愛の価値
ノーディスがアリアの虚像の奥にあるものを見つめていたことなど露知らず、アリアは煌々と燃え盛る焚火へと向かった。さすがにここまで来れば、夜闇を理由にして睦言を囁き合う恋人達はいない。近くで酔っ払い達が歌っているのでムードもへったくれもないからだ。
秋風で冷えた身体を焚火で暖める。踊っていた時はむしろ暑いくらいだったが、やはりしばらくすると冷えてくるものだ。ノーディスがワインを飲み終えたら屋敷に戻ろう。
「失礼、そこのお嬢さん」
そう思っていた時、突然誰かに声をかけられた。金髪の男性だ。
声からしてまだ若い。聞き覚えはあるような気がするが、ピンとくるものはなかった。どこかで会ったことぐらいはありそうだが、そこまで親しい間柄ではないのだろう。仮面越しのため、脳内での照会はそれが限界だった。
「わたくしのことでしょうか?」
まともな光源が焚火ぐらいしかないのでわかりづらいが、男性は上質そうな服に身を包んでいる。立ち振る舞いも洗練されているので、上流階級に属しているのは間違いないだろう。
ただ、レーヴァティ領の人間ではなさそうだ。もし領民であれば、たとえ顔がわからなくても、彼の服装や仕草からして背格好でもう少し相手を絞り込める程度には付き合いのある家柄の出のはずだった。他領からの客人だろうか。
「ああ。せっかくの祭りだ、僕と一緒に踊らないかい?」
男性は気取った様子でアリアに手を差し出す。足腰はしっかりしているので、酔っているようには見えない。本気でアリアを誘ったのだろう。
(主催の家の娘にダンスの誘いをかけるのは、高位貴族の殿方のマナーですわ。もしもわたくしをアリア・レーヴァティと看破して声をかけたのであれば、きっとこの方はレーヴァティ家より位が高い家の方のはず。ですが今宵は囲い火の舞踏。そのマナーは適用されませんが……他領の方であれば、その辺りの事情には疎いかしら。それとも、わたくしが誰なのか本当に気づいていらっしゃらないのでしょうか)
普通の舞踏会なら、ノーディスに断りを入れたうえでこの男性と一曲踊っていた。自分の家より家格が低い家の舞踏会に招待された場合、主催の家の娘をダンスに誘うことで、招待されたことへの感謝を示すという意味があるからだ。どのタイミングで踊るかは自由だが、それを怠るということはパーティーに不満があるとみなされてしまう。そうなると、お互い恥をかくことになりかねない。これは果たすべき社交辞令の一環、義務のようなものだ。
しかし、囲い火の舞踏の主催はあくまでも豊穣の神だった。上流階級のマナーなど問われない。各々が好きなように踊るだけだ。仮面の下ではどんな身分の人間だろうと、それを振りかざすこともできない。
無礼講だということは入場の際に説明をしているはずなので、それを盾にすれば簡単に拒めるだろうが……面倒なのは、この男性が本当にレーヴァティ家より格上の家の人間で、宴席の戯れを水に流すことができないほど器が小さかった場合だ。
(レーヴァティ領の事情に疎い方ならば、仮面をつけたわたくしとノーディスを看破できなくてもおかしくはありません。ですが、上流階級特有の社交辞令を抜きにして、一般常識でだけ考えたなら……他の殿方と親密そうにしている娘を、まっとうな殿方がわざわざダンスに誘うかしら)
知人としての距離感だったならともかく、アリアとノーディスは寄り添い合って立っている。婚約者だと知らなくても、それに近い関係であることは察せられるはずだ。異性の友人と談笑しているところに声をかけるより、よほど勇気がいるだろう。
とはいえアリア自身は経験したことはないが、そういうことを平気でできる意地の悪い手合いはたまにいるらしい。
自分の顔と家柄に絶対の自信があり、二人の間に割って入ることについて苦に思わないどころかむしろそれを楽しいとすら思っているような悪趣味な輩が。眼前の男性が一体何を思ってアリアに声をかけたのか見抜きたかったが、仮面に隠されているせいでその心は読み取れなかった。
アリアの逡巡はとても短かった。まばたき程度の時間で素早く頭を回転させた彼女は、ひとまず返事をしようと口を開く。だが、そのアリアより早く返事をした者がいた。
「申し訳ございませんが、彼女には先約がございますので」
「お前には聞いていないが?」
「いいえ、彼はわたくしの言葉を代弁してくださっただけですわ。お誘いをいただけたのは光栄ですけれど、どうかその栄誉は他の方に授けてさしあげてくださいまし」
にこやかに、けれどきっぱりと男性を拒絶したノーディスに、アリアは追従することを選んだ。元々そう答えるつもりだったからだ。見知らぬ男性を優先させてノーディスの機嫌を損ねるわけにはいかない。
「……これが仮面舞踏会でよかった。きっと仮面の下で、お前はウィドレットと同じ目をしてるんだろう。アンジェに近寄る男を牽制する、嫉妬と独占欲で穢れた目だ。醜いったらありゃしない」
男性は苛立たしげに吐き捨てる。その矛先はノーディスだった。
「私に気づいていておいて、堂々と私の婚約者に声をかけるような方に慈悲深さは必要でしょうか」
ウィドレットとアンジェルカ……この二人を馴れ馴れしく呼ぶ、金髪の男性。薄暗いせいでよく見えづらいが、仮面の奥の目は青い色をしている気がする。彼が誰なのか気づき、アリアは無言で淑女の礼を取った。
「減らず口を。僕はこの愉快な催しを開いてくれたアリア嬢に対して当然の礼儀を果たそうとしただけだ」
「今夜の宴は無礼講です。マナーは問われないんですよ」
アンジェルカの兄、王太子オルディールは煩わしげに肩をすくめた。アリアに向き直ってそっと仮面を外す。整った顔をぐいとアリアに近づけた彼は、流れるように手を取って口づけするふりをする。きらめく青い瞳がアリアのことを熱っぽく見つめていた。
「シャウラの名を持つ男は、どうも女性をたぶらかしては不幸にする星の下に生まれるらしい。もし君もこの男に苦しめられるようなことがあれば、いつでも僕を頼ってくれ」
「お言葉はありがたいのですが、ご心配には及びませんわ。ご厚意だけ頂戴いたします」
アリアはさりげなくオルディールから離れてノーディスと腕を組む。いくら相手が王太子でも、女好きで知られる遊び人に付け入る隙など与えたくない。すでに婚約者がいる身なのだからなおさらだ。
「わたくし達は心から愛し合っておりますもの。もしこの愛が悲劇を呼ぶというのなら、その時は二人で乗り越えてみせますわ」
蜂蜜より甘い声を出しながらノーディスにすり寄る。ここまでの熱愛ぶりを見せつければ、どれだけオルディールが自信過剰だとしても諦めてくれるだろう。どうせ彼も本気ではないはずだ。似たようなことは誰にだって言っているに違いない。
「姫花の聖女をここまで恋に溺れさせるとは……。実に残念だ。どうやら運命の神は僕に微笑んでくれなかったらしい。もっと早く君に出会えていれば、僕とその男の立場は逆だったのに」
オルディールは目を見開き、大げさにため息をつく。仕草のいちいちが芝居がかって気障な男だ。自分の顔の良さをよく理解しているからこその言動だろう。
(たとえノーディスがいなくたって、貴方が王太子である以上は結婚対象外なのですけれど?)
アリアが探していたのは一緒にレーヴァティ領を盛り立ててくれる婿だ。嫁ぎ先ではない。
もちろん、女公としての身分を認めたうえで妃として迎えてくれるのであればそれもやぶさかではなかった。だが、並み居るライバルを蹴散らしたうえでこの放蕩者を調教して手綱を握る気苦労を思えば、最初から優秀で物わかりのいい夫を迎えたほうがよほどいい。
「従弟として、臣下として申し上げますが、お戯れはどうぞほどほどになさってくださいね。いつまでも浮ついた振る舞いをされると、下の者に示しがつきませんよ」
「僕は美しいものを平等に愛でているだけだ。それの何が悪い」
「では、せめて不義を働くようなことは慎まれるようお願いいたします。貴方は等しく広がる花畑をご覧になっているのかもしれませんが、貴方が摘み取ろうとしたものが、誰かが愛を注いで世話をしている決して替えの効かない唯一の花でないとは限りませんので」
ノーディスが静かにいさめると、オルディールはつまらなそうに鼻を鳴らす。その顔にははっきりと侮蔑の色が浮かんでいた。
「愛欲に溺れたけだものの息子の分際で、僕に正道を説くのか。なんでも純愛と呼んでいれば許されると思うなよ」
「お言葉を返すようですが、真実の愛と博愛主義を謳うことで移り気を正当化するような方に糾弾されるいわれはございません。これではどちらが愛欲に溺れているのかわかりませんね」
オルディールとノーディス、二人の間で散る火花がアリアの目にも視えた。これはまずい。アリアはノーディスの腕を引き、上目遣いで訴える。
「ねえ、わたくし、疲れてしまいましたのよ。そろそろ冷え込んできましたし、もう帰りませんこと?」
「ああ、ごめん。退屈させてしまったね。そうだね、そろそろ戻ろうか。……それではいい夜を、王太子殿下」
「ご機嫌よう、王太子殿下。殿下におかれましては、どうぞこれからも宴をお楽しみくださいまし」
釈然としない様子ではあったが、それでもアリアの手前かオルディールは笑みを浮かべて別れの挨拶で応えた。ただしノーディスにはもう一瞥もくれていない。
「王太子殿下とは、いつもあのようにお話しなさるの?」
「私とはあまり会うことはないんだけどね。どうやら兄上と仲が悪いみたいで。その余波を受けたんだろう。……殿下はああ見えて実は潔癖というか……理想家なところがあるんだよ。兄上との不仲も、もとをただせば私達の父を嫌っていることから始まったんだ」
オルディールと十分距離を取ってから小声で話しかける。ノーディスはやれやれと首を横に振った。
「見境なく女性に声をかけるのは、殿下いわく運命の人を探しているかららしい。すべての女性にその機会は平等に与えられてしかるべきだから、すべての女性に優しくするんだってさ。さすがに清い関係に留めて、深い仲にはならないようにしているらしいけど」
王太子妃の座を巡る熾烈な争いの噂はアリアの耳にも届いている。黙っていれば見目麗しい、この国の次代の君主の妻になれるということで、年頃の令嬢達の多くがオルディールの寵愛を得たがるのだ。アリアがそれに加わっていれば、もっと波乱が巻き起こっていたことだろう。
「私達の父は、結婚前から愛人を囲っていたような人だ。あげく正妻をないがしろにして、亡くなるとすぐに愛人を後妻に迎え入れた。堂々と複数の女性を平等に愛する殿下からすれば、その狡猾さと非情さが気に食わないんだろうね。本人はいたって誠実なつもりのようだから」
「“誠実”という言葉の意味を辞書で調べ直していただきたいですわね。一周回ってからでないとそうと認められないような行いは、本来の言葉の価値を損なわせてしまいますのよ?」
「はは、それはそうだ。だけど兄上が言うことには、あれで昔は本当に正義感からシャウラ家に反発してたみたいだよ? 今となってはこのねじれた恋愛観に加えて、兄上のことが目障りだから私達を目の敵にしているみたいだけど。年の近い優秀な人間と比較され続けることは、中々に堪えるからね」
「……ご婦人やご令嬢以外からの人気が低いことを気にしていらっしゃるのかしら?」
その端麗さと優しい物腰から、オルディールは国中の女性陣から絶大な人気を誇っている。あまりに浮ついているせいで恋愛対象としてはナシという判断を下されていても、目の保養として遠巻きに眺める分には問題ないとも思われていた。
だが、アルバレカ王国は何も女性だけの国ではない。顔と身分と振る舞いだけで女性達の黄色い声を独占する軟派男に、同性から向けられる視線はわりと厳しかった。せめて何か目立った功績でもあればまた違ったかもしれないが、流す浮名のほうが目を引くせいで名誉の回復には中々至っていない。
「そういうこと。殿下と兄上は一歳しか変わらないし、殿下と違って兄上は政治に長けてるからね。父はまだ王族籍から離れたわけじゃない。おかげで私も兄上も、王位継承権は上から数えたほうがまだ早いんだよ。私達はいずれ臣籍に降るつもりだけど、万が一のことが起きるとよくないからせめて殿下の婚約者が決まるまでは予備でいるようにって国王陛下のお達しが出てるんだ。そのせいで殿下が兄上の二心を疑ってるんだから、迷惑な話だよ」
「アンジェ様が降嫁なさるのではなく、ウィドレット様が現王家に加わる……。求心力の低い王太子殿下であれば、それを危惧していても不思議ではございません。そのような世迷言を吹き込む佞臣がもしも殿下のお傍にいれば、なおのこと──」
言いかけて、アリアははたと口をつぐんだ。身近にウィドレットの謀反を訴えていた存在がいることを思い出したからだ。
『だからっ、ウィドレットは悪魔みたいな男で……いつ内乱を起こすかわからなくってぇ……そんな家と親戚だったら、困るのはうちでしょ?』
アリアとノーディスを別れさせようとした理由について追及されたとき、ライラは涙ながらにそう言っていた。だが、ろくに社交界に顔も出さないライラが王太子とウィドレットの密かな確執について知るわけがない。アリアだって今初めて聞いたのだから。
それだけオルディールとウィドレットは上手に不仲をごまかしているのだろう。従弟に劣等感を抱いているなんて知られれば、それこそオルディールは佞臣に目をつけられかねないし、王太子に嫌われていると知られれば、ウィドレットの名声に傷がつく。どちらにとっても隠しておきたいことのはずだ。
ウィドレットが王家に婿入りするという話も、決して一般的な見解ではない。成人済みの王太子オルディールがいる以上、六歳年下の妹王女アンジェルカは婚約者である次期シャウラ公爵家当主ウィドレットの元に降嫁するという流れのほうが自然だからだ。
(それなら、ライラは一体どこからウィドレット様の謀反の話を掴んだのでしょう。情報源について、あの子は何もおっしゃらなかったわ。それだけ重大な秘密を抱えているとでも?)
もともと理解できなかった片割れが、さらに遠くて不気味なものになる。彼女の言葉が真実になるとは思わない。それでも、何のためらいもなく不吉な予言を口にして、なおかつそれが実際に起こりえる可能性として存在することを第三者から聞かされると、どうしようもなく背筋が寒くなった。
次話からは、ライラ視点の話が二話続きます