誰にだって戦わないといけない時はある
収穫祭の初日は爽やかな秋晴れの日だった。悠々と広がる青い空はまるで豊穣の神の祝福だ。絶好の狩猟日和なので、狩猟大会は大いに盛り上がるだろう。
あらかじめ用意しておいた獲物の兎や鹿はすでに森に放ってある。今回の狩猟大会の舞台は、ピスケス・コートの端にある森だ。
ここはレーヴァティ公爵が有する遊猟地のひとつだった。狩猟期以外では森番が薪を集めたりキノコやら薬草やらを採集しているだけだが、ひとたび領主から狩猟の号令がかかると客人達のための狩場として解放される。今日も人でにぎわうはずだ。
アリアの予想通り、ピスケス・コートは朝から客人で大賑わいだった。レーヴァティ領中の郷紳達はもちろん腕自慢の猟師達が早くも集まり、今日の戦果について期待に胸を膨らませている。アリアは彼らを温かく出迎え、付き添いでやってきた夫人達をいたわった。
キャリッジの取り付けられていないワイバーンが降りてきて、庭園は一瞬騒然となる。しかしよく見れば騎獣用の鞍や手綱がついているし、その背中に隻眼の貴公子が乗っていたので、どよめきは徐々に収まった。ノーディスだ。
「おはよう、アリア。すごい人数の参加者だね。彼らが全員私のライバルになるのか」
「来てくださってありがとうございます、ノーディス。ふふ、無理はしないでくださいな」
跪いてアリアの手の甲にキスし、ノーディスは口角を柔らかく持ち上げた。
「だけど、優勝者は聖女様から直接祝ってもらえるんだろう? その栄誉を手に入れるためなら、戦う以外の選択肢はないよ」
「まあ。お上手ですこと。言っておきますけれど、ワイバーンに騎乗しての狩りは禁止でしてよ? 獲物が怯えてしまって、狩りどころではなくなってしまいますもの」
「わかってるさ。飛竜車で来るより、そのまま飛ばしたほうが早かったから騎乗しただけだよ。それに、貴方の婚約者はこの私だっていうことを印象づけないとね。私の影があまりに薄いと、アリアに言い寄ろうとする男がいるかもしれない。こうすればよく目立つだろう?」
「命知らずなライダーさんだと思われていないことを祈るばかりですわ」
軽口に軽口で返し、ノーディスを立ち上がらせて抱擁する。登場の仕方からして注目はされていたので、ここまですれば二人の仲のよさは十分すぎるほど伝わるだろう。
ほどなくして狩猟大会の時間になった。アリアは開会の挨拶を述べ、狩人達とその付添人達を森へと送り出す。残った女性達が退屈しないように、お茶と軽食、そして音楽や大道芸を披露する芸人達の用意は完璧だ。
階級の上下に関係なく参加できる大会なので、肩身の狭い思いをしている平民の女性や不快な思いをしている上流階級の女性がいないか、歓談しつつも目を光らせる。幸い、目立った問題は起きていないらしい。事前に申請のあった参加者名簿に従って、やんわりと席を分けているからだろう。お互いが過ごしやすくするための区別は必要だ。
「四番のテーブルの、三時の席のご婦人にコーディアルを勧めてきてちょうだい。それから、十八番のケーキと四十五番のジャムがもうすぐなくなりそうですわ。すぐに補充なさい。三十六番で誰かがティーカップを倒してしまったようですから、新しいテーブルクロスも用意してくださるかしら」
「かしこまりました、アリアお嬢様」
アリアは客人達の席順を完璧に把握していた。主催として各テーブルを回りながら、気づいたことを近くの使用人に耳打ちする。使用人はすぐ指示に従った。
森から猟銃の音が絶え間なく響く中、陽はゆっくりと高くなっていく。そろそろ昼休憩の時間だ。男性陣のためのテーブルセットを追加させ、彼らの帰りを待つ。ほどなくして休憩を告げる鐘の音が響き、森からぞろぞろと狩人達が帰ってきた。
「お帰りなさいまし。戦果はいかがです?」
「うーん……あまり芳しいとは言えないなぁ。狩猟は難しいね。こんなことなら兄上に習っておけばよかった」
まっさきにアリアのところに帰ってきたノーディスは、気恥ずかしげに頬を掻いた。記録係が中間の戦果を集計しているところだが、彼が上位に食い込むのは難しそうだ。
「今日はウィドレット様はいらっしゃっていませんわね。残念ですこと」
「私が止めたんだよ。兄上に参加されたら、一切の勝ち目がなくなってしまうから。明日アンジェ様と一緒に行くと言っていたから、私の代わりによろしく伝えておいてくれるかな」
ノーディスは大学の都合上、明日は一日来れないらしい。今日は泊まらずに狩猟大会が終わり次第ルクバト領に帰って、三日目の夕方にまた来る手はずになっていた。研究で忙しい中、アリアのために時間を作ってくれているのだ。嬉しくないわけがなかった。
昼食は仔牛のパイ包みとかぼちゃのポタージュだ。戦果はレーヴァティ家がすべて買い取り、収穫祭の間のご馳走として無料で振る舞われるが、さすがに今から捌いていては空腹を満たせないのであらかじめ用意してあった材料で作っている。ジビエは後のお楽しみだ。晩餐会のメインの料理や、東庭園で配られる串焼きに期待を寄せている客人達は多いだろう。
食事に舌鼓を打っていると、不意に黄色い声が上がった。「何かしら?」どうやら女性達が盛り上がっているらしい。何か面白いものでもあるのだろうか。アリアとノーディスは顔を見合わせた。
「どうやら犬が迷い込んできたみたいだね。肉の匂いにつられたのかな」
「まあ、可愛らしいこと」
白くて毛の長い、ふわふわした小さな仔犬が芝生の上をころころと駆け回っている。見たところ首輪はしていないようだが、野良犬には見えない。仔犬は周囲の様子をきょろきょろうかがい、やがてアリアとノーディスのいるテーブルに向かって駆けだしてきた。
きゃんきゃんと甘えるように吠えるその犬は、ノーディスには目もくれない。アリアを見上げて尻尾を振っている。犬を追って他のテーブルからも見物客がやってきた。
(なんなのかしら、この犬)
設定として、アリアは動物好きということにしてある。本当はちっとも興味などないが、犬の愛らしさに表情を緩めたふりをしていた。とはいえ、人懐っこいなら好都合だ。「おいでなさい」闖入者を穏便につまみ出せるよう、アリアは仔犬に手を伸ばして────
大気が震える。世界が崩れている音かと錯覚するような吠声が響いた。
「アリア!?」
それは仔犬から聞こえた。いや、それはもはや仔犬とは呼べない。筋肉が膨張していき、人間の倍以上もある巨体へと変化する。仔犬は一転して歯を剥き出しにし、敵意に満ちた目でアリアを睨んでいる。ぼたり、ぼたぼた。何かがアリアの頭を濡らした。それはこの怪物の牙の間からしたたり落ちた涎だった。
アリアは声も出せずに凍りついたまま、怪物を見上げていた。けれど見開いた目は現実を映さない。頭の中をぶわりと走馬灯が駆け巡っていたせいだ。
フェンリルだ、と叫ぶ声がする。重なり合う悲鳴が遠く聞こえた。
「ッ、希うは守護の盾! すべての邪悪を撥ね退ける奇跡を!」
ノーディスがアリアの前に立ち、何かの呪文を詠唱する。眼帯で封じられた左目が仄かに光を帯びた。
フェンリルは気にせず大口を開けて二人ごと噛み砕こうとしたが、視えない何かに阻まれたようだ。鼻先を強くぶつけたフェンリルはより怒り狂ったように吠えたてる。
「まさかこんな形で短縮詠唱版障壁の検証をする羽目になるとは……。大丈夫だよアリア、貴方のことは私が守るからね」
「ノーディス……」
死の風に鷲掴みにされていた心臓が、ようやく鼓動を取り戻す。ばくばくと痛いほど激しく動く胸を押さえるように、アリアは震えながらノーディスの背中にしがみついた。
こわい。これがモンスターか。脅威は知っていたが、実際に目にするのは初めてだ。それもよりによってフェンリルなんて。
フェンリルは人里には現れないはずの、上位のモンスターだ。こういう化け物はもっと、人間の立ち入らないような秘境に棲息しているものだと思っていたのに。まさか仔犬に化けて都市部にやってくるなんて。
アリアに魔法は使えないし、武術もからきしだ。モンスターと戦う力など持ち合わせていない。話術も笑顔も、この猛り狂うけだもの相手に通用するとは思えなかった。どうすればいいのかわからなくなったアリアは、涙のにじむ目をぎゅっとつむった。
(とても一から手懐けてる余裕はなさそうだな。完全にこっちに敵意を持ってる。なんなんだ一体……)
アリアを背に庇いながら、ノーディスは周囲に視線を巡らせた。恐怖のあまり足がもつれ、逃げ遅れた客人が散見される。幸か不幸かこのモンスターはノーディス達を……あるいはアリアを狙っているようだが、いつフェンリルの興味が哀れな客人に向くかわからない。大惨事につながる前に、なんとかしなければ。
フェンリルほどの凶悪なモンスターは、人間一人の手に余る。さすがのノーディスもそこまで驕り高ぶってはいない。
討伐のためには専門の訓練と実戦経験を積んだ熟練の兵士が最低でも三十人は必要だろうが、それでも犠牲は必ず出るだろう。なにより、モンスター被害の少ない都市部でそこまでの立ち回りができる兵士を即刻集合させることは難しい。
だからノーディスは、自分にできる最善の手段を選ぶ────人間の戦力があてにならないなら、他のものに頼ればいい。
「アンティ!」
大きな声で相棒の名を呼ぶ。レーヴァティ家の竜丁には悪いが緊急事態だ。竜舎を壊してしまうようなことがあれば後で弁償するほかないが、すべては生きてこの窮地を脱したら考えよう。
後日、この狩猟大会に参加していたとある老紳士はこう語った。真昼に流星を見たのはあの日が初めてのことだった、と。