三流は外堀しか埋めない
婚約が無事締結されて、ノーディスはすぐにレーヴァティ家に挨拶に行った。応接室に通され、アリアの訪れを待つ。
(彼女はきっと、いつものように嬉しそうな笑顔を浮かべながらやってくるだろうな。私に利用されているだけとも知らないで。まあ、もう少し女の子の夢に付き合ってやるか)
したり顔でアリアのことを思った。ノーディスは釣った魚には存分に餌を与えて肥え太らせる主義なのだ。
内心では結構浮かれているのだが、この高揚は思い通りに事が運んだことに対してのものだ。少なくともノーディス自身はそう信じて疑っていない。
(今日の手土産は彼女が気に入っている菓子店のプティフール・フレ。彼女が好きなベリー系を中心に、いくつか種類を詰め合わせてある。飽きは来ないはずだ。アリアは特にクリームが好きみたいだけど、この気候ならさっぱりとした爽やかなジュレも食べたがるだろう。変わり種も入れてあるから、話題に困ればその話を振ればいい)
アリアのこれまでの行動パターンを脳内で反芻しながら会話のシミュレートをする。
今日はどんな反応をするか楽しみだ。アリアとのやり取りを、ノーディスは一種のゲームとみなしている。アリアがうっとりとするたび、何とも言えない達成感があった。
「ノーディス様、お越しいただきありがとうございます」
考えていると、応接室の扉が開いた。無垢さの象徴のようなピンクブロンドの髪に、蕩けそうな琥珀の瞳。笑みを浮かべてちょこんとお辞儀をしている少女がいる。
(誰だ?)
だが、ノーディスは一瞬、彼女が誰なのかわからなかった。アリアが来ると思っていたのに、アリアではなかったからだ。
姿かたちは確かにアリアとまったく同じだった。だが、所作が違う。
アリアはスカートを持ち上げる時にあんな風に背筋を曲げないし、バランスを崩しもしない。今目の前にいる少女のように、ドレスが邪魔だと言わんばかりのおおざっぱな動きは絶対にしなかった。
何より、笑みの浮かべ方が違う。ノーディスを前にした時、アリアは陶然とした面持ちをする。目元を潤め、頬を赤く染めて、うっとりとノーディスを見やるのだ。
笑顔というのは、もっとも便利な仮面だ。どんな感情も覆い隠してすり替えることができる。だから頭ごなしに信用しているわけではないが、まさに恋する乙女そのものといったその様子を向けられることに悪い気はしなかった。
だが、この少女は違う。ぎこちなく、ひきつった笑みだ。アリアがそんな風に笑うところなど見たことがなかった。
(私と会いたくなかった? まさか。対応は完璧だったはずだ。本音が透けるようなぼろは出してない。昨日の今日で、もっと条件のいい求婚者が現れたとも考えづらいし)
「貴方は……ライラ様でしょうか。アリア様はどちらに?」
ノーディスが指摘すると、眼前の少女は驚いたような顔をした。その反応を見て確信する。やはり、彼女はアリアではないのだろう。
アリアの嗜好から些細な癖まで、すべて頭の中に入っているのだ。間違いようがない。すべては観察眼と記憶力の賜物だ。一歩間違えれば気持ち悪いが、間違えなくても気持ち悪いかもしれない。
(彼女が本物のライラか。なら、私がこれまで社交界で見かけた“ライラ”は、やっぱりアリアだったんだね)
ライラの仕草は、貴族の娘としてはやぼったい。ドレスを着慣れていないのもありありとわかる。なんとか取り繕ってはいるが、アリアとの差はノーディスでなくても見破れるはずだ。少なくとも、ライラが正式に社交界に出ていれば取り違えられることはないだろう。
「嫌だわ、ノーディス様ったら。いくら似ているからと言って、わたくしを姉と間違えるだなんて」
「ライラ様を前にして、アリア様と呼びかけるほうがお二人にとっても失礼でしょう。私の目には、お二人はまったくの別人に見えます」
ライラは諦めたようにため息をつき、ノーディスの向かいに腰掛けた。彼女に立ち去る気がなかったことに、ノーディスは小さく眉をひそめる。
「ごめんなさい。実はアリアは風邪をひいて寝込んでるから、わたしが代わりに来たの。ちょうどわたしも貴方と話してみたかったし」
「そうでしたか。では、お大事にとアリア様にお伝えください。私はお暇させていただきます」
あいにく、ノーディスからライラと話したいことはない。アリアに会えないなら長居は時間の無駄だ。
昨日訪問の伺いを立てた時も、今日訪れた時も、レーヴァティ家の使用人はアリアの体調について何も言っていなかったが。それに対する不快感を飲み込み、ノーディスはにこやかに立ち上がった。
「待ってよ! 話があるって言ってんじゃん!」
乱暴に腕を掴まれる。とっさに振り払いかけたが、相手は婚約者の姉だ。ゆくゆくは義姉となるレーヴァティ家の人間に、悪印象を植えつけるのはまずい。「離していただけますか」つとめて穏やかに声をかけ、ひとまず話とやらに付き合う姿勢を見せた。
「アリアとの結婚って、本当にノーディスが望んでることなの? ウィドレットの意思じゃなく?」
いくら未来の姻戚とはいえ、現状さしたる親交があるわけでもない他家の人間を呼び捨てする無礼さに、もう話す気力が失せてくる。質問の内容もあまりにぶしつけだ。
(私が結婚したい理由は、確かに元を辿れば兄上にあるけど……だからってそれを素直に言う義理はないよね)
「当然、私の意思ですよ。アリア様のような素敵な方に手を取っていただけて、光栄の極みです」
最上級の笑顔と共に言い募ると、ライラは目をぱちくりさせた。次第にライラの顔に哀れみが広がっていく。アリアと同じ顔をしている少女なのに、彼女とまったく違う表情を見せられることには違和感しかなかった。
「じゃあ、なんでその眼帯をつけてるの? その眼帯って、いわば隷属の証でしょ? とても自我のある人間がつけるものとは思えないわ。貴方が本当にウィドレットの言いなりじゃないなら、外してみせて」
「何を……」
驚いた。この眼帯が何なのか、知っている者がいると思わなかったからだ。
(魔具開発で領地を盛り立てる、レーヴァティ家の才女。なるほど、その肩書は伊達じゃないってことか。でも……私達兄弟の疾患について、他家の人間が知るわけがない。それなのに、どうして兄上と結びつけられるんだ?)
ノーディスの眼帯は魔具だ。この魔具は、ノーディスの魔力孔である左目からあふれる魔力を吸収し、ウィドレットの魔力孔に連結された彼の手袋型の魔具に供給するためのものだった。
制御できずに垂れ流された魔力は周囲に悪影響を及ぼしてしまうし、魔力を求めるあまり周囲から無作為に魔力を奪うのも問題がある。だからノーディスが放出した魔力をウィドレットに吸い取ってもらうのだ。
魔力飢餓のウィドレットと魔力制御不全のノーディスは、そうやって二人で支え合って生きてきた。そのからくりを知っているのは、自分達兄弟しかいない。
「お言葉ですが、それは致しかねます。この眼帯を外せば、貴方にも危険が及ぶかもしれませんから」
「そうやって理由をつけて逃げるのね。じゃあやっぱり、貴方は無意識のうちにウィドレットに服従してるのよ」
「ですから、違うと言っているでしょう」
「大丈夫、おびえないで。ここにウィドレットはいないんだから」
(彼女はきっと、自分が信じたいことしか信じない。私がどれだけ否定しようと、それが彼女の望む言葉じゃない限り聞き入れる気はないんだ)
面倒な相手に捕まったと思った。誤解を解きたいのに、できない。言葉が通じない相手との会話ほど無意味な時間もないだろう。
ウィドレットに魔力を供給するのは、ノーディスも納得したうえでのことだった。
この眼帯がなければ、常時魔力を浪費してしまうのはもちろん、小さな魔術ひとつろくに使えない。魔力を無為に消費するのは体力を大きく消耗するし、深刻な場合死に至る。ノーディスにも利があるからこそやっているのだ。それを隷属だとか服従だとか言われるのは、あまり気分がいいものではなかった。
「あのね。贖罪のために一生を棒に振るの、よくないと思うんだ」
「……はい?」
心臓を掴まれたような錯覚。冷たく鋭いものを押し当てられているような、嫌な圧迫感。
「だって、貴方は何も悪くないでしょ。前公爵夫人が自殺したのは、貴方のせいじゃないんだから」
前公爵夫人。ウィドレットを見捨てた母親。心労に耐えかねて自ら死を選んだ女。夫からひとかけらの情も得られず、常に愛人と比較され、周囲から冷遇され続けた孤独な人。ノーディスは彼女のことを知らない。けれど、だからこそ。
「今までつらかったでしょう。その罪を押しつけられて。だから貴方はウィドレットに逆らえないんだよね」
追い詰められて摩耗していた彼女の精神にとどめを刺したのは、夫の無慈悲な行動らしい。
古参の使用人が囁いていた。「生まれたばかりの愛人の子を養子にしたから、奥様はついに自棄を起こしたんだろう」「死んでも何の関心を寄せてもらえないなんて、可哀想な女だね」と。主人と一緒になって彼女を追い込んでいたくせに、陰でひそひそ嗤っていた。
「でも、ウィドレットに引け目を感じる必要なんてないんだよ。貴方は貴方。過去に囚われないで、ちゃんと貴方の人生を生きてほしいの」
嗚呼────この少女は、一体何を言っているのだろう。
そもそも、何故それを知っているのだろうか。シャウラ家の最大のそのタブーを、前公爵夫人の末路の真相を、どうして彼女が。
「……何も知らないくせに私の心を語るな。勝手に決めつけるな。私の心は私だけのものだ。部外者からの無責任な言葉なんていらない」
「え?」
虫唾が走る。呆けたようなその顔も気に食わない。赤の他人の分際で人の一番柔いところに踏み込んできて、何故素直に受け止めてもらえると思っているのか。
(まさか、今の言葉で私が感動するとでも? そんな押し売りも同然の軽い言葉で、人を救えるわけがないじゃないか。今日初めて言葉を交わしたような、なんの信頼も積み重ねていない他人のうわべだけの言葉が響くほど、自己憐憫に酔ってはいないよ)
自分の存在が一人の女性を死の淵に追いやるのに加担し、ウィドレットから母親を奪ったことについて、ノーディスは彼に謝った。ウィドレットはノーディスを許した。それで終わりだ。
ノーディスを救えるのはウィドレットしかおらず、すでにその目的は果たされている。今さら第三者に出しゃばられても迷惑なだけだ。第一、この痛みと苦しみを分かち合う資格などライラにはない。
「今日はこの辺りで失礼します。差し出口ですが、ライラ様はアリア様の思慮深さや慎み深さを見習われたほうがよろしいかと。普段はアリア様にご自分の代役を押しつけているようですが、いざ貴方が人前に立った時に苦労なさるのは貴方自身ですよ」
「はぁ!?」
「そもそも、アリア様は貴方の奴隷ではありません。私に人間としての自由と権利を説く前に、貴方がアリア様を解放なさったらどうですか?」
制止の声に耳を貸さず、ノーディスは足早にレーヴァティ家を去った。
気分が悪い。アリアに取り入って無事好条件の婿入り先を確保したのはいいが、もれなくライラがついてくると思うと憂鬱だ。
(アリアに家督を継いでもらえば、姉のほうはどうとでも理由をつけてレーヴァティ家から遠ざけられる。それまで耐えるしかないな。どうせもう、姉のほうが会いに来ることもないだろうし。あれだけきっぱりと拒絶したんだから)
それでも一応、アリアに怪しまれず、レーヴァティ公爵夫妻に疑いももたれないよう、ライラとのつながりを希薄にするための布石を打っておこう。アリアが家を継ぐころには、ライラも肩身の狭い思いをしているだろうから、そう難しいことではないはずだ。
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