美味しく焼けると、いい匂いがしすぎて我慢できなくなるので
「お父様、お母様。わたくしも領地に帰りたいのです」
「まあ。せっかくの社交界デビューの年なのよ? それなのに、もう帰りたいだなんて」
「ですけれど、ノーディス様がいらっしゃらないんですもの。ノーディス様とお会いできない社交界なんて、つまらないですわ」
姉と婚約者が浮気しないか見張りたかった、という本当の理由を悟られないように、可愛らしくむくれてみせる。
両親は少し悩んだようだが、下手に羽目を外されて婚前に火遊びを覚えるよりはましだと判断したらしい。帰還の許可はあっさりと下りた。
『結婚相手を見つける』という最大の目的はすでに果たされている。おまけに、ライラに帰還の許可を出している以上、アリアを無理に引き留める理由はない。アリアがライラの代役をする必要はもうないのだから。ただの社交なら、両親だけでも十分だ。
月末に領地へと帰ることを目指し、アリアの予定は今以上にぎっちりと詰め込まれた。
どうしても外せない家から誘われた催しに出席したり、あるいはそういった家の人間を招待したり。劇場やサロンに出入りして、自分の価値を知らしめるのも忘れない。
王都の社交期は夏から秋にかけて続くが、あえて人の少ない田舎の領地に行ってスポーツや行楽を楽しんだり、王都での用事を済ませ次第切り上げて帰ったりする者もいる。
よほどの騒動を起こしていられなくなったのではない限り、王都にいなくても悪目立ちはしないはずだ。
アリアはデビュタントとして王妃にきちんと拝謁したし、ひとときとはいえ社交期の王都に滞在するノルマも果たしている。アリアの帰還は惜しまれたが、婚約者の決まったアリアに対して深入りしようとする令息はいなかった。
領地に帰る前に、アリアと両親はシャウラ家の晩餐会に招待された。
その席には、嫡男ウィドレットの婚約者である王女アンジェルカも招かれていた。当然と言えば当然だが、ライラは来ていない。
「ご機嫌よう、アリア様。お会いできて嬉しいわ。もうすぐ領地に帰ってしまわれると聞いていたから、その前にご挨拶できてよかった」
「ご機嫌よう、王女殿下。お声がけいただき光栄です」
広大な海のようなロイヤルブルーの瞳にアリアを映し、アンジェルカは快活に微笑む。まばゆい金髪がシャンデリアの光を受けてきらきらと輝いていた。
王族の威容に気圧されないよう、アリアも淑女の礼を取る。一つ年下の未来の義姉は、アリアを見て何を思っているのだろう。
「ご婚約おめでとう。ノーディス君ならきっとアリア様を幸せにしてくれるわよ」
「ありがとう存じます。わたくしには過ぎた良縁でございますが、ノーディス様のご厚意に恥じないよう尽くしてまいります」
そう言ってアリアははにかんでみせた。今日のテーマは、憧れの人と婚約できて舞い上がっている初々しい乙女だ。
「本当は、ライラ様ともお会いしたかったのだけど。これまで一度もお会いできていないから、兄も残念がっていたわ」
アンジェルカの兄とは、王太子オルディールのことだ。
オルディールも今日の晩餐会には来ていなかった。女好きの放蕩者として有名なので、もしかしたらどこか別の、もっと賑やかで刺激的な催しに顔を出しているのかもしれない。
「申し訳ございません。姉は身体が弱いのです。機会がございましたら、その時こそ必ずご挨拶させていただけたらと存じます」
「ふふ、楽しみにしているわね」
そんな機会を作ったとして、会うのはどうせ“ライラ”だろうけれど。
晩餐は始終和やかに進んだ。両家の会話は弾んだし、アリアとノーディスの仲睦まじさも存分にアピールできただろう。外堀は順調に埋まっている。
「アリア様、領地にお戻りになられたら、お手紙を送っていいかしら?」
「よろしいのですか? もちろん構いませんわ。王女殿下さえよろしければ、ぜひ我が領にもお越しくださいまし」
晩餐の後に寄った談話室で、アンジェルカにそう尋ねられた時、アリアはつとめて冷静に答えた。王女の友人として認められたにも等しい発言は、アリアの自尊心を大いに満たしてくれる。
(お父様、お母様。同じことがライラにできるとお思いになって? 確かにライラは経済面で領地を潤していますけれど、当主にふさわしい人脈を築いているのはわたくしですわ)
女公としてもっとも必要なものは、実務能力ではなく社交力と調整力だとアリアは考えていた。
シャウラ家を足掛かりとする王家との太いコネは、きっと役に立つだろう。この関係を良好に保ち続ければ、何かと便宜を図ってもらえるはずだ。
「嬉しいわ。これまでは、あまり年の近いご令嬢とお話ししたことがなくって。ウィドが構ってくれるから寂しくはないのだけれど、やっぱり女の子が相手じゃないと言えないことやできないこともあるでしょう?」
アンジェルカはくすくすと笑いながら囁き、自身の婚約者を一瞥する。ノーディスと談笑していたウィドレットは、アンジェルカの視線に気づいたのかふとこちらを見た。
「これからアリア様とは姉妹も同然になるんだもの。だから、わたくしのことは愛称で呼んで構わないわよ。もちろん、殿下なんてつけないで」
「かしこまりました、アンジェ様。そのような栄誉をわたくしに与えてくださったこと、感謝いたします。であれば、わたくしのことはぜひただのアリアと」
(わたくしの姉妹が、本当にアンジェ様だけであればよかったのに!)
愛らしく微笑みながらも、片割れへの苛立ちがくすぶる。アンジェルカならきっと、アリアの努力を理解し尊重してくれることだろう。ライラとは違って。
「よかったな、アンジェ。いい姉ができて。立場としてはお前が義姉だが」
くつくつと笑うのはウィドレットだ。ノーディスも微笑を浮かべている。
「ウィドがわたくし達の邪魔をしに来たら、ノーディス君、貴方がきちんとウィドを引き留めなさい」
「困りましたね。アリア様をアンジェ様に独占されるようなことがあれば、兄上に密告してアンジェ様を引き取っていただこうと思っていたのですが」
「まあ。どうしましょう。まさか、わたくしにノーディス様かアンジェ様かを選べだなんて、そのような残酷な試練はお与えになりませんわよね?」
「違うの! アリアを悩ませたいわけではなくってよ! ……仕方ないわね、たまにならウィドとノーディス君も同席していていいわ」
「よもや俺達を邪魔なおまけ扱いするとは。俺は悲しいぞ、我が女神。まあ、そんなところも愛おしいが」
仲のいい兄弟と、その片方の婚約者。すでに構築されていた三人の仲に、アリアはするりと溶け込んだ。誰もアリアを邪険に扱わず、輪の外に追い出そうともしない。この調子なら、これからもうまくやっていけるだろう。
残った不安要素は、ウィドレットの心情だ。ライラが十年前に働いたあの非礼は、彼の中でもきちんと片付いているのだろうか。
アリアの心中を察したわけではないだろうが、ウィドレットはアリアを一瞥すると何か考え込むそぶりを見せた。
「アリア・レーヴァティ嬢。思えば、これまでお前とはきちんと話したこともなかったな」
「当家の不精をお詫びいたします、ウィドレット様」
「……俺に会うと、お前は謝らずにはいられないのか? そういうのはいい。お前にへりくだられていると、ノーディスに文句を言われかねないしな。アンジェにまで嫌われてしまう」
不愉快そうなウィドレットを見て、思わず謝罪の言葉が喉まで出かかる。それをなんとか飲み込み、アリアは笑顔を整えた。ひとまず、ライラ由来の悪感情はアリアに影響していなさそうだ。
「そうですよ、兄上。私のアリア様を怖がらせるのはおやめください」
「俺は自然体でいるだけだ。お前こそ、いいところを見せようと見栄を張りすぎるなよ」
兄弟は気安く言い合っている。その様子を見たアリアとアンジェルカは顔を見合わせ、相好を崩した。
「今日はお越しいただいてありがとうございました、アリア様」
「こちらこそ。とても楽しいひとときを過ごせました」
見送りに来たノーディスは、恭しくアリアの手を取ってキスをする。アリアも満面の笑みを返した。
「ノーディス様、最後にひとつわがままを言ってしまってもよろしくて?」
「ひとつと言わずいくらでも。アリア様が願うことであれば、なんでも叶えてさしあげますよ」
「では、どうか楽に接してくださいな。わたくし達はもう婚約者同士なんですもの。結婚だって、きっとあっという間ですわ。ですからわたくし、ノーディス様ともっと親しくなりたいのです。これからは、アリア、とお呼びいただけませんか?」
仲睦まじいウィドレットとアンジェルカの様子に触発され、彼らが羨ましくなってしまった。……というのはもちろん方便だ。
(無邪気な女を嫌う殿方がいらっしゃって? 特定の相手だけの特別な接し方は、優越感をくすぐるでしょう? 気安く呼ぶのを許した殿方は貴方だけ。その意味がわからないほど愚かな方を選んだつもりはございませんわ)
上目遣いでそうねだったアリアにノーディスは少し目を丸くしたものの、すぐにふっと微笑む。
「それが貴方の望みなら。ただし私からも条件がある。私のことは、ノーディスと呼んでほしいんだ」
「ええ、ノーディス!」
宝物をもらった子供のように、ノーディス、ノーディスと何度もその名を舌先で転がす。ノーディスは目を細め、愛おしげにアリアを見つめた。
思い通りの反応だ。代わりにノーディスを呼び捨てで呼ぶ許可を出されたのも、無垢なアリアを喜ばれるのも。打てば響くノーディスの様子は、彼が間違いなくアリアの術中にはまっていることを示していた。
さて。
幼少の頃から帝王学としての淑女教育に励んできたアリアは、その一環として他国の文化や言語についても深く学んでいた。アルバレカの大領地の未来の領主として、他国から来た外交官や有識者をもてなす機会があることを想定されてのものだ。
だからアリアは、隣国にあるこんなことわざを知っている。『肉を焼くのが上手い者ほど、客に出す肉は少なくなる』────ただし知識として持っていることと、身をもって経験して理解することは、また別の話なのだ。
アリアは、自分はあくまでも他人を利用する人間であり、決して他人の手のひらの上で踊る人間ではないと自負している。だからこその盲点だった。
他人、それも同世代の異性を呼び捨てにするなど、親しい仲でなければ許されない。それでもそう呼んでほしいと言えたのは、“彼と親しくなりたい”から。だからこそ許したのだと、自分にさえ言い聞かせて納得させてしまう特別な呼び方。
あくまでもノーディスからの対等な返礼であり、無邪気さを演出するための小道具として活用できるとしか思っていない気安い呼び方。
それが、そっくりそのままアリアの心を絡め取る網として作用するのだということに、まだアリアは気づかない。