿下が怒って帰ってしまわれる前に、ピスケス・コートに帰らなければいけません。アンティちゃんにお願いできるかしら?」
「キャリッジをつけないで、全速力でアンティを飛ばせば間に合うと思うよ。さすがに今日は、防御魔法を使っておこう。冬の直乗りは風が冷たすぎて痛いぐらいだし」
アリアの計画はこうだ。ライラの代役を了承したふりをして、土壇場で逃げ出す。避難場所は、簡単に見つからずピスケス・コートの人間に密告されるおそれもないところがいい。それには機動力があり、絶対にアリアの味方をしてくれるノーディスが適任だった。
ノーディスにあらかじめピスケス・コートの近辺で待機してもらい、屋敷の様子をうかがうことも考えたが、発見される危険性があるのでやめた。そこで、アリアの家出をより強く印象づけようと、婚約者のところに逃げこんだことにしたのだ。
あとはノーディスと一緒にピスケス・コートに帰り、家出の理由をオルディールに説明すればいい。悲劇のヒロインを演じる準備はできている。
一方で、ノーディスもある計画を立てていた。王都中に噂をばらまき、狙っていた一番大きな獲物────王太子オルディールを釣り上げたことで、彼の計画は始まった。
運命の人を探して回るような夢想家のことだ。不幸な美少女がいると聞けば、絶対に食いついてくる。その美少女のほうには婚約者がいるが、巷で悪女と噂されているほうも顔は同じだ。そのうえ婚約者がいない。
もしかしたら、濡れ衣を着せられた悪女を救って彼女のことを手に入れられるかもしれない。宮廷で話題になった醜聞の真実を白日のもとに晒せば、相応の名声も得られるだろう。掴んだ真実の使い方次第では、レーヴァティ公爵家の後援も取りつけられる。理想と利益を同時に叶えられるこのチャンスに、オルディールならきっと飛びつくと思っていた。
邪気のない悪意を打ち砕くには、その醜悪さを突きつけるしかない。それには権力と公平な視点を持つ第三者が適任だ。その第三者が、さらなる無邪気さをもって暴走する独善的な人物であればなおいい。
独自の理論を振りかざす者同士、相手の話をよく聞いていないという意味では対等だ。そこに権威と客観性という盾が加われば、磨き抜かれた表面が真実を映してくれるだろう。
あとは頃合いを見てピスケス・コートに行き、公爵家の罪をオルディールに開示して沙汰を下してもらえばいい。人の婚約者に色目を使うような男だし、ウィドレットを目の敵にしていることも気に食わないが、頭は決して鈍くない。女癖の悪さにさえ目をつむれば、根は善良な理想主義者だ。そのうえ王太子という看板を下げている。そんな便利な駒、使い倒さないともったいないだろう。
アリアもノーディスも、特に説明はしていないのに相手が計画を補強するよう動いてくれていて運がいいと思っていた。説明の手間が省ければ、自分の暗躍に気づかれる可能性もぐっと減るからだ。できることなら自分の黒い部分は知られたくない。
自身の計画の全貌はどちらも一切打ち明けていないが、事前にレーヴァティ家の汚職の証拠について情報共有をしていたことで、それを突きつける絶好のタイミングだけは見えている。そのため、これからピスケス・コートに乗り込んで公爵家の罪を暴露すればいい、という終着点だけは共有できていた。
アリアもノーディスも、自分の婚約者は権謀術数からもっとも縁遠い、善良な人間だと思い込んでいる。
その善性を穢されないために、自分が闇を背負わなければいけないのだ────そんな勘違いのせいで打ち合わせなんて何もできていないのに、二人の息はぴったりだった。
「貴方という婚約者がいながらライラのふりをして王太子殿下とお会いするなどとても耐えきれなくて、思わず逃げてしまいましたが……ライラは失礼のないようおもてなしができているのかしら」
あくまでも逃亡はとっさの判断であり、待ち望んでいた好機などでは決してない。そうノーディスに印象づけるため、しおらしく目を伏せておく。正当とは言えない手段で自由を得たら、解放感を満喫した後に罪悪感が襲ってくるものだろう。
「アリアが心配するようなことじゃないよ。貴方の存在がどれだけ大きかったか思い知らせてやればいい。第一、いくら双子だからって人前に出るのに代役を立てること自体がおかしいんだ」
ノーディスはころっと騙された。本当に罪悪感が鎌首をもたげてくるが、これはノーディスの中にあるアリアの幻想を守るために必要なことなのだ。自分にそう言い聞かせ、アリアは静かに顔を上げた。
「逃げたいと思ったから、あの場所から逃げたんだろう? なら、その選択を悔いるべきじゃない。それは貴方にとって必要なことだったはずだから。……こんなことを言うのはなんだけど、私を逃げ場所に選んでもらえて嬉しかったよ。それだけ私の聖女様に信頼してもらえているってことだからね」
優しく目を細め、ノーディスはアリアの頬に触れた。彼の手にアリアも手を添えて、うっとりと赤い瞳を見つめる。
「だけど、貴方が立ち向かう覚悟を決めたって言うのなら、私も傍でそれを見届けよう。大丈夫だよ、アリア。貴方は一人なんかじゃないからね」
「はい……!」
機は熟した。
あとは、ピスケス・コートに帰って王太子を味方につけるだけだ。
* * *
その頃、ピスケス・コートはこの世の終わりのような静けさに包まれていた。
非常に婉曲した表現ではあるが、王太子オルディールが冬巡りに際してレーヴァティ家に出した要望は、『お宅の美しいご令嬢にぜひもてなしていただきたい』というものだ。
つまり彼はアリアかライラと会うことを期待している。その意味は当然、王太子妃の選定だ。この時点で、すでに婚約者のいるアリアは主役ではなくなる。王太子を歓待する場には、ライラが同席しなければ話にならない。
レーヴァティ公爵夫妻は悩みに悩んだ。オルディールの到着を伝えられても、消えたアリアは見つからない。しかしライラと会わせなければ、オルディールの不興を買うだろう。
本物のライラの居留守が発覚しようものなら、最悪の場合王家に対する叛意があるとみなされかねない。うちの娘は王家などに嫁がせる気はないと言ったも同然だし、ライラには傍系王族の婚約者である妹を害そうとしたという噂も出回っているのだ。そんなつもりはないと言って、一体何人が信じてくれるのだろう。悪評を鑑みて王太子妃候補を辞退したことにすれば、暗殺計画を認めたことにも通じてしまう。撤回はますます困難になるだろう。
そこで夫妻は苦肉の策として、嫌がるライラをなだめすかしてオルディールに会わせることにした。
風邪で喉を痛めているから話さなくていい。車椅子に座らせるから立ち上がって淑女の礼を取らなくていい。無理を押して起きてきたことにするから、すぐ部屋に下がれる。病人だということにすれば、拝謁の時間が短くても文句は言われないだろう。
ライラは黙ったまま微笑んで、たまに頷いたり小首をかしげたりするだけでいい。そう言い含めることで、しぶしぶではあるがライラも折れてくれた。
しばらく経てばアリアも見つかるはずだ。体調が快方に向かったことにして、改めてアリアと引き合わせれば当初の目的は達成できる。これでなんとかしのげるはずだ。
ライラが身支度を整える間、公爵夫妻は応接間でオルディールの相手をしながら時間を稼ぐことにした。ライラの体調が優れないと聞いてオルディールは残念そうな顔をしたが、だからと言ってアリアまでいない理由を尋ねられても夫妻は言葉に詰まるばかりだ。彼女がどこにいるかなんて自分達が知りたい。双子なので体調を崩すタイミングも似通っているからアリアも寝込んでいるんです、という苦しい言い訳でお茶を濁すしかなかった。
公爵夫妻にとってのさらなる試練は、着飾ったライラが登場してから襲いかかってきた。
「君がライラ嬢か! お会いできて光栄だ。さすが双子なだけあって、アリア嬢と本当によく似ているね。おかげで初めて会った気がしないよ」
「王太子殿下におかれましては、すでに娘にお会いしていたのですか?」
「ああ。先々月の収穫祭にお忍びで参加させていただいたんだ。そこで挨拶をしてね」
公爵夫妻の笑顔が凍りつく。「収穫祭」はもはや禁句だ。オルディールは穏やかに微笑んでいるが、高貴な青い瞳からにじむ圧を感じて二人はわずかに目をそらした。
実際のところ、オルディール自身はそこまで威圧的に振る舞っているつもりはない。いかんせん顔立ちが整っているせいで、何をしてもさまになるというだけだ。
たとえどれだけ真剣な表情で目を伏せていても、考えているのは国の未来についてではなくこれから会う令嬢への口説き文句だった。外見に言動が一切伴わないため、雰囲気と内心のギャップはすぐに看破されてしまう。それでも公爵夫妻がそんなオルディールに畏怖を感じたのは、多少なりとも負い目があったからだった。
「ライラ嬢、今日は体調が悪いというのにわざわざ来てくれてありがとう」
オルディールはにこやかに立ち上がった。車椅子に座るライラは頬を引きつらせながらも口角だけなんとか引き上げる。しかし目元に意識がいっていないので、作り笑いだということは誰の目にも明らかだった。
ほんの一瞬だけオルディールは怪訝そうな顔をするが、気にせずライラの元に歩み寄る。そして彼女の手を取り、その甲に口づけるふりをしようとした。
だが、ライラは悲鳴を上げて彼の手をとっさに振り払ってしまう。よく知らない男にいきなり手を取られて──たとえするふりであっても──キスをされるなんて、セクハラ以外のなにものでもないからだ。いくら相手がイケメンだろうと、やっていいことと悪いことがある。
これまでライラが積極的に交流していた商人達は、ライラがそういった触れ合いを毛嫌いしていることを知っていた。だからやらなかった。
初対面の相手でそういった挨拶をされれば、セクハラキモ男と話すことは何もないということで二度と会談の場を持たなかった。だから二度目はされなかった。
たいしておかしなことでもない、ごくごく普通の一般的な仕草だと教えられても、ライラはそれを受け入れなかった。公爵令嬢より身分の低い相手ばかりだったから、誰もライラの振る舞いに表立って不快感を示すことはなかった。だから、認識を改める必要もなかったのだ。気持ち悪いことを気持ち悪いと言って拒絶することの、一体何がいけないのだろう。
「ラ、ライラ! 貴方、何をしているの!?」
「申し訳ございません、王太子殿下! 娘がとんだ失礼を……!」
「いや、こちらこそ申し訳ない。ライラ嬢には少し刺激が強すぎたみたいだね」
顔を真っ青にする公爵夫妻を手で制し、オルディールは取り繕うように笑う。
挨拶代わりのキスを拒まれるなど、彼にとっても初めての経験だった。顔を出す機会こそ少ないものの、社交界でのアリアはもっと堂々と振る舞い、何事もそつなくこなしていたと聞いているが。まさか自分だから拒絶されたのだろうか。内心では混乱しながらも、オルディールはすごすごとソファに腰掛ける。
「ライラ、もう下がりなさい。まだ本調子ではないのだろう? 殿下に風邪を感染さないよう配慮したいのはわかるが、だからと言っていささか強引が過ぎるぞ」
「そうねライラ、お父様のおっしゃる通りだわ。殿下、明日にはきっと娘の体調もよくなっているでしょうから、明日また席を用意させていただきますわ」
公爵夫妻はなんとか場を切り上げようとする。これでようやくこの場から解放されると、ライラはありがたく従おうとした。ぺこりとお辞儀して、メイドに車椅子を押してもらおうと合図をする。
この時メイドにとって不運だったのは、今ライラが乗っている車椅子は先代の公爵夫人が使っていた年季ものだったことだ。
車輪のついた、ベルベットの一人用ソファ。きらびやかな装飾もついているので見た目こそ豪華だが、突然物置から引っ張り出したのでろくな手入れもされていない。それまでずっと車椅子を押していたメイドも、車輪の不具合にまでは対応できなかった。
「わあっ!? ちょっとぉ!」
「も、申し訳ございません、ライラお嬢様!」
突然車輪が外れたせいで車椅子がバランスを崩し、ライラは俊敏に立ち上がる。おかげで転ばずに済んだ。平謝りするメイドに「怪我してないからいいよ」と微笑みかければ、メイドは安心したように胸を撫でおろした────が。
「……元気そうだな?」
さすがに疑問を隠しきれなかったオルディールが、ぽつりとそう呟いて。
応接間に、重苦しい沈黙が訪れた。