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(ワイバーンに直接乗るための服など持っていないのですが……普通の乗馬服で大丈夫なのかしら?)
アリアは小首をかしげつつ、鏡の前でターンする。少なくとも着こなしにおかしなところはなさそうだ。
今日は久しぶりにノーディスと会うことができる。何やら王都で忙しくしていたようで、収穫祭以降は手紙のやり取りばかりだった。そんな彼の顔をやっと見ることができるのだから、楽しみでないと言えば嘘になる。
ただ、不安がないこともなかった。今日はピクニックに出かける予定なのだが、移動手段がワイバーンなのだ。ワイバーンが引く飛竜車ではなく、その背に直で乗るらしい。
フェンリル討伐に多大な貢献をしたノーディスの愛竜を称えているうちに、話がそんな風に転がっていってしまったのだ。アリアからワイバーンを褒めて関心を寄せてしまった手前、嬉しそうなノーディスに水を差すこともできない。
手紙で行われた会話だが、彼のワイバーンへの愛情は文面からもよく伝わっていた。ワイバーンのことをよく知っている彼がアリアの騎乗を止めないというのなら、きっと乗っても大丈夫なのだろう。そう信じるしかない。
服装以外にも、ピクニックの用意は完璧だった。レーヴァティ家の料理人が腕によりをかけて作ったランチボックスは、彩りも鮮やかで栄養も豊富だ。そこにアリアの手作りのカップケーキを添えているので、ノーディスもきっと喜ぶだろう。
約束の時間に、空から白銀のワイバーンが舞い降りてくる。ノーディスとその愛竜だ。
「久しぶり、アリア。元気そうでよかった」
「ノーディスもお変わりないようで安心いたしました。ずっと貴方に会えなくて、わたくしとても寂しかったです」
ワイバーンから降りたノーディスはアリアをぎゅっと抱きしめた。蕩けそうな琥珀の瞳にノーディスだけを映し、アリアも甘えた声を出す。
「王都の様子はいかがでした?」
「それが、狩猟大会のフェンリルのことが噂になっててさ。収穫祭には領外からの観光客も多かったし、そこから話が伝わったのかな。たくさんの人が貴方のことを心配してたよ。本当に、誰も怪我がなくてよかった」
「まあ。もうそれほど広まっているだなんて」
今初めて聞いた、という風に驚いてみせるが、本当はもっと前に知っていた。アンジェルカとレーヴァティ公爵夫人から手紙が届いていたからだ。
レーヴァティ公爵夫人からの手紙は冗長で、自己憐憫とうわべだけの母性が多分に含まれていた。過剰な装飾を取り払って要点を抜き出せばこうなる。『貴方の恥になるのだから、誰に何を聞かれても、これ以上虚言を言いふらしてはなりません。いい子のアリアなら、どうすればいいのかわかるでしょう?』と。
それは懇願だった。周囲の気を引こうと大げさな嘘をつく聞き分けのないアリアをなだめるというより、アリアを起点にしてこれ以上噂が広がらないようにするためのものだ。
この期に及んでアリアの主張を封じ込め、“そういうこと”にしようとするとは。どうやら公爵夫人は、何も学んでくれていないらしい。あるいは、それほどまでにアリアが下に見られているのだろう。アリアなんて、しょせんは自分の言いなりになる付属物でしかないのだ。
悲しくて悲しくて、アリアは早速老エブラに相談した。領主の館がフェンリルに襲撃されても帰ってこないどころか、娘の身を案じもせずに捏造だと決めつけている領主夫妻など、本当にこの領地に必要なのだろうか。
フェンリルの襲来は、これまでレーヴァティ家の中で行われてきたような、アリアだけを標的にしたライラとライラ派の使用人からの陰湿な嫌がらせとはわけが違う。多くの者が危険にさらされた。証人には、収穫祭以前はアリア派としての立場を表明していなかった者も含まれる。自分の使用人を言いくるめたアリアが必要以上に騒ぎ立てて被害者ぶっているだけだ、というお決まりの理論はもう通用しない。
ノーディスも教えてくれた。自分にも不利益が降りかかれば、人は自分のためにアリアの味方をしてくれるということを。その助言通り、老エブラは夫人の態度に難色を示した。
アンジェルカから届く手紙は、公爵夫人とは違ってアリアへの思いやりにあふれていた。王都でのレーヴァティ公爵夫妻の様子を尋ねれば、アンジェルカはかなり回りくどい表現を用いながらも彼らが孤立していることと、それがライラについてよからぬ噂が出回っているせいだということを教えてくれた。友人の家族を馬鹿にしてしまわないように、精一杯言葉を濁したのだろう。
わざわざ厳重に口止めを頼んだ公爵夫人。アリアの暗殺を目論んだと何故か噂されているライラ。この二つを合わせれば、公爵夫人の奇行の理由はすぐにわかった。きっと彼女も疑っているのだ。フェンリルの侵入はライラの手引きだということを。いつだってライラを優先させる公爵夫人は、ライラのためならば扱いやすいアリアに我慢を強いることなどなんとも思わない。
ちょうどライラからも、訪問の許可を求める手紙が連日届いていた。プレイアデス商会のことで話したいことがあるらしいが、忙しかったので一度も許してはいない。
門の前で連日騒ぎ立てている少女がいると困り顔の門番が訴えてきたが、不審者なら早く警官に通報しなさいと答えてからは来なくなったようだ。屋敷内で突撃されないということは、元ライラ派の使用人は引き続きアリアに忖度することを選んだのだろう。特に忠義に篤い者はライラと一緒に西の辺境に行っているから、元ライラ派といえど日和った者しかピスケス・コートには残っていないのかもしれない。
ライラの対処に頭を悩ませなくなったのはいいことだ。おかげで報告書の閲覧に集中できた。プレイアデス商会というライラ個人の商会にレーヴァティ公爵が領地の予算を不正につぎ込んでいないか、その調査結果の確認もはかどるというものだ。
アリアがノーディス達に作らせたポラリス商会は、レーヴァティ領で領主が主導する正式な事業のためという名目で支援しているものだ。いわば公共事業の一環で、生まれた利益はアリアの懐には一切入らない。
一方でライラが作ったプレイアデス商会は、領地の経済活動に多大な貢献をしているとはいえあくまでも民間の組織でしかなかった。プレイアデス商会が儲かれば儲かるほど、資本家の懐も潤うだろう。いくら領主の娘の商会といえど……否、領主の娘の商会だからこそ、一般的な補助金の域を越えて支給される金があってはいけなかった。
もしその癒着が見つかれば、公爵もその長女も同時に失脚させられる。そう思っての調査だった。
アリアほど黒い望みはなかっただろうが、不正そのものの可能性についてはノーディスも憂慮していたらしい。最初にアリアに調査の必要性を示唆したのはノーディスだ。そこで二人は情報を共有し、得た証拠の扱いについても一緒に考えることにした。
せっかく世論がアリアの味方をしてくれたのだから、やるべきことはひとつだ。
針の筵に耐えかねたレーヴァティ公爵夫妻が領地に帰ろうにも、公爵夫妻がフェンリル騒動をかたくなに否定していたことは狩猟大会に参加していた他の郷紳達にも吹き込んである。「我々を嘘つき呼ばわりするのか」と、みなたいそうご立腹のようだった。今さら領地に帰ってきたところで、怒りと失望の混じった眼差しに晒されるだけだろう。
よもや領民の不興すら買っているとは思いもしていない領主夫妻は、一体どんな顔をして領地に帰ってくるのだろうか。自分達の人望のなさに恥じ入って、すぐさまアリアに家督を譲ってくれればいいのだが。
ノーディスの手を借りてワイバーンの背に乗る。太陽の光を反射して冷たく輝く白銀の鱗は、思っていたほど硬くない。
なめらかできめ細かく、しっとりと手に吸いつくようなしなやかさがある。癖になりそうな触り心地だ。
背を撫でてその不思議な触感を堪能している間、ノーディスは慣れた手つきでアリアをワイバーンに固定していく。
「ベルトはきつくない?」
「ええ。ちょうどいいですわ。ありがとう、ノーディス」
「空を飛んでいる間は、しっかり私に捕まっていてね。本当に無理だと思ったらすぐに降りるから、ちゃんと言うんだよ。風をじかに感じる分、飛竜車とは勝手が違うから」
そう言いながら、支度を終えたノーディスもワイバーンにまたがった。言われていた通り、彼の腰に手を回して背中にぎゅっとしがみつく。初めてワイバーンの背に乗って空を飛ぶ……その緊張以上に鼓動を早めるものがあることに気づき、アリアの頬がかぁっと赤くなった。けれど今さら離れられない。
「風で土埃が舞うから、少し目を閉じていたほうがいいよ」
忠告に大人しく従って目を閉じる。ノーディスがワイバーンに声をかけると、それまで恭しくかがんでいたワイバーンはゆっくりと起き上がり、翼を大きくはためかせた。
身体そのものがふわりと浮かんでしまったような感覚に、思わず小さな声が漏れる。しかしそれは悲鳴ではなかった。
歓喜の響きを帯びた自分の声が信じられず、アリアはおずおずと目を開けた。いつの間にかワイバーンは地上をはるか遠くに置き去りにし、青空の下を悠々と飛んでいる。
「まぁ……! ここまで遠くが見渡せるなんて……!」
眼下に広がる景色にアリアの視線は釘付けだ。何もかもが小さく見えて、まるで模型を見下ろしているかのようだった。赤く色づく木々や風にそよぐ黄金色の麦穂など、自然が織りなす絵画の美しさに目が離せない。
「空からの眺めは気に入った?」
「はい。まさかこれほど素敵だなんて。飛竜車で移動するときは、いつも窓にカーテンがかかっていましたの。こうやって地上を眺めたのはいつ以来かしら」
幼い日の記憶を紐解く。いつからあのカーテンは窓を覆うようになったんだっけ。
(確か……わたくしの淑女教育が本格的に始まった頃からかしら。飛竜車に乗るたびにわたくしとライラが窓の外を見てはしゃいでいたものだから、淑女らしくない振る舞いをしないようカーテンが閉じられるようになったような)
それ以来、たとえどれだけ晴れた日であろうとぴたりと閉じたカーテンを開けるという発想はなくなった。
無垢さの演出でいたいけな振る舞いをすることはあっても、度が過ぎればしつけもなっていないただの子供だ。それでは淑女としての在り方に反してしまう。だからアリアはいつだって、煌々と輝くカンテラに照らされながら前を向いておとなしく座っていた。
けれど今は違う。アリアの視界を覆い、絶景を遮るものは何もない。この目に映るすべてがアリアのものだ。
「楽しんでもらえたようでよかったよ。アリアは高いところが好きなんだね」
振り返ったノーディスは柔らかく微笑んでいる。曇りなく輝く赤い瞳に思わず見惚れそうになりながら、アリアも笑みを返した。
「私はね、アリア。貴方の好きなものや嫌いなものをもっと知りたいんだ。だから、これからも一緒に探していこう? 何が好きで何が嫌いかわかっても、私はそれを否定しないから」
「……はい、ノーディス」
アリアはノーディスの背中に顔をうずめる。幼いころに落としてきた何か大切なものを、彼と一緒なら拾い集められる気がした。