前世好きだった少女漫画のモブ令嬢に転生してしまった! と気づいた少女……の、双子の妹
* * *
「アリア、貴方は本当にそれが食べ物だと思っているの?」
手作りクッキーを手にしたアリアを前にして、ノーディスは眉根を寄せる。
「そんなもの、食べられるわけがないだろう」
指先で額を押さえ、ノーディスは深いため息をついた。いたたまれなくなったアリアは、ぎこちなく笑みを浮かべる。
「そ、そうでしょうか。いただいてみたら、案外美味しいかもしれませんのに」
「悪いが、私はそうは思わないよ」
ノーディスは険しい顔をしている。このクッキーをノーディスに返したら、そのまま捨てられかねない。それはあまりにもったないだろう。
ノーディスはアリアの婚約者だ。夏の盛りに二人は婚約を結び、来年には結婚する予定だった。
婚約して以来、アリアとノーディスは定期的に会う機会を設けている。このクッキーを焼いたのも、その機会の一環でのことだった。
ノーディスのかたくなな心を融かしたくて、アリアは一縷の望みをかけてクッキーを口に運んだ。
しかし現実は非情にアリアを嘲笑った。思い描いていたものとあまりに違う。アリアの目に、うっすらと涙がにじんだ。
* * *
レーヴァティ家は、アルバレカ王国でも指折りの名家だ。建国の折から王家に忠誠を誓った忠臣として公爵位を与えられ、今代においてもその名誉は輝かしくレーヴァティ家を彩っている。
アリアは、そんなレーヴァティ家の次女……双子の片割れとして生まれた。
華やかなピンクブロンドの髪に、透き通った大きな琥珀の瞳。なめらかで真っ白な肌、形のいい鼻と可憐な唇。まだ幼いながらに愛らしさを体現する双子の姉妹の外見は、とてもよく似ていた。
長女のライラ、次女のアリア。二人を見分けることは、両親でもなかなかできなかった。
まだ仲の良かった二人は、よく入れ替わって大人達をからかっては遊んでいたし、大人達もそんないたずらを笑顔で許容していた。
この時のアリアは間違いなく幸せだった。片割れと過ごしていたあの日々は、幼い日の大切な思い出だ。たとえ今となってはもう、消えてなくなってほしい最低の記憶だったとしても。
事件が起きたのは、アリアとライラが六歳を迎えようとした年の、ある夏の日のことだ。
社交期も盛りのころ、アリア達は両親に連れられて王都に来ていた。そんな中、王弟を当主に戴くシャウラ公爵家から、十歳になる嫡男の誕生日パーティーの招待状が届いたのだ。
シャウラ家には、ウィドレットとノーディスという幼い兄弟がいる。
実際にアリア達が彼らと会うのは初めてだったが、年回りは近い。
あちらは王族の分家筋の公爵家、こちらは生粋の臣下としての公爵家と、始祖に若干の違いはあれど、家柄の釣り合いも十分だ。
もちろん、政治派閥的な問題もない。そのパーティーの招待状が、両家の婚約の第一歩として用意されたものであることは目に見えていた。
婚約がうまくまとまれば、姉妹のどちらかがシャウラ家に嫁ぎ、あるいは弟がレーヴァティ家に婿入りすることになるだろう。わざわざ長男のウィドレットの誕生日に見合いの席をぶつけたということは、前者を望まれている可能性が高い。
もっとも、そんな大人達の目論見などアリアにはわからず、おめかししてお出かけできることに浮かれていた。幼い双子にとって、それが初めての社交界だった。
だから、ライラが「ウィドレット・シャウラ」という名前を聞いて怪訝そうな顔をしていたことに、アリアはちっとも気づかなかった。
パーティーは特に問題なく始まったかのように見えた。
レーヴァティ家以外にも、自分の家の娘を売り込みたい招待客が集まっていた。王族からも出席者があった。それでも親馬鹿のレーヴァティ公爵夫妻は「一番可愛いのはライラとアリアだよ。きっと気に入ってもらえるさ」と微笑んでいた。
事件が起こったのは、今日の主役であるウィドレットに挨拶する番が回ってきた時だった。
兄のウィドレットは退屈そうな顔で来客に応対していた。長い前髪で左目を覆った弟のノーディスは、愛想よくアリア達を歓迎してくれた。
「ぎゃああああ! ウィドレット!? 嘘でしょ!?」
いっぱしのレディとして気取った挨拶をしようとしたアリアの横で、ライラが淑女らしからぬ奇声を上げて大げさに飛びのいた。
いきなり呼び捨てにされたウィドレットは不愉快そうに眉根を寄せる。大人達は慌てふためき、場を取りなそうとするが、我を失ったライラはそれに構わない。近くにあった料理の皿をひっくり返し、ケーキをウィドレットに投げつけて、手当たり次第暴れている。なんとか取り押さえられたライラはこの世の終わりのように泣き叫んだ。
「わたしはこんな性悪自己中ヤンデレ魔王と婚約なんて、絶対しないからっ! 何されるかわかったもんじゃない!」
もちろん、世界はこんなことでは終わらない。終わったのはレーヴァティ家だけだ。
周囲の囁き声と冷たい眼差しが突き刺さる。幼心にも、何か良くないことが起きたとわかった。
血の気を失い震えながら、アリアは周囲を見渡した。両親になだめられてもぐずり続ける片割れを見た。
「レーヴァティ家のご令嬢は、挨拶もまともにできないのか」
誰かが口にしたわけではない。ただ、そんな声が聞こえた気がした。
アリアは勇気を振り絞り、せめて姉の失態を“なかったこと”にしようと、何事もなかったかのように淑女の礼を取った。
「あ……姉が大変しつれいいたしました。レ、レーヴァティ家の次女、アリア・レーヴァティと申します。シャウラ家の方々とお目にかかれて、こうえいです」
もちろん、それで事態は取り繕えない。蒼白な顔の両親は平謝りでライラとアリアを連れ出し、逃げるようにタウンハウスに帰った。
「ライラ、どうしてあのような振る舞いをしたのです!?」
「だってウィドレットがあのウィドレットだと思わなかったんだもん!」
「その言葉遣いはどうした? 頼むから、私達にもわかるように言ってくれ」
「あのね、ウィドレットが好きなのはアンジェなの! アンジェ以外の子に興味はないからきっといじめられるし、もしかしたら殺されちゃうかもしれないんだよ!? お父様もお母様も、わたしが殺されてもいいわけ!?」
「お前は一体何を言っているんだ!?」
両親と姉の声が響く。アリアは自室でうずくまって震えていた。
怒り狂う両親と、わけのわからないことを喚く姉を前にして、アリアができることなど何もなかった。
「もうっ! 二人がそんな薄情者だと思わなかった! 親だったら、娘の言うことぐらい信じてよ! そんなに王族に媚びへつらって生きたいなら勝手にすれば!?」
この日以降、ライラは客室の一つを占拠して、そこを新しい自分の部屋にした。アリアからの干渉さえ、彼女にとっては疎ましいものになったのだろう。
貴族は体面によって生きている。シャウラ家に泥を塗ったレーヴァティ家は、社交界ではすっかり笑いものだ。
謝罪行脚にはアリアも駆り出された。時にはライラのふりをするよう命じられ、ライラとして頭を下げることすらあった。シャウラ家に謝罪に行ったのも、本当はアリアだ。
正式な社交デビューも済ませていない子供のやったことだし、これまでレーヴァティ家が積み立てていた名声のおかげで負債が残ることはなんとか避けられた。
それでも、たった一度の失敗が貴族の評判を左右するのだということは、幼いアリアの心に刻まれた。
ライラは自身の醜態についてなんの責任も取らないまま、自分の部屋に引きこもった。
最初はライラを部屋から出そうと躍起になっていた両親も次第に諦めてしまい、ライラ・レーヴァティの存在は屋敷内で禁句になった。
使用人の話では、両親の見ていない時にこっそり部屋を出たり、街に遊びに行ったりしているらしい。
ライラの言うことには従わなくていいと両親は使用人達に命じたが、それでも育児放棄は外聞が悪いものだ。
ライラのための食事は毎食きちんと部屋に運ばせたし、レーヴァティ家から籍を消すこともしなかった。一部の使用人が何故かライラに傾倒し、「ライラお嬢様のためなら」と便宜を図っていたのも大きい。ライラの脱走を手伝っていたのも彼らだろう。
結局、その年の社交界にライラは一切出かけなかった。アリアも楽しむどころではなく、どこかに行ってもただ針のむしろに座るような苦痛だけがあった。
方々への禊を済ませたレーヴァティ家は、社交期が終わるとすぐに自領へと帰った。
孤児の少年が新しい使用人としてそれに同行していたことについて、両親は何も言わなかった。恵まれない者に金や居場所を提供するのも、高貴な者のつとめだからだ。もし彼を雇うと決めたのが、家令を懐柔したライラだと気づいていれば、また何か違っていたのかもしれないが。
カントリーハウスに帰ってからも、ライラの引きこもり生活は続いた。
双子の部屋がこれほど早く別々になるなど、誰も思わなかっただろう。自領にあるカントリーハウスの敷地には、本邸の他にもこじんまりした屋敷がもう一つあったが、ライラはその離れの屋敷のひとつをまるまる自分のものにしてしまった。
双子の姉妹の確執が生まれたのは、この時からだ。