恋は盲目?
(今日を無事に乗り切れば、収穫祭は成功を収めたと言えるでしょう。なんとしてもその評価を手に入れなければなりません)
フェンリルの襲来以外は目立ったトラブルもなく、収穫祭は最終日を迎えた。
ライラも帰ったと、街門を守る兵士達から昨日のうちに連絡が来ている。どうやら、ピスケス・コートに入れないせいで民間の宿を取っていたらしい。人であふれるこの時期によく手配できたものだ。それでも長くは滞在できず、その都合でさっさと帰ったのだろう。粘られなくてよかった。
ずいぶんと長い三日間だった気がする。このまま無事に幕を引けるといいのだが。自分を鼓舞しながら、アリアはベッドから起き上がった。
午前中に山羊レースを観戦し、領内の重鎮達との会食を挟んでから午後の予定に取り掛かる。山羊レースでは山羊がコース付近に生えていた草のほうに夢中になったり、途中で日向ぼっこを始めたりするということはあったが、これは想定の範囲内だ。そういった自由気ままさを楽しむのが山羊レースの醍醐味なので、誰も気にしていない。大幅な予定の遅れにもつながらなかったので、アリアの胃が痛むようなこともなかった。
執政院で囲い火の舞踏のための打ち合わせをし、賓客の接待をしていると、時間はあっという間に過ぎていった。いつの間にか日は沈み、仮面で顔を隠した者達が続々と東庭園に集まってきている。すでに音楽も聞こえてきた。
「あれが収穫祭のダンスパーティーか。面白い趣向だね」
「初めてご覧になる方には、邪教の儀式か何かかと思われる方もいらっしゃいますの。豊穣の神に捧げる、由緒正しい伝統行事なのですけれど」
執政院の回廊から東庭園を見下ろしたノーディスがそう呟く。植物を模した装飾で飾られた仮面をつけてめちゃくちゃに踊る人々の群れは中々に壮観だ。
農地に祝福を与えると言われる豊穣の神の杖は仮面と並んで収穫祭を象徴するアイテムだが、囲い火の舞踏に参加する際は毎年持ち込みを禁じていた。興奮して杖を振り回されると危険だからだ。もみくちゃになって踊る人々の興奮ぶりを見ていると、実に正しい判断と言わざるを得ない。
「囲い火の舞踏は、豊穣の神を楽しませるためのもの……という名目で、農民に羽目を外させるためのものです。大きな解放感を味わえる、冬が来る前の最後の娯楽ですわ。ですからあのように、老若男女を問わず全力で楽しむのです。とはいえ、この祭事は慣れていても疲れてしまいますから、無理に参加なさらなくても問題ございませんことよ?」
「いや。そういうことなら、少しでも慣れる機会は大切にしたい。来年も、こうして貴方と収穫祭に参加するんだしね」
微笑まれてまた胸が高鳴る。当たり前のことなのに、アリアと一緒にいる未来を見据えてくれているのが嬉しかった。
「で、では、夜が更ける前には戻りましょう。夜が深まるにつれて、騒ぎは大きくなっていきますもの。わたくしも、あまり夜遅くまで参加したことはございませんの」
「これよりさらに賑やかになるのか。それはそれで興味深いけど、忠告には素直に従おう」
アリアはノーディスの腕に自分の腕を絡ませ、東庭園へと向かった。
仮面を被って顔を隠したものの、服装や背格好でアリアだとすぐにわかる。それでも、誰も指摘はしなかった。囲い火の舞踏では誰もが平等であり、わざわざ仮面の下の顔で態度を変えるなど無粋の極みだからだ。この場にいる以上は、同じ仮面を身につけた、豊穣の神のために舞を捧げる従者の一人でしかない。領主一族もその伝統を踏襲しているということが重要だった。
「ここでのダンスに決まりはございませんの。ただ思うまま、音楽に合わせて踊るだけですわ」
アリアは軽やかに笑いながらノーディスの手を取った。ノーディスをリードするためだ。普通の舞踏会であればリードは男性側が行うものだが、囲い火の舞踏にその常識は当てはまらない。初参加のノーディスを気遣ってのことだというのは伝わるはずなので、彼のプライドを傷つけることもないだろう。
どんちゃん騒ぎの中であってもアリアの優雅さは決して損なわれてはいけない。頭のてっぺんから足の爪先に至るまで意識を集中させて、全身で曲のリズムを掴む。でたらめに踊っているように見せかけて、即興で計算したステップを踏むのは城でワルツを踊るよりよほど神経を使った。
「なるほど。これは確かに、誰でも簡単に盛り上がれるね。仮面のおかげで誰が誰だかわからないから、恥ずかしさも薄れるし。だんだん自分の……いや、自分達だけの世界に取り込まれていくような気がする」
けれどその考え抜かれたステップに、ノーディスは完璧に合わせてきた。雑談に応じる余裕さえ見せている。確かにアリアも合わせやすいように配慮はしていたが、彼には見えているのだ。今流れている音楽を聴いたアリアが次にどんな動きをするのか。アリアのことをよく理解しているからこその芸当だろう。
ノーディスなら上手に合わせてくれる、という信頼が、徐々にアリアの緊張をほぐしていく。品よくすらりと伸ばした手足は自然体でも美しい。本当の意味で何も考えず、音楽に身を委ねて無心で囲い火の舞踏に参加することができたのは初めてだった。
飛んだり跳ねたり、肩を組んで歌ったり。空が宵色に染まるにつれて、宴は賑わいを増していく。仮面のせいで表情はわからないが、誰もがみな楽しそうだ。ぱちぱちと音を立てて燃える薪の匂いに混じって漂うワインの香りも、彼らの気分を高揚させる一因だろう。
少し踊りすぎたので、広場の端のほうによける。ノーディスが近くのテーブルから自分用にワインを、アリアのためにブドウジュースを持ってきたので、二人だけで乾杯した。仮面を少しずらしてグラスを口元へと運ぶ。芳醇な甘みが疲れた身体に染み渡った。
「もう少し経ったら、そろそろ屋敷に戻りませんこと?」
「そうだね、そうしようか」
喉を潤しながら、周囲の様子を観察する。昼間は気難しい顔をしていた重鎮達が、まるで別人のようにはしゃぎ回っているのが見えた。仮面をつけている間はまさに別人として扱われるのだから仕方ない。彼らも日ごろ溜まっているストレスがあるのだろう。
不意に視界の端で何か音がした気がした。物陰に目をやれば、人目がないのをいいことに激しく口づけを交わす恋人達がいる。
情熱的なその光景に、アリアは慌てて目をそらした。祭りの性質上、こういったことがあるからあまり夜遅くまでノーディスを連れていきたくなかったのだ。年頃の乙女として恥ずかしいというかなんというか。
「ノーディス、もう少し明るいところにいきましょう!」
「?」
ノーディスの手を引く。ノーディスは不思議そうにしながらもそれに応じた。空いたグラスをテーブルに置き、大きな焚火が照らすほうへと向かう。
(ああ、もしかして暗がりのそばが怖かったのかな? 賑やかな広場の中心との対比で、一気に静かに感じられるから)
アリアの慌てぶりを感じ、ノーディスは呑気にそう推測した。
ただでさえ眼帯をつけているのに、その上から仮面を被っているせいで、普段の比ではないほど視界が狭いのだ。正直、アリアのことすらおぼろげにしか見えない。
先ほど踊っていた時だって、アリアの邪魔にならないよう彼女の身振り手振りを全力で感じ取りながらこれまでの経験則で動いていただけだ。アリアなら多分こういう時にはこんな感じのステップを踏むんじゃないか、と。実は結構無理をしていた。囲い火の舞踏、強敵であると認めざるを得ない。
すっかり疲弊しながらも、傍らのアリアの機嫌を損ねないよう彼女に意識を集中していたので、見えないところでイチャつく有象無象達には本当に思い至っていなかった。実はアリアが気づいたペア以外にも案外多くの恋人が周囲にひそんでいたのだが、彼らと同様ある意味二人きりの世界にいたノーディスの目にはちっとも映っていなかったのだ。
というわけで、ノーディスはアリアの突然の行動を微笑ましいものと受け取った。なにやら照れているように見えるのは、この年で暗いところを怖がっているのが恥ずかしいからだろう。可愛い。誰にだって怖い物のひとつやふたつあるだろうに、なんていじらしいのだろうか。
(そういえば、アリアの好きなものは結構まとめてきたつもりだけど……嫌いなものはほとんどわからないな。苦手なものほどごまかそうとする傾向があるのか? 別にそのこと自体はおかしいことじゃないけど、あまりに見つけられないのが引っかかる)
ノーディスの観察眼をもってしても、アリアの嫌いなものを見抜けた試しはほとんどない。こんなことは初めてだった。好きなものならわかるのに、ここまで徹底的に隠し通されるなんて。
あえて言うなら双子の姉のライラぐらいだろうが、幼少期から振り回されているなら苦手意識が芽生えていてもおかしくない。
だから、アリアが暗がりを苦手としているのだと思ったのは、ノーディスの願望でもあったのだ────誰にだってあるはずの苦手なものを、ようやく見つけられたのだ、と。
(嗜好と言えば……たまにアリアは、好きなものについて自覚が薄そうなことがある。自分がそれを好きなことに気づいてない、というか。でも、自分自身のことだぞ? そんなことがありえるのか? 特に好きでもないものについて好きなふりをしているのはわかるんだけど……)
まだアリアと婚約を結ぶ前から、アリアの心理を読み解こうと試行錯誤していた。無事に婚約者の座に収まった今も、その挑戦は続いている。
アリアの『好き』と『嫌い』を十段階で表して、『普通』を五とした時に、五に該当するものはある。だが、それより下の評価点のものがない。
アリアは宝石などのきらびやかなものが好き。ここを七として、小さな子供は八としよう。動物については可愛がるだけの余裕はあるが、特別愛しているわけではなさそうだ。動物全般は五でいいだろう。もしかしたらフェンリルのせいで、犬のことは嫌いになっているかもしれないが。
花は……六に見せかけて本当は五。花束をプレゼントした時の反応を重ねることでこの結論を出した。贈り物というシチュエーションについては本当に喜んでいるようなので、何を贈られるかより行為そのものを重視していたのだろう。邪魔だと思われていないならそれでいいので、特に気にせずまだ花束は贈っている。
アリアの嗜好の中で一番平坦なのは食への関心だ。ノーディスの見立てでは、アリアは甘酸っぱい果物や甘いお菓子が八ぐらいには好きなはずなのに、彼女自身は五か六のように振る舞っている。これは、これまで同席してきたすべての食事で見られた傾向だった。
なんでも食べられることと、なんでも美味しく感じることは似ているようで異なっている。食の好みを均一化することは、まるで何かしらの理由があってアリアの中で食べ物に差をつけることを忌避しているからのようにも見えた。
(もしかして……それが、レーヴァティ家の教育方針だった……?)
双子の姉と比較され、実の両親から抑圧され続けて育ったのなら。押しつけられた型に忠実であろうとするあまり自分を見失ってしまう、ということもあるのかもしれない。
現に、レーヴァティ家の中でアリアは軽んじられてきたにもかかわらず、それに耐えることについてノーディスに指摘されるまでアリアは何も疑問を持っていなかった。そのことが、アリアはレーヴァティ公爵夫妻にとって都合のいい人形になれると証明している。アリアから主体性を封じて自我を奪い、嗜好までもをコントロールして育てることは十分に可能のはずだ。
(なら、私がこれまで見てきた貴方は、本当の貴方じゃなかったのか?)
自分は何か、大きな読み間違いをしていたのではないか。冷や汗が伝う。一体アリアの何を見て、彼女をわかった気になっていた?
「ノーディス? どうかなさったの?」
「……いいや。なんでもないよ。少し疲れただけさ」
だが、ノーディスは豊穣の仮面の下で笑みを浮かべた。
今恐れを抱いたのは、自分の分析が大外れだった可能性についてだ。そのせいで自信が揺らいだだけで、今目の前にいるアリアが造られた存在かどうかなどどうでもよかった。
────だって、もしもまだ本当のアリアを理解できていないというのなら、これから理解すればいいだけなのだから。アリアと一緒に、それを探していけばいい。