決別への一歩
目的地の山にはほどなくして着いた。紅く色づいた木々がアリア達を歓迎するようにそよめいている。泉のそばの開けた場所にワイバーンは着陸し、ノーディスの手を借りながらアリアも地上に降り立った。
「静かでいいところだね。空気も美味しいし」
「幼いころに、何度か家族で遊びに来たことがありますのよ。ぜひノーディスにも案内してさしあげたくて」
おぼろげな記憶を呼び覚ます。猪突猛進で独善的なところは昔からだったとはいえ、まだ奇行の目立つことのなかった姉は最高の遊び相手だった。なにせ生まれた時から一緒だったのだ。ライラのことは何だってわかっていると思っていたし、彼女だってきちんとアリアのことをわかっていると思っていた。
(ライラの後を追っていただけとはいえ、かけっこに水遊び……果ては木登りや虫取りまでやっていただなんて。今ではとても考えられませんわ)
無鉄砲な童女だったころを振り返り、アリアは微苦笑を浮かべる。成長した今はとても同じことなどできそうにない。
姉妹の明暗が分かれる前のことだったから、公爵夫妻も優しかった。ライラに対する甘い諦めも、アリアに対する無責任な信頼もない。おてんばな双子の姉妹を見つめる両親の眼差しは温かかった。
この幸福がずっと続くと信じていた。けれど、それは錯覚だった。
出来の悪い子ほど可愛いとはよく言ったものだ。両親の愛はもう等分に注がれない。愛されるための努力などしなくてもライラの周りには人がいて、アリアはその踏み台にされる。ライラの分まで背負った宿命は、アリアが無垢のままでいることを許さなかった。
幸せな思い出を懐かしむのも今日で最後だ。
ここに来たのは、あの日々を塗り潰すためなのだから。
ワイバーンにくくりつけていた荷物を下ろしてラグを敷いているノーディスを見る。レーヴァティ公爵夫妻やその長女と最後にここに来たのは、十年も前のことだ。彼らと来ることはもう二度とないだろう。
「お待たせ、アリア。少しこの辺りを散策したら食事にしようか」
「ええ。この奥に、綺麗な花畑がありますの。ぜひノーディスにも見ていただきたいですわ」
差し出された日傘を受け取る。服に合わせて靴も歩きやすいものを履いているため、山歩きに支障はない。過去を掻き消すために、思い出の道をゆっくりと辿った。
儚さのにじむ薄紫色が一面に広がる花畑を歩きながら、記憶をひとつひとつ焼べていく。アリアが足をもつれさせて転べばライラは手を差し伸べてくれた。ぐちゃぐちゃの花冠を放り投げたライラの頭に、自分で作った綺麗な花冠を載せてあげる。押し花の栞を両親へのお土産にするんだと二人して意気込んで、うまく作れずぼろぼろにしてしまったこともあったっけ。今のアリアには、もう関係のないことだけど。
(迷うことなどあるかしら。決別の時が来たという、ただそれだけのことですのに)
腕を組んだノーディスに見せる笑みは甘やかで、けれど過去を見つめる瞳は冷え切っている。
親にも逆らえないような臆病者でいる時間はもう終わりだ。きっとこれが女公になるための最終試練。不要なものを切り捨てて、新しい人生を歩まなければ。ただ待っているだけではなく自ら掴みとってもいいことを教えてくれたのは、隣を歩くノーディスだ。
家族と過ごした幸せな時間を、未来の夫と過ごす時間で上書きする。もうあの三人が入り込む余地などどこにもない。
他愛のない雑談に花を咲かせながら付近を歩いているうちに正午を迎えたので、アリア達は最初の場所に戻ってきた。
ラグの上に座り、バスケットを開けて昼食の用意をする。ひき肉のパイや鮮やかなサラダを取り分け、ローストビーフに舌鼓を打つ。デザートはもちろんアリアのカップケーキだ。季節の果物を飾ったケーキは見た目も愛らしく、アリアの自信作だった。
「アリアの手作りのお菓子を食べられるなんて、私は世界一の幸せ者かもしれないな」
「もう。大げさな方ですこと」
ノーディスが真面目な顔で言ってのけるので、恥ずかしげに目を伏せる。内心では勝利の高笑いが止まらない。
「でも、本当にそれぐらい美味しいんだ。私の聖女様は、この素敵なカップケーキに一体どれだけの祝福を込めてくれたんだろう」
「ノーディスに喜んでもらいたかっただけですわ。それほど美味しそうに召し上がっていただけるなら、わたくしも作ったかいがありました」
素直な称賛が胸に温かな光を灯す。こみあげてくる嬉しさは心からのものだった。もっと、もっと褒めてほしい。アリアを見て、アリアのことを認めてほしい。ノーディスは、その願いを叶えてくれる。アリアはノーディスに寄り添い、彼の手の上にそっと自分の手を重ねた。
満たされた思いのまま、景色を眺めてとりとめのない雑談に興じる。小春日和のうららかな昼下がりと満腹感の心地よさ、そしてなにより安心感を与えてくれる人。ぬくもりを感じているうちに、いつの間にかアリアのまぶたは琥珀の瞳を覆い隠していた。
「おはよう、聖女様」
次にアリアが目を開けた時、真っ先に目に入ったのは眼前に広がる泉だった。
頭上から聞こえる声につられて顔を上げる。微笑むノーディスが、読んでいた本を閉じたところだった。アリアの身体にはノーディスが羽織っていた薄手のコートがかけられている。ノーディスの膝の上で寝かされていたことに気づき、アリアは顔を赤らめた。
「ご、ごめんあそばせ。重かったでしょう」
「そんなことはないよ? むしろ、もう少しぐらいこのままでもいいと思うぐらいだ」
ノーディスに優しく頭を撫でられて、覚醒しかけたアリアはまた穏やかな眠りの世界に引き戻されそうになる。撫でてくるノーディスが悪い。そんな風に甘やかされたら、頭がふわふわしてしまう。だからアリアが起き上がれないのは、全部ノーディスのせいだ。
「アリアはいつでも一生懸命だからね。たまにはきちんと休まないと。もちろん努力家なのは美点だけどさ」
「……わたくしが努力をしていると、そう思ってくださいますの?」
「当たり前じゃないか。アリアは誰よりも頑張り屋さんだよ。領地のことも領民のことも真剣に考えて、次期公爵にふさわしい振る舞いも身につけたじゃないか。影の努力を悟られないように、なんでも自然に美しくこなせるように見せるには、それ自体にも才能と練習が必要だ。貴族たるもの常に正しく完璧であらねばならない……そんな姿がよしとされるけど、貴方ほどそれを徹底できている令嬢はいないよ。誰にでもできることじゃない」
「……」
「きっと小さいころから、なんでも真面目に打ち込んできたんだろう? 刺繍も楽器も、お菓子作りも、練習しないと身につかないことだ。あそこまで卓越するには、長い時間をかけないといけない。つらいこともたくさんあっただろうに、よく投げ出さなかったね。偉いなぁ」
「……わたくし、刺繍は苦手でしたのよ。ずっと針で指を刺してばかりで、けれど、上手にならないといけなくて、だって、鞭のほうが痛いから……」
アリアの頬を涙が伝う。それを丁寧にぬぐい、ノーディスは言葉を続けた。
「貴方からもらったハンカチは大切にしているよ。貴方の刺繍はとても綺麗だ。誰彼構わず見せびらかして、私の聖女様が私のために施してくれたんだって触れ回りたいぐらいにね。……貴方は刺繍が嫌いかい?」
「……わかりません。好きでも嫌いでもないのです。確かに特技ではありますが、本当は趣味にしているわけではないのですから。ですが……だからと言って刺繍を取り上げられたら、自分の存在意義を否定されてしまったような気がします」
「そうだよね。だから私は、刺繍なんて二度としなくていい、とは言わないよ。たとえ経緯がどうであれ、アリアが磨いた技術と費やした時間は本物なんだから」
静かに涙をこぼすアリアの奥には、ずっと泣きじゃくっていた幼い少女がいる。ノーディスの言葉は光明となって彼女すらも照らし出した。
「私も、今の貴方を貴方自身に否定してほしくないんだ。過去の貴方があってこそ、今の貴方がある。アリアが本当に嫌だと思ったことなら、捨ててしまってもいいと思うけど……苦痛を乗り越えたうえで得た力だと思えるのなら、どうか大事にしてほしい」
小さく頷いて、アリアは潤んだ目でノーディスを見つめる。
ノーディスはアリアが弱い部分を見せても失望しない。アリアを受け入れてくれる彼に、どうしても尋ねたいことがあった。
「もしもわたくしが、貴方の思うような淑女ではなくても……貴方は、わたくしを愛してくださいますか?」
「もちろん。私は、貴方が完璧な淑女だから惹かれたわけじゃない。たとえどんなアリアでも、私の愛するアリアなんだ。私がまだ知らない貴方のことも含めて、貴方のすべてを受け止めよう」
ノーディスの言葉が心に溶けていく。安らぎに誘われ、アリアは再び目を閉じた。
次章は最終章となります。短いので、次話からは土日も更新する予定です。




