示すことの大切さ
学者の他にも警察署長からの報告や執政院側の見解の表明が続いたが、やはりフェンリルに並ぶ脅威は見つけられなかったそうだ。
あのはぐれフェンリルが討伐されたことで、ひとまず事態は終息したとみていいだろう。フェンリルは血肉や内臓を魔法薬の素材として売却することにし、体は剥製にして執政院に飾られることになった。
剥製化を進言したのはアリアだ。本当はもうフェンリルなど見たくもないが、フェンリルが確かに存在していたという証拠を残しておいて損はないと思ってのことだった。虚言だと疑われてはたまらない。後になってフェンリル襲来の事実を広めた時に、ノーディスの箔をつけるいい戦利品にもなる。
昨日に続き、警官と兵士による警備体制の強化を水面下で行うことで収穫祭は問題なく続行できると正式な判断が下された。
おかげでノーディスと一緒に市街地の視察をするための余白は失われてしまったが、それは仕方のないことだ。民間に被害が出ないよう、ただでさえぴりついている現場の警官達の仕事を増やすのはよくない。公爵家から護衛がつくといっても、警官達との連携は必須になるだろう。そうである以上、本来従事してもらうべき領民の安全確保がおろそかになりかねない。例年通り、ピスケス・コート内でだけ過ごす収穫祭になりそうだ。
(何も今年に固執する必要はございません。どうせ来年も、ノーディスと参加できますもの)
それに、デートという形にしなくても、今日と明日の公務ではノーディスを連れ回せる。フェンリルを撃退したノーディスにアリアの隣にいてもらうことは、事の顛末を知る有力者達に安心感を与えられるからだ。ノーディスを婿に迎える前に、売れる顔はぜひ売っておきたい。
会議が終われば次は農作物品評会の打ち合わせだ。形や色つや、そして味。品評会では、領内で育てている様々な農作物をあらゆる観点から審査し、総合的な評価を下す。そんな中で、特別審査員たるアリアの役目は、出品されたすべての物に領主一族お墨付きを与えて品質を保証し、他領に売り込むことだった。
品評会のテーブルに乗ることを許されるのは、厳しい基準に合格した作物だけだ。アリアはそのすべてに舌鼓を打って褒め称えればいい。小難しい評論は、他の知識人がやるだろう。
打ち合わせが終わったので、そのまま会場である東庭園の屋外劇場に向かう。東庭園では品評会に出品された農作物にゆかりのある料理の屋台があちこちに出店していた。
漂ういい匂いにつられたように、たくさんの来場客が集まっている。おかげで客席も満員だ。観客を迎えての、ショーとしての品評会は和やかに始まった。
「お召し上がりください、アリアお嬢様」
ずらりとテーブルの上に並べられた野菜料理や果物がふんだんに使われたデザートを前にして、アリアは目を輝かせる。
「どれもとても美味しそうですこと。何からいただこうか、迷ってしまいますわね」
素材の味を最大限引き出せるようにと、農民と料理人が試行錯誤した品々だろう。生野菜はすでに別の審査員が試食済みのはずだ。食べきれるようにとどの皿も量は少ないが、時間的にも昼食にちょうどいい。
アリアに食べ物の好き嫌いはなかった。どこの誰にもてなされても失礼のないように、なんだって完食できるまで厳しくしつけられたからだ。
これまでアリアが食べきることができなかったのは、ノーディスのクッキーぐらいのものだろう。単純にまずいだけならまだ取り繕って平然と食べ続けられるが、あれはさすがに、その、生命の危機を感じた。
とりあえず、一番手近にあったかぼちゃのグラタンに手を伸ばす。同席しているノーディスは、ほうれん草のキッシュが気になったようだ。
「なんて濃厚な甘みなのかしら! ねえノーディス、一口いかがです?」
「ありがとう、アリア。このキッシュもとても美味しいよ。食べてみるといい」
お互いに料理を食べさせあう。二人だけの甘い世界にいる恋人達に、誰もが微笑ましげな目を向けていた。
観客席の反応をうかがい、アリアは内心でほくそ笑む。ノーディスと仲のいいところを見せつけ、政略結婚という固い言葉に対して平民が抱くであろう負の印象を払拭したかったのだ。傍系王族たるシャウラ家出身の婚約者との円満さを演出することで、かの家とのつながりの強さを名士達に向けてアピールしたいという意図ももちろんある。
健気な少女と誠実な青年の純愛に祝福と称賛を捧げ、見守っているつもりになればいい。赤の他人からの親目線など過ぎれば煩わしいものでしかないが、ほどほどのバランスを見極められれば利用はできる。直接の主従関係にない不特定多数が相手なら、相手に傅いている自覚を持たせないほうが転がしやすかった。
(このわたくしが手ずから食べさせてさしあげるのです。嬉しいでしょう?)
それに、これはノーディスへのご褒美でもある。恋い慕う少女が甘えてくるなら、当然彼も喜ぶはずだ。これはあくまでも彼を籠絡する手段のひとつなのであって、アリアがやってみたかったからとかではない、決して。
ノーディスを見つめると、彼は幸せそうにはにかんだ。あまりにも無防備なその笑みに、はからずも頬がかぁっと熱くなる。アリアを守るためだけにフェンリルに立ち向かった勇ましい背中を思い出したからだ。
あの凛々しい勇者は、アリアの前でだけ従順に愛を乞うしもべになる。同一人物とは思えないそのギャップが、アリアの心を掴んで離さない。
(み、認めませんわ。わたくしが目を曇らせてしまえば、うまく支配できなくなってしまいます。愛とは人を惑わせるためのものであって、自分が惑うものではないのです)
胸の高鳴りをごまかすように、秋野菜のテリーヌを切り分ける。色とりどりの美しい断面を穢してしまわないよう優雅にナイフを操っていると、のぼせた頭がほどよく冷静さを取り戻してくれる。何事もなかったかのように、アリアはまた称賛の言葉を振りまいた。
*
「アリア!」
「お待ちしていました、アンジェ様。お会いできて嬉しいですわ」
品評会が終わって舞台から降りたアリアに声をかけてきたのは、金髪碧眼の少女だった。アンジェルカだ。その隣には当然のようにウィドレットが立っている。
祭りを楽しむ他の人々と同様に、二人も収穫祭の仮面を頭の横で斜めになるようにしてつけていた。楽しんでもらえているようでなによりだ。
「今日はいないと聞いていたが、結局来ていたのか」
「色々と事情がありまして。私の聖女様と片時も離れたくなかったんですよ」
ウィドレットと話しながら、ノーディスはアリアの手を握る。「ノーディスったら」アリアも頬を染め、熱っぽくノーディスを見上げた。
「どうやらお前にも、俺が女神を愛する気持ちを理解できる日が来たようだな。俺達ほどの域に辿り着くのはまだ遠いだろうが」
「まったく。ウィド、一体何を張り合っているの? 甘いのはジャムだけで十分なのに」
アンジェルカはくすくすと笑いながら、腕にかけていたバスケットからパンを取り出して小さくちぎり、ウィドレットの口を塞いだ。
バスケットの中には他にもいくつかのパンが入っている。季節のジャムや干した果実が練り込まれたものだろう。どこかの屋台で買ってきたに違いない。歩き食べなどはしたない、と咎める声はなかった。祭りの日は無礼講だ。どうせ誰だってやっている。
「初めて来たけれど、レーヴァティ領の収穫祭ってとても楽しいお祭りね。美味しいものもたくさんあって目移りしちゃう」
「ふふ。アンジェ様にお気に召していただけたなら、民も喜びます。レーヴァティ領には王室御用達の農場が数多くございますから、アンジェ様にもご満足いただけるとひそかに自信を持っておりましたのよ」
「そうだったわね。道理で何を食べても美味しいわけだわ。こんなに美味しい農作物を育てられるなんて、レーヴァティ領はアルバレカで一番幸せな土地なんじゃないかしら。食べ物が美味しいって、すごく大事なことだもの」
「光栄ですわ。アルバレカの食糧庫として、これからも王国のために尽くしていく所存でございます。この幸福を他の領地の方々にも分け与えたいんですもの。美味しいものは、大勢で食べたらもっと美味しくなるでしょう?」
アンジェルカは大真面目に頷く。彼女も彼女なりに国のことを考えているのだろう。
アンジェルカにはアリアのような打算の気配は感じ取れなかったが、純真さの奥にある聡明さの輪郭は見えた。自覚があるかはわからないが、アンジェルカは自分の言葉の重みを認識しているはずだ。その後援はとても心強い。
「そういえば……お茶の時間で食べているジャムがそろそろなくなりそうだとメイドが言っていたわね。今度からは、まっさきにアリアにおすすめのジャムを聞くことにするわ。わたくしに他にもお友達がいれば、その方にも振る舞いたかったのだけど。だって、独り占めなんてもったいないもの」
「でしたら今度、お茶会を開いてはいかがでしょう。もちろん殿方は立ち入り禁止ですわ」
「それってすごく楽しそうね! その時はアリアも絶対に来てちょうだい。約束よ?」
無邪気に盛り上がる少女達に、青年達は少し寂しそうにしながらも温かく目を細める。彼女達に相手をしてもらえなくなったので、自然と会話の相手は兄弟同士になった。
「兄上もきちんと息抜きできているようで安心しましたよ。今日ぐらいは仕事のことなど忘れて、ゆっくり羽を休めていってくださいね」
「俺の女神がことのほかレーヴァティ領とアリア嬢を気に入ったようだからな。可愛い婚約者の願いならばなんだって叶えるさ。それに、大事な弟を任せる場所を見ておきたいと思うのは当然だろう? 大領地を治める同世代の領主として、アリア嬢と親睦を深める必要もある。これだけ理由が揃えば、俺自ら足を運ぶのもやぶさかではない」
同世代の領主。ウィドレットはそう言ったが、アリアとウィドレットはまだ家を継いだわけではない。それでも彼の中では、すでに確定している未来なのだろう。
つまり、近い将来に必ずそうなるということだ。そう認識するほどノーディスには異母兄への信頼があったし、そもそもノーディス自身もそうさせるつもりだった。
「しばらく街を見て回っていたが、誰も彼もが祭りの空気にあてられて浮かれ騒いでいるようだ。正体を隠すこの仮面も、人の気を大きくさせる一因だろう。愛しい聖女のことはよく見ておけよ? この喧噪だと、どこで悪い虫に集られるかわかったものではないからな」
そう言いながら、ウィドレットは威圧感たっぷりに周囲を見渡す。その手はしっかりとアンジェルカの腰に回されていた。遠巻きながらもアンジェルカとアリアに好色そうな視線を送る若者達に威嚇しているのだろう。喧嘩を売るつもりないと言いたげに、彼らはそそくさと立ち去った。
「ご忠告ありがとうございます。よもやアリアとわかったうえで声をかける恥知らずがいるとは思いたくありませんが、仮面をつけてしまえばそうと知らずに寄ってくるでしょうからね。どれだけ顔を隠していても、魂からあふれる美はわかってしまうものですから」
アリアがよそ見する可能性などノーディスは考慮していない。そうならないよう、餌をさんざん与えているのだから。
だが、横からアリアを奪おうとする不届き者の出現にはいつだって警戒していた。ノーディスが愛でている花の可憐さを称えるのは構わないが、だからといって盗もうとするのは違うだろう。
(幸い、アリアは衆目の前でも好意をあらわにすることに抵抗はないみたいだ。だからありがたく乗らせてもらおう。私達の関係の良好さを広めて支持を得るためにはもちろん、無粋な軟派男の心を根元からへし折るためにもね)
あっさり失うようなことがあれば、わざわざ釣った意味がない。釣った魚にのびのびと泳いでもらうためにも、水槽はこまめに手入れをしなければ。