そして喜劇の幕が上がる
────そのつもり、だったのだが。
「あいつ、一体なんなの!?」
ノーディスは冷笑だけ残して帰っていった。荒々しく自室に戻ったライラを、ダルクが心配そうに出迎える。
ライラの作戦はこうだ。アリアのふりをして自然に接触し、途中から自分がライラであることを明かして、ノーディスの心をわしづかみにする必殺の台詞を言う。完璧なはずだった。
原作のノーディスは、異母兄ウィドレットに下僕のように仕える卑屈で陰気な主体性のない青年だ。元々は明るい人柄だったようだが、ウィドレットによる支配が彼をそういう風に変えたらしい。
しかしそんなノーディスは、自分と同じようにウィドレットに苦しめられるアンジェルカと出逢い、少しずつ彼女に惹かれていく。ウィドレットの手前大っぴらには何も表せないものの、ノーディスもアンジェルカを愛しているのだ。
誰にも気づかれないよう陰ながらアンジェルカを助け、けれど彼女の幸せを願って身を引く健気なノーディスの姿に、コメント欄の当て馬推しは大いに沸いていた。
(アンジェがノーディスを説得して、ノーディスがアンジェ側に本格的に寝返るのは内乱の途中だから、三年ぐらい先のはず。先手は打ったのに、なんでノーディスには通用しなかったんだろう)
ウィドレットが扇動する内乱が激化する中で、アンジェルカはノーディスに対して横暴な異母兄からの離反と自立を促した。
それを拒んでウィドレットの元に戻ったように見えたノーディスだが、実はアンジェルカの言葉はきちんと届いていた。だから彼はウィドレットの目をかいくぐり、危険を冒してまでダルクをかくまったのだ。……そんなノーディスも、裏切りに気づいた異母兄によって粛清されるのだが。
(ダルクはアンジェじゃなくてわたしを選んでくれた。つまり、この世界に強制力はないってこと。だからノーディスも、わたしに傾倒してくれなきゃおかしいのに)
アンジェルカが決死の覚悟でノーディスに離反を呼びかける原作のシーン。
それは、ノーディスがウィドレットの魔の手から逃れて、アンジェルカのために生きようとするもっとも決定的かつ印象的なシーンでもあった。それをライラは切り取って再演した。
こまごまとしたネタはすべて拾えなくても、各キャラの見せ場に等しい名シーンなら覚えている。口調だけは多少ライラの言いやすいように改変したが、あとはほとんど原作の通りのはずだ。
それなのに、ノーディスはライラを拒絶した。それが原作のような葛藤の表れではないことは、原作と反応が違うことからも明らかだ。
ウィドレットとノーディスの母親が異なることは、世間的には秘匿されている。部外者でそれを知っているのは、原作の知識があるライラぐらいだろう。
ノーディスの過去編によれば、異母兄弟の関係が主人と奴隷さながらのものになったのは、ウィドレットの十歳の誕生日らしい。ライラが前世を思い出した日だ。
シャウラ家の兄弟は、ただでさえ普段からぎくしゃくしていた。おまけに誕生日パーティーの後、ウィドレットを廃嫡にしてノーディスを次期当主とすることについて大人達が話し合っていたらしい。それを聞いてしまったことで、ノーディスに対するウィドレットの憤りは爆発するのだ。
魔力飢餓と魔力制御不全という二人の特異な体質のせいで、兄弟喧嘩は図らずも殺し合いまがいのものにまで発展した。そこでノーディスはウィドレットに殺される寸前まで痛めつけられた挙句、出生の秘密を恨み言たっぷりに明かされたのだ。
それ以降、ノーディスはぬぐい切れない恐怖心と罪悪感によってウィドレットに隷従するようになったとか。そんなノーディスの心を照らし続けたのがアンジェルカだ。
ライラには、ダルクという成功体験があった。原作のヒーローを手中に収めた彼女に、恐れるものなど何もない。
だから今回も、アンジェルカと同じことをすれば彼女が手にするものと同じ成果が得られるという自信があった。
その成功のせいで気づかない────ダルクとノーディスでは、そもそも前提条件が違っていることを。
ライラが『原作』と呼ぶ記憶の中で、ダルクはアンジェルカとも初対面だった。
一方で『原作』のノーディスがアンジェルカの説得に胸を打たれた時、すでに彼はアンジェルカと親交があった。ウィドレットに苦しめられる同志として、二人の間には絆が芽生えていたのだ。
劇的な出逢いか、あるいは日ごろの積み重ねか。それぞれ響くものが違う。うわべだけ模倣したところで、ライラは完全な主人公になどなれはしない。
そもそも、この世界は現実だ。
そうである以上、ほんの些細な偶然が、大きな波紋を呼ぶことはある────定められた脚本に縛られずに好き勝手に生きて、“偶然”が生まれる余白を作り出すような者がいるならなおのこと。
(第一、ノーディスは原作と違って鬱屈してなかった。でも、原作とキャラが違うなんてありえないよね。……もしかして、ノーディスも転生者なの? だからウィドレットにいじめられないように、うまく立ち回って……。いじめられてないなら、卑屈になる理由はないわけだし……)
ここは現実だと言いながらも『原作』を信じ続けるライラの目に、正しい世界の姿は映らない。
(転生者が相手なら、原作通りの展開にならないのも当然か。でも、ノーディスに転生したくせにウィドレットから逃げてないってことは……まさかウィドレット推し!? ヤバっ! ダルクがここにいるって知られたら、何されるかわかんないじゃん!? 万が一ウィドルカ過激派だったらどうしよう……)
ライラは自分の信じたいことしか信じない。彼女には、自分の中で安易に出した結論を正しいと思い込んでしまう悪癖があった。
(わたしが転生者なのがバレちゃったのは痛手だな……。だからあいつもわたしを馬鹿にしたんだろうし。あー、ムカつく!)
「ライラお嬢様、あの男と何かあったんじゃないのか? 戻ってきてからずっと様子がヘンだぞ。何をされたか言え、俺が仕返ししてくるから」
「大丈夫大丈夫。気にしないで。でもありがとね、ダルク」
(わたしがダルクと一緒にレーヴァティ家を出るのは決定事項だけど、すぐにはできないよね? こうなったらもう、ダルクのことに気づかれる前にノーディス達を婚約破棄させるしかない!)
ノーディスはレーヴァティ家に婿入りする気らしい。だが、転生者がモブ令嬢の家なんかに用事があるとはとても思えなかった。
ライラとアリアは、アンジェルカと似ているというわけでもないのに。それなのに何故わざわざこの家を婿入り先に選んだのだろう。おかげで厄介事が増えた。
だが、こうなってしまったものは仕方ない。
アリア達が結婚する前に家を出て安全な場所に行く、そしてアリア達を別れさせる。それができるのはライラだけだ。
ダルクと共に家を出ればライラは安全だが、ライラのいない間にアリアと両親に何かあったら可哀想だろう。たとえライラの足を引っ張って甘い汁を吸うだけの存在でも、家族であることに変わりはないのだから。せめてノーディスが無害だとわかるまで、決して警戒を緩めないようにしなければ。
(ノーディスとウィドレットが何を考えていようと、あの二人の思い通りになんて絶対にさせない。人の想いを平気で踏みにじるだけじゃなくて、人を殺すことすらなんとも思わないような人でなしなんだから。ダルクのこともこの国のことも、守れるのはわたししかいない!)
ライラはそう固く決意する。
この世界で暮らす人々が血の通った人間であることを他ならない彼女自身が否定し、その心をもてあそんでいることに、彼女はちっとも気づかない。
* * *