扇動者の本気
そんなノーディスが投じた一石は、社交界に大きな波紋を呼んだ。
危険なモンスターが突然街に現れ、いたいけな令嬢を襲った────新聞社までもが嗅ぎつけて、無責任な風刺記事を面白おかしく広めている。それを読んだ人々も、ああだこうだと勝手な憶測を囁いた。
それがアリアへの侮蔑や嘲笑に発展しないよう、制御するのはノーディスだ。
伊達にこれまで人当たりのいい男を演じてはいない。当人の婚約者である誠実な彼がそう言うのなら、と収められた流言の矛先は、もっと目に見えた瑕疵のあるほうへと向かう。表向きは婿入り先の悪い噂の火消しに奔走しているだけのノーディスに、レーヴァティ公爵夫妻は文句を言うことすらできなかった。
だが、ノーディスが潰しているのは、嫉妬や野次馬根性が生んだアリア個人への誹謗中傷だけだ。
社交界の花だったアリアは多くの貴族と積極的に交流していたこと、そして王女アンジェルカを後ろ盾としていることから、アリアを守るための印象操作は簡単に進めることができた。その代償として、レーヴァティ家の当主夫妻と長女の名誉は日に日に傷ついていったが。
フェンリル騒動など大げさなだけだと一蹴して以降その話題にまったく触れない公爵夫妻の姿を見た上流階級の人々は、「あそこまで認めないなら、よほど隠したい何かがあるに違いない」と下衆な勘繰りを始める。たとえ話のつじつまが合わなくても、陳腐な陰謀論が人を吸い寄せるのはレーヴァティ家の次期当主の謎を巡って人々が好きに噂し合っていたことからも実証済みだ。
証拠は何もないため公の裁きにまで発展することはなかったが、いつしか「次期当主となったアリアに嫉妬したライラが暴走してフェンリルに彼女を襲わせ、家の名誉のためにレーヴァティ公爵夫妻はその事実を揉み消した」という噂がまことしやかに囁かれるようになった。
公爵夫妻は、失った信用を取り戻すべく王都で精を出しているようだ。
陰ながら笑いものにされ、義憤を燃やす者に疎まれていることに気づいていても、ライラのためなら頑張れるらしい。
今ここで領地に帰れば十年前の二の舞いになる、ライラの将来のためにここは耐えて悪評の払しょくに動いたほうがいいと、二人の思考を誘導したのは他ならないノーディスだが。冬が始まる前に領地に戻られて、アリアの自由な時間を削られたくなかったのだから仕方ない。
あっさりノーディスの手のひらの上で踊り出した二人も二人だ。どうしてその熱意の半分でもアリアのために注いでくれなかったのだろう。まったくもって理解に苦しむ。それほどライラが可愛かったのだろうか。
(それならそれで、その可愛いライラと一緒に倒れるといいさ。大丈夫、貴方達がいなくても私がしっかりアリアを守るから。……アリアを蔑ろにしたのは貴方達だ、いい大人なんだから自分の行動にぐらいきちんと責任を取れるだろう?)
大貴族の当主には二種類の人間がいる。
ひとつは、その地位にふさわしくあろうと研鑽を重ねた人間。
もうひとつは、生まれながらにして得た地位に慢心して何もしない人間だ。
積み重ねてきた歴史と財産という、安定しすぎた土台が後者の人間から貪欲さを奪う。その土台の上であぐらをかく者は、貴族として最低限持ち合わせるべき処世術ぐらいしか武器がないにもかかわらず、家の力を自分の力と錯覚しているから安穏と暮らしていられるのだ。ひとたび土台が揺らいでしまえば、その平和な日々はあっけなく手放される。
それでもせめて心の底から善良であれば、ノーディスが付け入る隙はなかっただろう。アリアが悲しむことだってなかった。だから、すべてはレーヴァティ公爵夫妻の自業自得でしかない。
王都での扇動が十分な成果を見せ、商会の宣伝もあらかた済んだので、ようやくルクバト領に帰れるようになった。一番の獲物もレーヴァティ家に関心を見せている。あとは舞台の幕が開くのを待つだけだ。
イクスヴェード大学の構内にある大学寮に入り、やっと一息つく。
ここ半月は暗躍にかかりきりだったので、アリアとのやりとりは手紙が中心だ。寂しい思いをさせていないといいのだが。週末にでもデートに誘って、これまでの遅れを取り返すべきかもしれない。
(アリアのために色々とやってるのに、そのアリアの心が私から離れたら意味がない。だからこれも必要なことなんだ。餌をあげる機会は大切にしていかないとね)
心の中で自分自身に言い訳し、ノーディスは何度も頷く。
いくらアリアのことは尊重したいと思っているとはいえ、籠絡対象に本気になっているだなんてまさかそんなことがあるわけないだろう。
家族からの愛を与えられなかった孤独な少女を守りたいと思ったのは事実だが、そんな彼女に新しい家族として取り入ることでより自分の居心地がよくなると思っただけだった。
だから、久しぶりにアリアと会えるからといっても、別に浮かれてなんていないのだ────!
早くアリアに誘いの手紙を書こう。寮のホールを突っ切るノーディスに声をかけてくる青年がいた。ユークだ。
「シャウラ君、俺の代わりに宣伝に行ってくれてありがとな」
「何事も適材適所ですから。レサト君こそ、私が不在の間も魔具開発に打ち込んでくれたでしょう?」
「べ、別に、楽しいからやってるだけだし。さすがにまだプレイアデス製ほどの品質のものは作れないけど、廉価版としてはかなり安定してきた。売り上げもいいしな」
「それは朗報ですね。やはり、貴方に声をかけたのは正解でした」
「プレイアデス製の魔具っていう完成品の見本があったからな。製法はなんの参考にもならないけど、目指す答えがわかれば必要な内部構造も組み立てられる。魔力を込めるんじゃなくて、魔法そのものを動作させるのは難しかったけど。プレイアデス製の魔具で一番独創的だった部分は、魔力を持たない人間でも扱えるってところだ。その着眼点自体は本当に画期的だから、なんとかそこまで再現したいんだけど、エンセルフィッガー方程式を実証して永久機関を作れればきっとできる。それだけじゃない。本当の“完成形”まで辿り着けるかもしれない」
ユークは早口でまくしたてる。楽しそうでなによりだ。
「アリア様が予算をたくさんくれたから、好きなだけ研究できるんだ。人手も都合してもらったし。おかげで色々実験できるし材料もたくさん揃えられた。シャウラ君、今度会ったらお礼を言っておいてくれ」
「わかりました。支援のおかげで研究が実を結んでいるとわかれば、アリアもきっと喜びますよ」
ユークの言葉通り、アリアは莫大な予算を都合してくれた。領地をあげての事業だからだろう。
ポラリス商会を後援しているのはアリア・レーヴァティ個人ではなく、レーヴァティ家そのものだ。領主代行として、アリアはそれを示す書類にサインしてくれた。だからこそ、なんとしてでもふさわしい成果を出さなければならない。
「卒業の日も近くなってきましたが、これからどうするか決めているんですか? もしレサト君さえよければ、このまま私と一緒にレーヴァティ領に行くのはどうでしょう。ポラリス商会の研究部門は、貴方抜きでは成り立ちませんから」
「お、俺も、実はそう思ってて……! もっとこの新しい魔具について研究したかったんだ。ポラリス製の魔具はまだまだこれからだから。どうせ家は兄上が継ぐし、弟だっているから、俺が家を出たって問題ないし。好きなだけ開発に没頭できるレーヴァティ領で暮らすのも、悪くないよな」
ユークは嬉しそうに何度も頷いた。やはり持つべきものは優秀な友人だ。彼がいれば、きっとこの事業を成功に導けるだろう。
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次話はウィドレット視点です