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狩猟の終わり

 空から咆哮が降り注ぐ。白銀のワイバーンは鋭い鉤爪のついた脚でフェンリルを掴み、その首筋に噛みついた。フェンリルは激しくもがいてワイバーンを振りほどくが、追撃は飛翔するワイバーンに届かない。


 恐れを知らない飛竜は獰猛に巨狼を付け狙っていた。アンティは原種のワイバーンだ。家畜化のために品種改良されて弱体化したワイバーンとは違い、強い闘争心と野性的な牙と爪、そして強力なブレスを放つ器官がある。アンティはしつけが行き届いているため普段はおとなしいが、主人の許可があればフェンリルのような格上のモンスター相手にも果敢に立ち向かえた。


「精霊達に希うははやく鋭いいかずちの槍。敵のことごとくを屠り去り、悪しき獣をく滅ぼそう。彼方に死を、我が手には勝利を!」


 フェンリルがアンティのブレスをかわそうと躍起になっている間に、ノーディスは攻撃魔法を詠唱する。

 左目の魔力孔から放出された魔力は、まるで揺らめく炎のようだった。詠唱中は魔力孔が活性化するため、魔力孔を通る瞬間の魔力だけが可視化される。眼帯越しにも見える、その燃えるような左目の輝きは、ノーディスの覚悟を示しているようでもあった。


 ノーディスの眼帯は、いわば止水栓だ。ノーディスの意志とは関係なしに魔力孔から漏れてしまう魔力を堰き止め、そのままウィドレットに転送する。

 けれどノーディスが魔法を使おうとするのなら、眼帯はそれを“余剰なもの”とはみなさない。だから、必要なときに必要なだけ魔力を引き出せる。


 フェンリルの意識がそれているので、効果の安定した呪文を安心して唱えることができた。

 魔法を使うときは、詠唱呪文が長ければ長いほど大きな効果を得られるようになる。とはいえ、ただ適当に単語をずらずらと並べればいいというわけではない。きちんと言葉に魔力を載せなければならず、言葉と魔力が適合しなければ呪文は何の意味ももたないただの朗読になってしまう。

 たとえ短い詠唱であっても、的確な単語にふさわしい魔力が込められていれば長文詠唱と同等の効果を得られるとされているが、正しい短縮詠唱法を見つけるのは難しい。単語と魔力の組み合わせ次第で新しい効果の魔法が生まれることもあるが、その最適解を探してより効率のいい魔法を編み出すのも魔導学者の仕事のひとつだった。


 ノーディスの手から放たれた雷撃はフェンリルの体躯を貫く。それでもまだ足りない。怒りに満ちた目がノーディスを睨み、一瞬のうちに肉薄される。空にいるワイバーンより仕留めやすいと判断したのだろう。ぐわりと大きく開かれた口から漂う生臭さが障壁越しでも伝わってきた。


(私の後ろにはアリアがいる。ここで退くわけにはいかない)


 領地の視察で魅せられた、アリアの覚悟を思い出す。

 うら若い少女の身でありながら、真剣に領地の未来と民の幸福を思ってそれに尽くそうとするアリア。アリアはただ愛らしいだけではなく、大領地に君臨する者としての気高さも兼ね備えている。そのありようを、その高潔な魂を、ノーディスは美しいと感じた。


 アリアという可憐な花を前にして、つい欲が出てしまったのだ。ずっと彼女を眺めていたい。自分が見つけたこの可能性のきらめきを、自らの手で世話をしてもっと大勢の人間に認めさせてみたい、と。


 雨風も虫も、過酷な日差しにも負けず、いつまでも綺麗に咲いていてほしい。心ない者に手折られて散らされることのないように守りたい。いたいけなアリアを女公の座へと導いて、彼女が築く栄光を見届けてみたい。せっかく特等席にいるのだから、その特権を最大限活用したっていいだろう。


(血は争えないと言うべきだね。どうやら私も、自分で思っていたより執着心が強いみたいだ。一度手を差し伸べてしまったせいかな)


 フェンリルを見据えながら、ノーディスは自嘲気味に笑った。あどけなさと芯の強さの上に成り立った美しさに惹かれて、それに固執するなんて。穢れない美を愛でようとする想いが、いつか鑑賞者のエゴに変わってしまわないよう気をつけなければ。


(まさかフェンリルに食い殺されることより、アリアに失望されることのほうが嫌だなんて。我ながら相当な見栄っ張りだな。また兄上にからかわれそうだ。まあ、同じ立場だったら兄上も絶対逃げ出さないだろうけど)


 他の客人のように、この場から逃げることを選べたのならどれだけ楽か。けれどそうした瞬間に、アリアのエスコートをする権利は永遠に失われるだろう。

 経緯はどうあれ一度背負うと決めた少女だ、最期まで面倒は見る。せっかく彼女の心を奪って餌もやり続けたのに、ここで手放すのはあまりに惜しい。アリアにはノーディスの手で幸福を教えこみ、より生き生きと輝いてもらわなければならないのだから。


 そうだ、こんなところでアリアの未来を翳らせるわけにはいかない────普通より図体が大きいだけの犬っころに、アリアの笑顔は奪わせない。


 主人に手出しはさせないとばかりに、アンティがフェンリルに背後から飛びかかった。その隙を突き、もう一度雷撃の槍を放つ。

 フェンリルが肉薄してくれていたおかげで眼球がよく狙えた。眼窩を穿つとたちまち悲鳴が轟く。

 無防備になったフェンリルに、アンティの鉤爪が襲い掛かる。フェンリルは必死で抵抗しようとしたが、ノーディスの魔法がそれを許さない。やがてフェンリルは地にどうと倒れ伏し、その動きを止めた。


「アリア、もう大丈夫だよ。大丈夫だからね」

「……」


 肩で息をしながらアリアに声をかけ、恐怖で震える華奢な体を抱きしめる。真っ青な顔をしたアリアは、ノーディスに身体を預けて小さく頷いた。


 ぱち、ぱち。遠慮がちな拍手が聞こえてくる。逃げ遅れていた客人達だ。フェンリルが討伐される瞬間を間近で目にしていた彼らは、腰を抜かして放心しながらもゆっくりと生の喜びを噛み締めている。勝利の余韻はじわじわと広がっていき、やがて誰からともなく喝采が上がった。


*


 フェンリルの乱入により、予定より少し早いが狩猟大会はお開きにすることにした。もう、誰もそれどころではないと思ったからだ。


 フェンリルが現れたなんて知られれば、街はパニックに陥るだろう。とはいえ、収穫祭はレーヴァティ領で一番大切な行事だ。収穫祭自体を中止にすればアリアの名前にも傷がつく。そうである以上、東庭園の封鎖もできない。


「今のところ、ピスケス・コート内や街中でのモンスターの目撃情報は出ていないようです。街の外でのモンスターの異常発生も確認できていません。いかがいたしますか、アリアお嬢様」

「わたくしがすべての責任を取ります。狩猟大会はこれで終了とさせますが、収穫祭そのものは中止にはいたしません。貴方達は引き続き、よきにはからってくださいまし」


 街の見回りをしている警官達の報告をまとめた役人に、アリアはきっぱりと告げる。役人は敬礼して執政院に戻っていった。フェンリルのような危険なモンスターがひそんでいないか、街中を探してくれるだろう。警備も密やかに強化されるはずだ。


「本当にいいのかい、アリア。もしかしたら、もっとひどいことが起こるかもしれないよ。貴方だけじゃなくて、領民も危険な目に遭うかもしれない。それについて貴方を非難する人もいるだろう」

「わたくしには、レーヴァティ領の領主代行としてやるべきことがございますもの。不測の事態にこそ民を守らなければいけません。何かが起きたときにこそ、何事もなかったように場を収める……それが、わたくしの役割ですわ」


 役人達とのやり取りを傍で聞いていたノーディスが、気づかわしげに声をかける。アリアは気丈に微笑んだ。


「わかった。それが貴方の選択なら尊重しよう。ただし、私も貴方と同じものを背負えることは忘れないでくれ」


 ノーディスはアリアの頭を撫でる。それだけで勇気が湧いてくるのが不思議だった。

 


「皆様、あのような恐ろしい思いをさせてしまい誠に申し訳ございません」


 身だしなみを整えてから壇上に上がる。開会を宣言した時とは打って変わって、不安そうに揺れる眼差しがアリアの元につどっていた。


「思いもよらぬ事故に見舞われましたが、怪我人が一人も出なかった奇跡に感謝を捧げたく存じます。この奇跡を賜れたのは、神の加護はもちろんのこと、適切に避難誘導してくださった方、そしてフェンリルに立ち向かってくださった方のおかげでしょう」


 深く頭を下げた後、アリアは微笑みながら客人達を見回す。アリアがおどおどしていれば、会場を包む恐怖はよりいっそう深まるだろう。客人達を安心させるためには、勝利の余韻を思い出させるのが一番だ。

 人々は視線を巡らせてノーディスの姿を探した。注目を集めたノーディスは恭しく一礼して愛竜を撫でた。白銀のワイバーンは行儀よくこうべを垂れ、ノーディスの隣に侍っている。フェンリル相手に見せたあの好戦的な振る舞いはどこへやら、ノーディスが少し声をかけただけでアンティはすっかりおとなしくなっていた。


「あの狼は、優秀な狩人揃いの狩猟大会を盛り上げようとなさった豊穣の神が御自らご用意なさった贄なのでしょう。皆様もご存知の通り、荒くれ狼は神の御許へと捧げられました。皆様をおびやかすことは二度とございません」


 あえて冗談めかして告げる。笑い声が聞こえた。老エブラだ。「なるほど、神の思し召しであれば仕方ありませんな」彼の相槌に、ゆっくりと笑い声が広まっていく。それと同時に、会場が安堵に染まっていった。これも、ノーディスと彼の愛竜の奮闘のおかげだ。もしも犠牲が出ていたら、こうも丸く収めることはできなかっただろう。


「神の名において放たれた獲物が討ち取られたため、狩猟大会はこれにて終了とさせていただきます。結果発表はこの後すぐに執り行いましょう。それでは、これからもどうぞ収穫祭をお楽しみくださいまし」


 アリアは淑女の礼を取る。万雷の拍手は、客人達の了承を得られた証だった。


 狩猟大会の参加者達には緘口令が敷かれた。フェンリルの死体はひとまず他の獲物と一緒に解体小屋に運び込んで隠すことにした。モンスターの肉は食べられないので、あの死体をどうするかはこれから考えるしかない。

 あまりにも目撃者が多いため全員の口を塞ぐことはできないだろうが、安全性を証明できれば乗り切れるはずだ。収穫祭の途中で民衆が恐慌状態に陥り、二次被害が起きなければそれでいい。


「災難でしたな、アリアお嬢様」

「キュレオン様。気を使っていただいてありがとう存じます」


 舞台を下りて早々、郷紳達に声を掛けられる。その中心にいるのは老エブラだ。


「めっそうもない。収穫祭を大切にしたいというアリアお嬢様の心意気には、我々も感服しておりましたゆえ。収穫祭は、領民にとってとても大切な行事です。モンスターごときに台無しにされるわけにはまいりません」


 老エブラの言葉に、他の郷紳達も深く頷く。

 彼らは多くの農民を束ねる地主であり、貴族とは呼べずとも上流階級に属する人間だ。しかし、だからこそ農民達の気持ちにより強く寄り添えるのだろう。気持ちの上では、自分達も大地と共に生きる者だという意識が強いのかもしれない。


「我々はみな、アリアお嬢様をご支援させていただく所存です。我々にできることがございましたら、なんなりとおっしゃってください」

「光栄です。皆様のご期待に恥じない、立派な領主になってみせますわ」


 そう言った老エブラに、アリアは最上の笑顔をもって応じる。その言葉を引き出せただけで、収穫祭続行の決定を下した甲斐があった。

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[一言] 荷物を置いたままいつの間にか消えた使用人、フェンリルの腹の中にいない?
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