噂が真実を作る
収穫祭の日が近づくにつれ、領内の空気もそれ一色になっていく。ブドウを模した飾りが街を彩り、収穫祭で身に着けるための仮面や杖が飛ぶように売れていた。毎年恒例の行事だが、だからこそその光景が見られるようになると秋が深まっていることを実感できる。
「今年の収穫祭も盛大に祝えそうね。いいことですわ」
領中の名家から届いたご機嫌伺いの手紙に目を通しながら、アリアは満足げに呟く。紅茶を淹れていたヨランダは、何かを期待するような目をそっとアリアに向けた。
収穫祭に向けて、領中の集落から代表者達が会いに来る。彼らの歓待も領主代行の仕事だ。失礼のないようもてなさなければ。
収穫祭は、レーヴァティ領でもっとも盛大な祭りだ。少なくともアリアはこの地域に密着した伝統行事を重視していた。発言力のある長老達の後ろ盾を大切にしたいからだ。古くから続く神聖な祭りをないがしろにすれば、彼らの反感を買いかねない。各地の長老達に背を向けられれば、他の村人達も追従するだろう。
領民の支持を得る一番簡単な方法は、彼らに寄り添う姿勢を見せることだ。だからアリアは毎年、レーヴァティ家の中で誰よりも真剣に収穫祭に取り組んでみせた。
有力者を招いた晩餐会も、街の住人達のために開かれたダンスパーティーも、神事にかこつけた余興のゲームひとつにしたってアリアが人々の心を掴む絶好の機会だ。と言っても、ライラのようにはしゃぎ回って遊んでいたわけではない。あくまでも主催側の人間として、収穫祭に参加した全員が楽しめるよう気を配っていただけだ。
晩餐会でも、ダンスパーティーでも、ゲームでも。相手はそれぞれ異なるが、アリアの一番の仕事は美しく微笑むことだった。
女主人として采配を振るう母を手伝い、来客をもてなして会話に花を咲かせ、ダンスに花を添えて場を盛り上げ、優勝者の健闘を称える。息をするように、自然に。ただそこにいるだけであらゆる価値を生み出せるように。微笑んでいること以外は、他に何も特別なことはしていない。真の淑女たる者、そう思わせる優雅さがなければならない。だからその座に至るまで、アリアがどれほど思考を巡らせて言葉を選び、相手の一挙一動に注目してきたかなど、悟られてはいけなかった。
歴史ある祭りなので、レーヴァティ公爵夫妻も帰還するだろうと思ったが、その兆しは見えない。もし収穫祭に合わせて帰ってくるのであれば、そろそろその報せが届いてもいいころだ。音沙汰がないということは、今年の収穫祭はアリアに一任するということだろう。アリアにとっては願ってもないことだ。
(ついにわたくしに家督を譲ってくださる気になったのかしら。とてもよい判断ですこと)
元々、レーヴァティ公爵夫妻はこの祭りについて、アリアほど熱心ではなかった。いちいち民衆の機嫌を取らなくても、領主の座は揺るがないと思っていたからだ。
代々受け継いできたレーヴァティという名前は、それほどの安心感を彼らにもたらしていたのだろう。だから公爵夫妻が帰らないことについて、アリアは特に疑問には思わなかった。
公爵夫妻の自信の源である地盤はアリアもそっくりそのまま引き継げる。しかしアリアには、ライラという強力な敵がいた。落伍者のくせに人の心を次々と掴む目障りな片割れのせいで、アリアは従者の伴わない姫君のむなしさを身を持って思い知らされていたのだ。
それは、自分がならなければいけない“完璧な淑女”の在り方ではない。
どんな虚像を作り上げようと、見破られることがなければ真実に取って代われる。
しかしその反面、見てくれる人間がいなければ何の価値もない。アリアが一人でどれだけ己の完全無欠さを誇ろうと、ただの自己満足に過ぎない。第三者からその評価を下してもらわなければ、遠巻きにされて嗤われているかもしれないという恐怖を振り払えない。
だから、アリアは家名にあぐらをかかなかった。レーヴァティ家の財力と権力に守られているように見えて、誰よりそれを的確に利用した。大貴族の娘に生まれたからこそできることがあるからだ。
贅沢を楽しみながら上から目線の施しをする高慢な令嬢か、己の恵まれた境遇を理解しているからこそ下々の者に寄り添ってくれる心根の清らかな令嬢か。見方が変われば言葉が変わり、印象も変わる。いいように受け取ってくれる人間を増やす機会を見逃すのはもったいない。幼少期からのその努力は、今になって実を結ぼうとしていた。
実はレーヴァティ公爵夫妻の不在について、その裏にはノーディスの暗躍があった。
領地の行事に熱心ではない公爵夫妻の不真面目さを演出する一方で、アリアが次期領主としての手腕を見せる機会を作る。そうすることで外堀を埋めてアリアの支持率を高めるために、ノーディスが王都のウィドレットに手を回してもらって公爵夫妻の一時帰還を阻んでいたのだ。それをアリアが知ることはなかったが。
シャウラ家の一声で開かれた催しが、レーヴァティ公爵夫妻の予定を埋める。紳士クラブを通して付き合いのある家の当主に、ウィドレットはちょっとした討論会や狩猟の開催を持ちかけ、その家の名でレーヴァティ家に招待状を送らせた。毎日のように届く誘いはどれも別の家からのものなので、レーヴァティ公爵は誰かが意図して自分達の予定を操っているとは気づかない。
夫が他家の男達と交流しているなら、妻もその家の夫人達と交流するものだ。
連日出かける夫に付き合って、レーヴァティ公爵夫人も外に出る。「男の人は本当に政治の話が好きですこと」「毎日毎日、飽きないのかしら」「たまにはパーティーにエスコートしていただきたいものですわ」……サロンやお茶会で互いに相手を牽制し、家の様子を測り、結束を深める。夫婦の円満さと財力を誇示するために、舞踏会にもきちんと出席しなければ。
疲労は日に日に蓄積するものだ。夫妻のどちらもが社交界で足を掬われないように神経をとがらせているので、うまくいっている領地のことは後回しになっていく。向こうのことはアリアに任せていれば大丈夫そうだと、無意識のうちに刷り込まれていく。
レーヴァティ家の娘達がすでに領地に戻っていることは、王都の社交界でも知れ渡っている。領地のことを娘に任せている夫妻を見て、王都の社交界の人々はこう考えた。ああ、この二人はいずれ家を継がせる娘のために、顔を売っておきたいのか、と。
例年以上に熱心に社交に打ち込むのは、「娘をよろしくお願いします」と言外に告げているからに違いない。ここまで念入りに行うなんて、少し早いが世代交代を考えているのだろうか。
領地に娘を残して自分達は挨拶回りにいそしむなど、彼女を信頼しているからこそできることだ。よほど傑出した後継者なのだろう。そう思う王都の貴族達の耳に、誰が領地で采配を振るっているのかが届く────どうやら領主不在のレーヴァティ領を預かっているのは、レーヴァティ家の聖女らしい。
アリアの手腕を、王女アンジェルカは無邪気に褒めていた。
まだ正式な社交界デビューを済ませていないうえ、過保護な婚約者に守られているせいでめったに人前にお出ましにならないまぼろしの姫君すら参加したがるパーティーを開いたなんて。人々は感心し、そのガーデンパーティーに行った者達から話を聞きたがった。
娘が褒められるなら、レーヴァティ公爵夫妻も悪い気はしない。彼女を育てた自分達の手柄になるからだ。
二人は自慢げにアリアを褒めちぎった。そのため、貴族達の間ではアリアが近いうちにレーヴァティ家を継ぐのだという認識がますます深まっていった。
アリアはシャウラ家の優秀な次男と婚約したばかりだ。彼が選ばれたのは、きっと女公になるアリアを支えさせるために違いない。
それにしても、何故才女と名高い長女が跡取りではないのか。ライラのほうにはまだ婚約者がいない。一方、ノーディスはアリアの夫としてレーヴァティ家に婿入りすると聞いている。妹夫婦が家督を継ぐなら、姉の立場がない。一体ライラはどうなるのだろう。
それは自然の成り行きの憶測だ。それは当然の疑問だ。だが、渦中の人であるレーヴァティ公爵夫妻に直接尋ねるのははしたない。
だから、人は面白おかしく各々の答えを囁き合った。レーヴァティ公爵夫妻に真実を明かしてもらうのではなく、娯楽として消費することを選んだのだ。
いわく、ライラは王族の元に嫁ぐことが内定しているため、レーヴァティ家に残れない。だから次女のアリアが家を継ぐことになった。
いわく、病弱なライラでは女公としての務めが果たせない。だから誰とも結婚することはなく、アリアが婿を取ることになった。
いわく、ライラは公爵家を継ぐには瑕疵がありすぎた。だから淑女の鑑である『姫花の聖女』が後継者に選ばれたのは当然なのだ。
下賤で刺激的な風説は、清いだけで面白みのない真実よりも早く伝播する。下世話な推論は過激さを増し、瞬く間に社交界に浸透した。
レーヴァティ家の才女。打ち立てられたその名声が、上からメッキを塗られてくすんでいく。代わりに脚光を浴びるのは、才色兼備の姉の影に隠れながらも凛として咲き誇っていたレーヴァティ家の聖女のほうだ。
さすがにここまでくると、レーヴァティ公爵夫妻も長女の汚名返上のために働きかけようとしたが、アリアに家督を継がせるというのは彼らの中でもほとんど決定事項だ。何故ライラではないのか、正しい理由を説明しようとすればレーヴァティ家の名に泥を塗ることになる。そこで公爵夫妻は、ゴシップに対して毅然とした態度を貫いて威厳を保つことを選ばざるを得なかった。
しかし、それも永遠に続けられることではない。手のかかる愛娘を悪評の矛先からそらすにはどうすればいいのか、公爵夫妻の頭痛の種が増えた。
一番ライラへの被害がないのは、高貴な家の人間に妻として見初められたことにすることだ。しかしレーヴァティ公爵家の長女を嫁に出すほどの相手と言えば、最低でも公爵位を有していなければいけなかった。欲を言えば自国か他国の王族がいい。それも、ライラがどういう子なのか知ったうえでそれを受け入れてくれるような。ライラのために、そんな良縁を用意しなければ。
言動こそやや奇矯なものの、ライラが自分達の可愛い娘であることに変わりはない。
理解のあるいい家に嫁ぐことができれば、おてんばなライラも少しはおとなしくなるだろう。自慢の才女を売り込むべく夫妻はいっそう社交に励まざるを得なくなり、休む間もなくあちこちに顔を出すようになった。
恒例行事である収穫祭のことも、恒例行事であるからこそ優先順位が低くなる。いかに伝統的な祭事とはいえ、例年と同じように進めていれば何も問題ない。領地にいる者達が、いいようにやってくれるだろう。
次女に公務を押しつけた現領主夫妻は、今ごろ華やかな社交界で毎日派手に遊興にふけっている。たとえ公爵夫妻の心中はどうあれ、レーヴァティ領で暮らす領民からはそう見える。
社交は貴族にとって大切な仕事のひとつだし、それに伴う気苦労も多い。
だが、社交という言葉に対して存在する上流階級の人間とそれ以外の人間の間にあるイメージの乖離を、公爵夫妻は軽く捉えすぎていた。平民の苦労が貴族にわからないように、貴族ならではの苦労も平民には伝わらないということを、生粋の貴族であるレーヴァティ公爵夫妻は理解していなかったのだ。
ノーディスは、ウィドレットに少し頼みごとをしていかにアリアが頑張っているか伝えるだけでよかった。誰に動いてもらえば一番効率がいいのか、ノーディスはよく知っていたからだ。
ウィドレットはすでに、可愛い異母弟の婚約者であり最愛の恋人の友人であるアリアへの支援を決めている。アリア自身がこれまで積み立ててきた功績のおかげで、扇動はとても簡単に成功した。すべてノーディスの狙い通りだ。
公爵夫妻から家督を奪おうというのだから、アリアだけの人脈が必要だ。公爵夫妻がこれまであてにしていた地盤は確かにアリアの力になるが、それ以外の後ろ盾がほしい。引退した前領主夫妻に口を出されないようにするために。
レーヴァティ領の民はもちろん上流階級の人間達も、アリアとノーディスがそれぞれ仕掛けていた術中に気づかないうちにはまっていた。
アリアが築いたものをノーディスが飛躍させ、着々と当主交代のための準備が進んでいく。もちろんアリアもノーディスも、互いが何かをしていることには気づいていない。しかし二人の策略は相乗効果を生み、的確に作用している。「あらかじめ相談したうえで示し合わせてやっているのかと思っていたぞ」とウィドレットがぼやくのは、まだ先の話だ。