替え玉の意地
ついに王太子オルディールが訪れる日が来た。アリアは唇を固く引き結び、自室の窓から空を注意深く見つめる。やがて一台の飛竜車が見えた。ピスケス・コート内の丘に降り立ったようだ。丘の上には竜舎があるので、そこに着陸したらしい。
レーヴァティ家の紋章までは確認できなかったが、王太子を乗せた飛竜車ならキャリッジに王家の色が使われているはずだ。その様子はなかったので、ライラを乗せた飛竜車とみていいだろう。
「ヨランダ、この手紙を貴方に預けておくわ。公爵か公爵夫人がわたくしを呼びにいらっしゃったら、これを渡してくださるかしら。わたくしはライラと話がありますから、その間貴方はこの部屋で待っていてちょうだい。よろしくて?」
「か、かしこまりました」
ヨランダに手紙を預け、アリアはそのまま部屋を出る。ヨランダは不思議そうな顔をしたが、特に追及はなかった。
普段ライラのふりをして社交界に出る時のような恰好をしているのは公爵夫人の指示だ。何人かの使用人にすれ違ったが、誰も疑問には思っていないようだった。
まっすぐに屋敷を出て、周囲の様子をうかがう。あの丘の上からライラが来るまで、まだだいぶ時間に余裕はあるだろう。スカートの裾をたくし上げ、アリアは身を隠せる植え込みまで走った。
(考えなさい、アリア。ライラなら、こんな時にどうするか。望まない縁談を押しつけられて、無理やりめかしこまされた時、あの子は一体どうするの?)
アリアは目を閉じる。一呼吸おいて、豪奢な髪飾りを抜き取った。
長いピンクブロンドの髪が風になびいてもつれていく。髪をかき上げたアリアは髪飾りを放り投げてヒールを脱ぎ、庭園の片隅にある庭師の小屋を目指して走った。この時間帯、庭師は庭園を巡回していて小屋の中にはいないはずだ。
思った通り、庭師の小屋に人の気配はなかった。この小屋からなら竜舎から屋敷に向かう道を監視できる。息をひそめて外の様子をうかがった。ほどなくしてライラとダルクが歩いてくる。
二人の姿が見えなくなるまで待ってから、心の中で時間を数える。竜舎から屋敷に行き、ドレスを着せられるまでにかかる時間を。一分一秒が途方もなく長く感じられる中で、やっとアリアは竜舎に向かって駆けだした。
竜舎では竜丁達がワイバーンの世話をしていたが、アリアに驚いた様子で手を止めた。それに構わずアリアは素早く視線を巡らせる。
レーヴァティ家で雇用している竜丁達は全員ワイバーンの扱いに長けていて、ワイバーンの世話はもちろん御者として飛竜車を飛ばすこともできる。だから誰に声をかけてもよかったのだが、アリアが探しているのはライラ派の竜丁だ。西の辺境にこそ連れていかなかったが、ライラによる懐柔は屋敷中の使用人に及んでいる。ライラの信奉者は竜舎にもいた。
「ねえ、助けてっ!」
「ど、どうされたんですか、ライラお嬢様。その格好は?」
目当ての竜丁の前に躍り出る。目を丸くする彼は、自分の前にいるのがライラだと誤認した。まさかアリアが髪を振り乱しているどころか靴すら履かずに現れるなど想像もしていないせいだろう。
(お望みならばしてさしあげますわ。完璧な、ライラのふりを。けれどこれは、わたくしのために行うのです)
アリアは軽く息を吸う。竜丁と一気に距離を詰め、琥珀色の瞳を涙で潤ませた。本当は手も握ってやりたいところだが、あいにく片手はヒールを持っているのでふさがっている。この程度の距離感でも十分だろう。
「お母様がね、わたしにお見合いをしろって言うの! どうして好きじゃない人と結婚しなくちゃいけないわけ!? こんなドレスまで着せて、わたしの意見はなんにも聞いてくれない!」
「ライラお嬢様……」
「でもね、相手は王太子殿下なんだって。どうしよう、これって断れない話だよね? でも、わたしは絶対イヤなの! だって、殿下とは今日初めて会うんだよ? 知らない人と結婚するなんてありえないと思わない?」
「まったくです。ライラお嬢様のような自由なお方に、奥様も酷なことをなさる。政略結婚ってのは、ライラお嬢様の気持ちは全部無視して、相手の条件だけで結婚相手を決めるんでしょう? 実の娘なのに、これじゃまるで動物の交配じゃないですか。そういうのはアリアお嬢様の役目でしょうに」
竜丁はいたましげにアリアを見つめる。この男は真っ先にクビにしようと心に誓いつつ、そんな苛立ちはおくびにも出さずにアリアは何度も頷いた。
「いくら王太子様だって、ライラお嬢様にはふさわしくありませんよ。どうせ結婚するってんなら、相手はお嬢様の本当に好きなお方じゃないと」
「そうだよね! 貴方ならきっとわかってくれると思ってた!」
「……ああ! なるほど、どうしてここにいらっしゃったかわかりましたよ。でも、ダルクはどうしたんです? 御者ならあいつにも務まるでしょう」
「ダルクは今、お父様達と話してるの。わたしが逃げるまでの時間を稼いでもらってるんだよ」
「なるほど。いいでしょう、俺がライラお嬢様をどこへなりともお連れいたします。どうせお見合いはアリアお嬢様が代わりにうまくやってくれますよ。さ、どこで時間を潰しましょうか」
「だけど気に入られちゃったら、その時こそもう逃げられないじゃない? だからそうなる前に、自分の中でケリをつけたいの。そしたらきっと、気持ちを切り替えて殿下と向き合える気がするから……」
家のために身を捧げる前に、最後の思い出作りだけを望む。その健気さに竜丁は感動して涙ぐんでいた。馬鹿馬鹿しい言い訳も、案外丸め込めるものらしい。アリアは聞き耳を立てていた他の竜丁にも念入りに口止めし、取りつけられたキャリッジに乗り込んで命じる。
「──ルクバト領の、イクスヴェード大学まで連れてって」
* * *
「アリア! ねえ、いるんでしょ!?」
ライラはアリアの部屋を荒々しく叩く。今日という今日は、商会の話をしっかりしなければ。
創造魔法の開発で忙しくて、王都から届く便りの確認がおろそかになっていた。分厚い書類が届いたような気はするが、信頼しているカフ氏が転送してきたものだろうと思って特に読まずに何枚かにサインをした。いちいち目を通すほど暇ではなかったからだ。
────そしたら突然、プレイアデス商会がなくなったと聞かされた。
最初に気づいたのは、収支がおかしいと疑問を持ったナナだった。母からお小遣いをもらっていたが、それにしても前月と比べると収入分の金額が少ない。プレイアデス商会から得る、その月の利益がごっそり消えていたせいだった。
これはどういうことかとカフ氏に連絡を取っても、「自分達はプレイアデス商会にまつわるすべての権利を失ってしまった」と言われて以来、彼どころか他の部下達とも連絡が取れない。幸い、銀行に預けていた貯蓄はそのままだったが、大事な収入源を失ったのは大きな痛手だった。
アリアが何かしたに違いない。まさか恩を仇で返すなんて。これまで守ってもらっていた自覚がないから、そんなひどいことができるのだろうか。けれど再三に渡る訪問の通達をあの性悪妹はすべて突っぱね、こちらから出向いてみても警官を呼ぼうとするほどの徹底ぶりを見せてきた。こうなればもう、全面戦争しかない。
「あ、あの、何かご用でしょうか……」
「アリアはどこ!?」
ようやく部屋のドアが開く。顔を見せたのは気弱そうなメイドだ。小さく悲鳴を上げてのけぞり、おどおどと口を開く。
「ラ、ライラお嬢様とお話をされていたはずでは? こちらにはお戻りになられていませんが……」
「はぁ?」
らちが明かない。居留守でも使っているのではないだろうか。メイドを押しのけて部屋に入るが、確かに室内にはいなかった。
「ライラお嬢様、こんなところにいたのか。奥様がお呼びだぞ」
「今それどころじゃないんだけどー!」
「悪いな、奥様も大事なお話があるそうなんだ」
やっぱりダルクは冷たくなった。少し前までは、何を置いてもライラを優先してくれたのに。気安い態度はそのままなのに、どこか見えない壁を感じて寂しくなる。
「ここは……アリアお嬢様の部屋か? 騒がしくして悪かったな」
「は、はぁ……」
「行くぞ、ライラお嬢様」
ダルクに連行されて、泣く泣くアリアの部屋を出る。一体何の話があるというのだろう。アリアに奪われたプレイアデス商会を取り戻さないといけないのに。お抱えの商人や職人達が路頭に迷っていないといいのだが。
*
「えっ!? つまりそれって、お見合いってこと!?」
「そう。王太子殿下がライラに興味を持ってくだすっているのよ。これはとても名誉なことなんだから」
呑気な母の姿に、あんたの頭はお花畑か、とツッコまざるを得ない。貴族令嬢だけでも面倒なのに、このうえ王太子妃になれだなんて。そんな責任ある立場は断固拒否だ。
(ていうか、王太子ってあのチャラ男じゃんー! モブ令嬢のわたしがいきなり王太子妃になんてなったら、ハーレム女達の誰かに刺されるんじゃない?)
『アンまど』を思い出して頭を抱える。ヒロインの兄、王太子オルディールはちゃらんぽらんな女好きだ。多くのモブ令嬢を侍らせてハーレムを形成する気障なフェミニストで、妹であるアンジェルカのこともとても大切にしてくれる。くれるのだが、作中屈指のギャグ要員……言い換えればトラブルメーカーだった。
活躍らしい活躍といえば、アンジェルカのためにウィドレットとの縁談を拒絶し続けてくれたことぐらいしかない。シャウラ家が用意した女スパイのハニトラにかかってあっさり暗殺され、内乱の火蓋を切られるというアホっぷりだ。救いようがないマヌケである。
王太子オルディールのことはウザキャラとして認識していたし、ウィドレットの反逆がなければ死ぬことはないだろうと思っていたので大して気にしていなかった。この嫌悪感は、彼がダルクのことを妹に近づく馬の骨として毛嫌いしていたせいもあるかもしれない。
正直、あのナルシストが王位につくより原作通りアンジェルカが女王になったほうが国にとってはいいんじゃないかと思っている。その場合の王配は、ダルク以外になるのだろうが。
「あのー、なんとかお断りしてもらってほしいんだけど……」
「何を言ってるの! そのようなこと、絶対に認めませんよ!」
「で、でも、いきなり王太子と会うっていうのはさすがにちょっとどうかと思うんだよね」
「それなら心配いらないわ。今日はいつも通り、アリアに代わってもらうから。殿下とは、文通から始めましょう? そこでゆっくりライラのことを知ってもらえば大丈夫よ」
「そうかなぁ」
憂鬱だ。なんとしても王太子妃だけは回避しないといけない。考えないといけないことが増えてしまった。
助けを求めるように、ライラは背後のダルクを見やる。ダルクは直立不動のまま、にこりともしてくれない。これでは他の使用人と同じだ。
使用人といえば……ライラの追放に一度はついてきてくれたものの、結局ピスケス・コートに戻ったはずの使用人達はどこにいってしまったのだろう。まったく姿が見えないが、まさかすでにアリアがクビにしてしまったのだろうか。
(うぅー! 何か言ってよー! アンジェがウィドレットに求婚されてるときは、いつもカッコいいこと言ってアンジェを安心させてくれてたのに! そりゃ確かに、立場的に堂々と告白はしてなかったけどさぁ。それでももうちょっとなんかあるんじゃない?)
必死でアイコンタクトを送る。ようやくダルクは気づいてくれたようだが、困ったような顔をしてうつむかれてしまった。解せぬ。
「そろそろ王太子殿下がいらっしゃる時間ね。ちょっと貴方、アリアを呼んできなさい」
どうしてももっと一緒にいたいという母のわがままに付き合ってお茶していたら、いつの間にかそんな時間になっていたらしい。できれば早くアリアと話がしたいのだが、込み入ったことなので見合いの前にねじ込むのは難しそうだ。こんなところで時間を浪費するんじゃなかった。
「あの、奥様。こちら、アリアお嬢様のメイドから渡されたのですが……」
「なんですって?」
母にアリアの呼び出しを命じられたメイドはすぐに帰ってきたが、アリアはいない。メイドの手には一通の封筒があった。母は怪訝な顔をして封を切る。その顔は一瞬にして蒼白になった。
「誰か! アリアを探しなさい! ああもう、あの子ったら! 一体どうしたというの!?」
「ちょっとお母様、どうしたの?」
母がテーブルに叩きつけた便箋を覗き込む。そこにはこう書かれていた。
『わたくしは、ライラの代用品ではございませんことよ。
完璧なライラが必要ならば、どうぞご本人をご紹介あそばせ?』
* * *