光明
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ノーディスが大学のあるルクバト領に帰ったのはつい昨日のことだ。彼がいないだけでタウンハウスも幾分静かに感じられる。その寂寥をごまかすように、ウィドレットは近侍に手渡されたばかりの朝刊を広げた。
財政界の動向や市井の様子、そして面白おかしく取り沙汰される社交界。新聞は情報の宝庫だ。異母弟が刻んだ戦果も華々しく載っている。『名門公爵家の知られざる確執──虐げられる聖女に救済を』実にいい見出しだ。
(レーヴァティ家のことはノーディスに任せていれば大丈夫そうだな。婿入り先の地ならしぐらい、もっと手伝ってやりたかったが。成長を実感できるのは嬉しいが、やはり少し寂しいものだ。……いや、処世術に関しては元々あいつのほうが卓越していたか。むしろ生徒は俺のほうだったな)
昔のことを思い出し、ウィドレットはくつくつと笑った。
可愛い異母弟の頼みなら、どんなことでも二つ返事で受け入れる。ウィドレットはそういう男だ。
まさか自分がここまでノーディスに心を開くようになるとは、幼いころは想像もしていなかった。あの頃は、母を奪った元凶達の子である彼を憎んですらいたというのに。
シャウラ公爵から一切の愛を得られず、正妻の座にありながら日陰に追いやられていた女性。そんな女性を母に持つウィドレットも同じように日陰の住人だった。
家族間の交流はほとんどなく、申し訳程度についた使用人は何の役にも立たない。まともな環境も教育も与えられなかったウィドレットは、いつも目をぎらつかせて一人で必死に生きていた。
母方の祖父母がよこしたという教育係も、ウィドレットには匙を投げていた。
幼いウィドレットはまだ知らなかったが、自殺に失敗して廃人同然になった母は、そのまま実家に連れ戻されていた。祖父母は憎い男の血を引くウィドレットのことまでは引き取ろうとしなかったが、シャウラ家を掌握するための駒とはみなしていたらしい。それにふさわしい木偶になるよう、彼らは教育係を通じて厳しいしつけとシャウラ家への悪感情だけ教え込もうとしたが、ウィドレットはそれにすらも反発した。
食事が与えられないので厨房を荒らして盗み食いを繰り返し、礼儀を教えられていないので誰であろうと牙を剥く。いつしかウィドレットは屋敷内でもすっかり問題児として定着し、とうとう使用人すらつかなくなった。
けれどそのおかげで、誰もウィドレットのことを「幽霊の子」なんて呼ばなくなった。たとえ鼻つまみ者としてであれ、ウィドレット・シャウラという存在を認知してもらえた。
一方、ノーディスは違う。いつも使用人に囲まれて、何の苦労も知らないように笑っているからだ。少なくとも当時のウィドレットはそう考えていた。
ウィドレットが呼ばれることのない家族団らんの席にも、きっと彼は招かれているのだろう。そう思っていた。母親を独占しようとする父親の嫉妬心のせいで、両親の前に姿を見せることをほとんど許されていないなんて知らなかった。
深く愛し合う父と後妻の間にたった一人しか子供がいない本当の理由なんて、もっと気づきもしなかった。愛した女が“母親”という聖なるものになったところを見たいという男の傲慢で生まれたはいいものの、子供なんて彼女の時間と関心を盗む付属物でしかないと気づかれて捨てられたなど、どうしてウィドレットに理解できただろう。
世界の悪意になんて触れたこともないような無垢な異母弟は、ただ純粋なふりをしていただけだった。その虚飾に気づかなかったのは、彼は愛をウィドレットにすら分け与えようとしていたからだ。
おもちゃやらお菓子やら、そういうものを持って毎日のように遊びに来る。だからいつもドアの前で追い返した。後妻と同じ色の目をした異母弟と、まともに言葉を交わしたことは一度もない。眩しく輝く彼のことは、ずっと遠くで眺めていただけだった。
ノーディスのことが目障りで仕方なかった。彼と遊んでいる暇があったら、この渇きを満たせる何かをひとつでも多く手に入れなければならないのに。
けれどその飢餓の原因がなんなのか、ウィドレットにはわからなかった。魔力孔はあるのに体内にほとんど魔力がないことから、自分が魔力に関する欠陥を持っていることはなんとなく認識していたが、足りていないのは魔力だけではない気もする。
好きな時に好きなものを食べて、悪戯にかかった大人を笑い飛ばし、怒鳴り声と悲鳴に耳を澄ませても、一瞬の快楽は虚しさだけを連れてきた。
何かをすればするほどに、見えない何かに追い立てられているような感覚を覚えた。それから逃れるために暴れて、また虚脱感に襲われる。悪循環だったが、これ以上どうすればいいのかわからなかった。
最初の転機が訪れたのは、七歳の時だ。
今日は誰にどんな悪意をぶつけてやろうか考えていると、嵐が通ったかのように荒れた廊下に異母弟が倒れ込んでいた。禍々しいほどの光を帯びて輝く左目を押さえ、もがきながら苦しげにうめき声をあげている。
その傍には絵本と、皿の破片とお菓子が散らばっていた。厨房からもノーディスの部屋からも遠いはずなのに。きっといつもの通り、ウィドレットに会いにこようとしていたのだろう。
思わず名前を呼んで、おそるおそる揺すってみたらノーディスは血を吐いた。驚いたウィドレットは、様子を見に来たのか近くを通りかかった父親と使用人を大声で呼んだ。
愛されているはずの異母弟が死にそうなのに、大人は誰も助けに来なかった。普段ノーディスをちやほやしていたはずの使用人すらもだ。
長男は当主からいないものとして扱われているが、次男に至っては当主から目の敵にされている。次男本人の愛らしさに負けて庇護はしていたが、越権行為を咎められて当主の不興を買ってしまわないか不安だったのだろう。異母弟が得ていた愛情がうわべだけのものでしかなかったことに、ウィドレットは初めて気がついた。
そういえば、ウィドレットの部屋に来る時のノーディスは、何故かいつも一人だった。嫌われ者のウィドレットに使用人が近寄りたがらなかったからだと思っていたが、そうではなかったのだろうか。
弱々しく震えるノーディスの手に自分の手を添えたのは、特に何か深い考えがあったわけではない。苦しみを和らげることなど自分にはできないので、せめて震えを止めてやろうと思っただけだ。
すると不思議なことが起きた。ウィドレットの手にある魔力孔が熱を帯び、ノーディスの魔力孔から放たれていた光が霧散していったのだ。それに伴ってノーディスの容態も落ち着いていく。魔法にならないまま溢れ出た魔力が何か悪さをしていたのだと、遅ればせながら気づいた。廊下の惨状もそのせいだろう。
小声で「兄上の手、あったかいね」と微笑み、ノーディスはそのまま意識を失った。
他人の魔力を奪って怒られることはしょっちゅうあったが、礼を言われたのは初めてだ。そんな奇特なことをする異母弟が信じられなかったし、今の言葉が感謝の言葉だと認識できた自分にも驚いた。
それ以来、二人はなんとなく一緒にいるようになった。
遊びに来たノーディスのためだけにウィドレットは部屋のドアを開ける。二人でおやつを分け合って、日が暮れるまで同じ部屋で過ごすのだ。
兄なのに文字もろくに読めないどころかまともな教養が何一つ身についていなかったことが悔しかったので、恥を忍んでノーディスに教えを乞うた。愛を与えられたのではなく与えさせた弟は、その成果を惜しみなくウィドレットと分かち合った。
ノーディスの愛想のよさをもってしてもかわせない悪意があれば、生まれついての狡知でもってウィドレットが報復に出る。誤解されがちなウィドレットのために他人との橋渡しをするのはノーディスの役目だ。
兄弟仲はまだぎこちなかったが、それでもうまく回っていた。「お前は利用できるから、俺の傍に置いてやる」……この言葉を喜ぶノーディスは、やっぱりちょっと変わっていたのだろう。
シャウラ家の嫡男としての自覚を芽生えさせて独学で教養を身につけたウィドレットに対しても、周囲の目は相変わらず冷たい。
唯一、母方の実家は懲りずに接触を試みていたが、祖父母の傀儡になるつもりは毛頭なかった。そんなに当主にさせたいなら、支援を引っ張るだけ引っ張って踏み台にしてやる。
ノーディスと比べられることも多々あったが、彼が大人達にかけられている猫なで声の固さも知っていたので平気だった。蔑ろにされる子供は自分だけではない。この小さな異母弟のことは、自分が守ってやらなければいけないのだ。
ノーディスはウィドレットから母を奪った原因の一つだが、だからといってウィドレットの邪魔にはならない。
彼は敵ではないのだ。兄上、兄上と無邪気に懐いてくる理由はいまいちわからないが、好意を向けられて悪い気もしなくなる程度にはほだされていた。
二度目の転機は、ウィドレットの十歳の誕生日だった。
大人は誰もウィドレットの誕生日を祝うつもりなどないくせに、体裁がどうとか言ってパーティーが開かれた。年の近そうな少女が大勢招かれていたので、この中の誰かが婚約者候補なのかもしれない。子供心にもそう思ったが、別に興味はなかった。
「お兄ちゃんって、なんだかさびしそうね。ひとりぼっちがいやなら、わたくしがおともだちになってあげてもいいわよ」
それもこれも、パーティーが始まって早々に従妹だとかいう生意気な初対面の子供にそんなことを言われたせいだ。
あの美しい深海の瞳がちらついて離れない。孤独が嫌だなんて誰にだって一言も言っていないし、そもそもそんな風に思ってもいないのに。どうしてあんなことを言われなければならないのだろう。
招待客が入れ代わり立ち代わり挨拶に来る間も、ずっと従妹のことを考えていた。
あの目には一体何が映っていたのか。もっと彼女と話して、その思い違いを訂正させたい。自分は孤独ではないと、ちゃんとわからせてやりたい。
パーティーの途中で見知らぬ少女にケーキを思いっきり顔に投げつけられても、ウィドレットは動じなかった。従妹のことで頭がいっぱいだったせいだ。
「兄上、本当に僕から何も贈らなくてよかったの?」
謎の少女が暴れたせいで服が汚れたので、一度下がって身を清める。それを済ませると、ついてきたノーディスが不安そうに声をかけた。頼んでもいないパーティーのせいで何かと慌ただしくて、それまで私的な会話がほとんどできなかったせいだろう。
────もしもこのとき、謎の少女の暴挙がなければ。
パーティーが終わるとすぐ、シャウラ公爵夫人は先妻の息子の無愛想さをあげつらって、彼の廃嫡と自分の息子の家督相続を夫に持ちかけていた。
名君と言われた先代の王と同じ色の瞳をノーディスも持っていたことを理由に、まだ残っていた招待客も夫人に追随した。シャウラ家と近しいせいで、かつてのウィドレットの粗暴さを知っていた者達だ。
赤い瞳はただの偶然だった。とはいえ、先妻がまだ妻の座にいたときに愛人との間に子供が生まれ、しかもその直後に先妻が死亡したと知られると外聞が悪い。そこで、赤い瞳はあくまでも父方の祖父から受け継いだものだということにされ、ノーディスは表向き先妻の子として扱われていた。
たとえ実の息子のことであれ、愛する妻の口から他の男の名前など聞きたくないシャウラ公爵は、夫人のそんな言動を夜に行う甘い罰の口実にしようと思った。だからその場で行われた名ばかりの会議を続けることを許した。
そして、偶然それを聞いてしまった少年は、何もかもを奪われた憤りとこれからさらに失う恐怖に心を蝕まれ、行き場のない感情をか弱い異母弟にぶつけてしまう。
「幽霊の子」は、どこまでいっても要らない子。
その自覚は、おぼろげな愛を濁った情念に変えるはずだった。
けれど、大人達の話題は無礼な少女のことでもちきりだった。
彼女に荒らされたせいでしらけた会場をとりなすために奔走したシャウラ公爵夫人は、その後にするつもりだった直談判の気力すら削がれてしまった。不出来な嫡男を嘲笑い、次期当主には不適格だと晒すためのパーティーだったのに。発端となる公爵夫人の訴えがなければ、次期当主についての話し合いの場も持たれない。
だから、この時交わされた兄弟の絆の証を、瀆すものは何もなかった。二人の絆がもつれることはない。
この世界においてただ一人運命を知る少女の小さな羽ばたきは、確かにひとつの悲劇をねじ曲げたのだ。
「ああ。面白い魔具を見つけてな。物を贈る代わりに、お前にやってほしいことがあるのだ」
気休め程度に前髪で魔力孔を隠していたノーディスに眼帯を差し出す。真新しい手袋を嵌め、ウィドレットはいびつに微笑んだ。
大丈夫。彼からの愛が本物なら、きっと受け入れてくれる。
「兄上のお願いなら、いいよ」
それがどんな魔具かを説明しても、ノーディスはためらわなかった。母を足蹴にした女と同じ色の瞳が、ウィドレットを引き上げてくれる。
従妹に報告しなければ。お前のその、何もかもを溶かしてしまうような目に映ったものはまやかしだと。お前に心配されずとも、自分は孤独ではないのだと。
「そうなの? ならよかった。でも、やっぱりわたくし、お兄ちゃんのおともだちになってあげるわ。そしたら、もっともっとさみしくなくなるでしょ?」
天使のように笑う童女にぎゅっと手を握られて、心までも鷲掴みにされてしまったのはまた別の話だ。
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