破滅した悪役令嬢に残されたのは大っ嫌いなヒロインでした
──フランシア=リアトリス公爵令嬢は絵本の中の悪役令嬢のごとき傲慢な人間である。
国内最大規模の派閥を形成する貴族の中の貴族として国王に次ぐ権力を有するリアトリス公爵を父に持ち、社交界において多大な影響力を握るリアトリス公爵夫人を母に持つフランシアは生まれながらにして『特別』な人間なのだ。
公爵家の従者は元より、自分よりも遥かに年上の貴族の大人たちでさえもフランシアの顔色を伺い、媚びへつらうのが当たり前の環境で育ったのだから、自分が『特別』であると、他者とは従属するのが当然なのだと、そんな風に考えても不思議はない。
かくしてフランシア=リアトリス公爵令嬢は完成した。煌めく金の縦ロールに宝石のごとき碧眼の強烈なまでに美しき令嬢は傲慢に他者を従えて、己の意に反する者は誰であれ糾弾して処分する。そんな『特別』な存在へと。
だから、彼女にとって次期国王たる第一王子が婚約者となるのは当然のことで。
だから、彼女にとって次期王妃として相応の振る舞いだと言わんばかりに傲慢さに拍車がかかるのも当たり前のことで。
だから、大陸でも最強と噂される犯罪組織『ニーズヘッグ』による王立魔法学園への襲撃によって顔の上半分を焼かれ、視力を失ったとしても自身が『特別』であることは揺らがない……はずだった。
「……どう、して……」
フランシア=リアトリス公爵令嬢はベッドの上で毛布をかぶり、うずくまっていた。
王立魔法学園は多くの貴族の令息令嬢が通う由緒正しき学舎だ。もちろんフランシアもそこに通っており、犯罪組織の襲撃に居合わせた。
そこで無様に顔の上半分を焼かれるような失態を犯したからこんなことになったのか? それでも、だとしても、フランシア=リアトリス公爵令嬢が『特別』であることは揺らがないはずなのに。
「どうして、このわたくしがっ、このような目に!!」
犯罪組織の襲撃の後、フランシアを取り囲む環境は激変した。
視力を失った盲目の令嬢に次期王妃としての役目が果たせるのか疑問であると国家上層部より提言があった。今後の動きによっては第一王子の婚約者より外され、次期王妃としての立場を失う可能性もある。
それ自体があり得ないことだった。『特別』な人間には相応の立場が必要だ。フランシア=リアトリス公爵令嬢という『特別』には王妃の座くらいが最低限必要なものだというのに、なぜ視力を失った程度でその立場を失うことになるというのか。
「わたっ、わたくしは!!」
しかも、だ。
婚約者である第一王子は一度だけフランシアの様子を伺いにやってきて、こう吐き捨てたのだ。
『ようやくその腐った性根に相応しい外見になったな』、と。
そこからも過去の悪行(と第一王子は語るが、フランシアにとっては当たり前の行為)を糾弾し、最後には必ずや貴様を婚約者の座から引きずり落としてやると叫んだのだ。
おそらく今頃は例の平民と仲良くやっているのだろう。己の立場を弁えず、恋だの愛だの囀って。
「だって、みんなっ、わたくしのことを『特別』だって扱ってきて、ですからっ!!」
リアトリス公爵家からの扱いもまた顔の上半分を焼かれ、視力を失ってから劇的に変化した。
公爵からは王家との繋がりを強固とするための婚約が貴様のつまらない失態のせいで台無しになったと散々罵倒され、公爵夫人からはそのような醜い姿では令嬢として価値はありませんわねと切り捨てられた。
そうしてフランシアは公爵領の端にある田舎町の別荘に半ば幽閉される形で送られた。最低限の世話役として何人かのメイドがついてはいるが、その質も態度もこれまでとは比較にならないほどに悪いものだった。これまでの贅を尽くした生活とは天と地ほど差のある扱いである。
フランシア=リアトリス公爵令嬢は『特別』である。そうであれと育てられ、周囲は誰もその傲慢な振る舞いを咎めることはなく、しかしたった一つの『傷』をこれ幸いと引き合いに出して内からも外からも攻撃され、貴族社会より追い出された。
そんな扱いを、自身は『特別』なのだと思い込むほどに甘やかされて育てられてきたフランシアの自意識が耐えられるわけがなかった。
だから。
だから。
だから。
「フランシアさっまあ!!」
ドバンッ!! と。
あてがわれた自室に閉じこもり、ベッドの上でうずくまっていたフランシアの耳に勢いよく扉が開かれる音が突き刺さった。
響いた声は明るく、何の悩みも知らなそうな、フランシアが大っ嫌いな少女のものだった。
ルミア。
王立魔法学園に希少な光属性魔法が使えるからと特待生として入学した平民であり、身の程知らずにもフランシアと同じクラスに属する少女である。
髪も目も黒だったか。普段から彼女の顔はほとんど見ないようにしていたので、視力を失った今となっては正確な姿を思い出すこともできない。一つ言えるのはいつも不愉快なほど能天気な笑顔を浮かべていたということくらいか。
こちらがマナーのなってない行動を指摘すれば『勉強になります!』と嫌味のように返し、平民が由緒正しき王立魔法学園に通うなど身の程知らずにも程があると糾弾すれば『自覚はあるけど、誰かさんのお陰でここも悪くないと思えるから今後ともよろしくできたら嬉しいなっ』と図々しくも居座る宣言をかまして、とにかく不愉快な平民なのだ。
そんな平民がこうしてやってきたのはなぜか。フランシアには嫌でも理解できた。
これまで彼女を『特別』なのだと優しく扱ってきた人間はことごとくが掌を返すように罵倒してきた。婚約者である第一王子や血の繋がった両親は元より、ヘラヘラ笑って媚びへつらってきた取り巻きはその全てが顔の上半分を焼かれ、視力を失い、『特別』な立場が危うくなった瞬間に離れていった。
つまりは、そういうこと。
フランシア=リアトリス公爵令嬢の味方だった者たちでさえも簡単に裏切ったのだ。平民だからと散々貶められてきたルミアには相応の恨みがあるはずであり、それを返すためにやってきたのだろう。
だから、そう、だから。
ルミアはこう言ったのだ。
「お見舞いの品って果物でよかったかな? フランシアさまから色々と習ってきたけど、お見舞いの作法についてはさっぱりだったからねっ。何か間違ってたらいつものようによろしくっ!」
「な、ん……?」
件の平民についてこれまでも理解できないことはあったが、今回のそれは今までで一番のものであった。
ーーー☆ーーー
フランシア=リアトリス公爵令嬢の一日はそのほとんどがベッドの上で費やされる。
光の失われた真っ暗闇の中で毛布をかぶり、うずくまって時間が過ぎるのを待つだけ。
一日に一回、メイドが食事の補助を行い、全身を濡れタオルで拭き、着替えさせてくれるが、それ以外は何もせずにただただうずくまっているだけだ。
もちろん昔のフランシアは違った。毎日のように何かしらのお茶会を開き、高級食材をふんだんに使った豪勢な食事を楽しみ、使用人に様々な命令を飛ばしていたものだ。
今はもう見る影もなかった。
誰もがフランシアの顔色を伺い、どんな横暴も許していた昔とは違うのだ。とことん甘やかされて、挫折を知らずに育った彼女にとって他者から敵意をもって攻撃されることに対する耐性は皆無なのだから。
だから、今の彼女は一日の大半をベッドの上で一人過ごしている。昔のような騒々しい日々はどこにもなく、冷たい静寂の中で、だ。
「フランシアさま元気ないぞーう? せっかくの長期休暇、楽しんでいこうよっ」
「…………、」
「ねえねえ無視はあんまりじゃない? いつもの高笑いはどこにいったんだよう!!」
そのはず、だったのだが。
「ふーらーんーしーあーさーまー!!」
キャンキャンと甲高い声が冷たい静寂を打ち破る。
ルミア。王立魔法学園に光属性魔法という希少な魔法が使えるからと特待生として在籍している同学年の平民は長期休暇に入ったのが幸いと言わんばかりにこうして『お見舞い』と称してフランシアの下を訪れていたのだ。
「……うるさいですわよ、平民」
「はぁん? そんなちっせえ声じゃあ全然まったくこれっぽっちも聞こえないよーう???」
感触からうりうりと無遠慮に頬をつついてくるルミア。
最初こそ無気力に流していたのだが、それがこうも毎日続くようでは苛立ちも湧いてくるというもの。
「ッ! 平民ごときが気軽に触れすぎですわよ!!」
「えー? 友達ならこれくらい普通じゃない?」
「誰が貴女のような能天気で薄汚い平民と友好関係を結ぶものですか! 付き合いとは基本的に互いに利益があってこそ──」
「うりうりっ」
「ですから気軽に触れすぎですわよお!!」
「わーフランシアさまが怒ったー」
「こっ、このっ、馬鹿にしていますの!?」
「いやいや、これはじゃれているって言うんだよっ。というか? 怒った顔のフランシアさまもかわいいから意地悪しちゃうのも仕方ない的な?」
「……やはり馬鹿にしているではありませんか」
ゆっくりと、顔に手をやるフランシア。
軽く撫でるだけでザワザワとした不快な感触が返ってくる。
顔の上半分を焼かれた。
目が見えずとも、掌に伝わる感触だけでも今の自分がどれだけ醜い顔をしているかは想像がつく。
「こんな火傷に覆われた顔のどこがかわいいというのですかっ。馬鹿にするんじゃないですわよ!!」
「あっ、ごめんねっ。今のはそういう意味じゃなくてっ」
「でしたらどういう意味なのですか!?」
「どんなお姿をしていてもフランシアさまはかわいいって意味だよっ!!」
…………。
…………。
…………。
「な、にを」
フランシア=リアトリス公爵令嬢の人生において意表をつかれることなどほとんどなかった。全ては彼女の望み通りの環境となるよう甘やかされて育ったのだから無理もない。
だからこそ、咄嗟に何も返せなかった。
その間にも──思えば全てが望み通りだった昔であっても唯一望み通りにいかなかった平民は──能天気に続ける。
「いやあ、何でもできる完璧令嬢だけど、ふとした時にかわいいところも見せちゃうとか反則だよねっ。こんなの、もう、本当ずるい人なんだから!!」
「ふ、ふざけないでください! わたくしに可愛げがないことくらいわたくし自身が一番知っていますわ!!」
『特別』なのだからできないことがあってはならない。その一心で学問だけでなく武術や政治、果ては魔法に至るまであらゆる分野を網羅してみせた。誰が相手でも『特別』な自分が劣るわけがないと、そのためならどんな無茶も成してきた。
かくしてフランシア=リアトリス公爵令嬢は完成した。学生の範囲に留まることなく、あらゆる分野において第一線で活躍する者たちさえも凌駕する実力を得ることで普段の傲慢な物言いに対して何か言われようものなら結果でもって跳ね除けてきたのだ。
だが、そんなフランシアにも才能や研鑽だけではどうしようもない分野もある。かわいらしさなどその最たるものだ。
常に他者を見下すような女のどこにかわいらしさがあるのか。もちろん『特別』な自分がにこやかに笑い、媚びへつらって、大衆が望む『かわいらしさ』を振り撒く義理はない。そんなものは愛嬌以外に武器のない凡人のすることだ。
だけど、もしも。
傲慢に、他者を見下すかわいさのカケラもない態度を少しでも軟化させて、愛される女になっていれば、こうも周囲に悪意をぶつけられることもなかったのだろうか。
ルミアのように、学も能力も身分さえもフランシアよりも遥かに劣っていて、しかし第一王子が正当な婚約者よりも優先したいと思えるほどに愛されるようなこともあったのだろうか。
「フランシアさっまあ!!」
「なっ、むふっ!?」
いきなりだった。
頬に当たる柔らかさから両手で挟み込むように包まれたかと思うと、盲目であってもなお感じられるほどに至近へとルミアが顔を近づけてきたのだ。
吐息がかかるほど近くで。
思いの丈を熱に変えて叩きつけられたのではと錯覚するほどに熱烈な言葉が叩きつけられる。
「フランシアさまは!! かわいいよ!!!!」
どこがどうかわいいのか具体的な説明なんてなかった。
というか詳しく説明する気すらなかっただろう。
自分がそう思うんだからそれが全てだと言わんばかりだった。そこに理屈なんて必要ない。当のフランシアがどう思おうとも関係ないと、目が見えずとも胸を張っている気配がありありと伝わってくる。
どこまでも真っ直ぐに感情のままに生きているその姿が、悩みなんて何もなさそうなお気楽な態度が、無邪気でいられる安穏とした人生が垣間見えるのが、とにかくこういうところが大嫌いだった。
そのはずだったのに……。
「ふ、ふんっ。これだから平民はっ」
悪態をつきながらそっぽを向こうとして、両手で頬を挟まれているがために何もできず、フランシアは渦巻く衝動を悪態に変えて吐き出すしかなかった。
ーーー☆ーーー
フランシア=リアトリス公爵令嬢は『特別』ではなくなった。
たった一度の敗北によって令嬢にとっては命よりも大事な顔を火傷で醜く歪め、次期王妃に求められる麗しき『国の顔』という役目を果たせなくなった。また視力を失ったことで諸々の執務に支障をきたすことになるのは容易に想像がつく。
日頃の大言壮語に見合うだけの美貌や能力があったからこそフランシアはどれだけ傲慢を極めていようとも黙認されてきた。同じ学園に通う同学年の少女に対して平民であるというだけでキツく当たろうともこれまでは誰も文句は言えなかったが、『特別』でなくなれば全てはひっくり返る。
誰もがフランシアのことを軽蔑し、糾弾し、蔑むことに愉悦さえも感じていたことだろう。『ようやくその腐った性根に相応しい外見になったな』という婚約者にして第一王子からの言葉が周囲の人間の総意となるほどにフランシア=リアトリス公爵令嬢は傲慢であったのだ。
誰もがフランシアのことなんて見てなかった。見ていたのは公爵令嬢や次期王妃という看板であり、それらが危うくなれば容易く掌を返すように離れていった。輝かしい付加価値が曇った剥き出しのフランシアは誰にも嫌われる傲慢な女でしかなかったのだから。
だけど、ただ一人だけ。
例のお見舞いから一週間が経ってもフランシアの傲慢な態度に一番被害を受けていたはずのルミアだけが離れるどころか猛烈な勢いで近づいていたのだ。
「フランシアさまあっ!!」
……それはもう物理的に、頬と頬がくっつくほどに。
「暑苦しいですわよ、平民っ」
「あっ、フランシアさま、ごめんねっ。ついテンション上がっちゃって! でもまあこんなにもかわいらしいフランシアさまを目の前にしたら理性が吹っ飛ぶのも当然だろうけど!! フランシアさまがかわいすぎるのが悪いんだよっ」
「かわっ…!? またそんなことを!」
「だって本当のことだもん! フランシアさまはもっと自分がかわいらしく魅力的なんだって自覚するべきだよ!! 勉強とか剣術とか魔法とかとにかくなんだってできるところは尊敬しているけど、何よりかわいらしいのがフランシアさまの魅力なんだし!!」
「い、いい加減にしないと怒りますわよ!?」
「そうやって照れ隠しに強気に出ちゃうところも含めてかわいかったりして!」
「〜〜ッ!! あ、あなたねえ……!」
「にやにや☆」
「やはり馬鹿にしていますわよね、ねっ!?」
「いやいやあ、そーんなことないってー」
思えば、この平民は前からこうだった。
どれだけ威圧的に接しようとも媚びず怯えず、あっけらかんとしていたものだ。
そんな彼女が不愉快だった。これまでフランシアの周囲にいた人間と違い、平民のくせに思い通りにならない彼女に対して苛立ちを募らせてきた。
それは今も変わらない。
変わるわけがないはずだ。
「平民ごときが、生意気ですわ」
ーーー☆ーーー
こんな日々も悪くないと、そんな風に考えてしまったのは弱っていたがための気の迷いだったのか。
一度の敗北で全てを失った。
いいや、正確には顔の上半分を焼かれたのは『きっかけ』であったのかもしれないが、全てはもう終わったことだ。
フランシアは敗北した。
次期王妃の立場も遠からず失われることだろう。
そうとわかっていても、どこか穏やかな心地なのは……認めたくないが、例の平民のお陰なのだろう。
まさかあの平民に救われる日がくるとは思わなかった。こんなことなら視力が失われる前にその姿をしっかりと脳裏に刻んでおけばよかったなんて気の迷いにもほどがあることまで考えていた。
気に食わないからとろくに顔も見ておらず、ぼんやりとしかその姿を思い出せないことが残念だと、悲しいと、こんな気持ちになるとは本当に人生とはわからないものだ。
そんなある日のこと。
第一王子からパーティーへ招待する手紙が送られてきたのだ。
あれだけ敵意を剥き出しにしていた第一王子がわざわざパーティーに招待してきたということは、その狙いも予想はつく。
正直に言ってくだらない行為ではあるが、感情が先行して体裁をかなぐり捨てるのが『らしい』と言えるのが第一王子という男なのだ。
それでも、相手は王族。
パーティーの誘いを断れるわけもなく、メイドに手を引かれる形でフランシアはパーティー会場に出向いていた。
「…………、」
ざわざわと、闇の中に悪意に満ちた囁き声が木霊する。
顔の上半分を焼かれたことを『きっかけ』として権力闘争に敗北した令嬢はさぞや滑稽なのだろう。かつての傲慢な姿を知る者たちはそれはもう勝ち誇った声音で遠回しな悪意を吐き続けていた。
と、そんな時だ。
一際大きく、不快な声が響き渡った。
「やあ、フランシアっ。久しぶりだな!」
一応はまだ婚約関係にあるはずなのだが、第一王子はニタニタとした笑みが滲むような声音でそう声をかけてきたのだ。
「とはいえ、はっはっ! 狙い通りに惨めな姿を晒す女に高貴にして偉大な俺様が告げるのは一言だけなのだがな!!」
「…………、」
「フランシアよ、貴様との婚約を今をもって破棄させてもらう!! はっはっ、もちろん否とは言わないよな? 貴様のような性格にふさわしい醜い顔をした女に未来の王妃が務まるわけがないのだからな!!」
不思議と、何も感じなかった。
予測できていたのもあるだろうが、それ以上に今のフランシアの心を占めているのは『そんなもの』よりもずっと大切なものだからだろう。
「承知いたしました」
「くははっ! 随分としおらしいことだな!! 流石の貴様も身の程を弁えたと見える!!」
第一王子が何か言っていたが、どうでもよかった。
周囲からの嘲笑も、元婚約者からの嘲りも、あと少し我慢すればいいのだ。
フランシアは敗北した。
もう貴族社会に居場所はなく、彼らと関わるのもこれまで。
だったら、別にいい。
それはかつての傲慢な彼女からは考えられない心の動きなのだろうが、だからといって今更事を荒立てるだけの気力もなかった。
今は、ただ。
あの姦しく、しつこいくらいに明るい彼女の声が一刻も早く聞きたかった。
だから。
だから。
だから。
「それでは、皆の者! これよりメインイベントを始めよう!! そう、俺様とルミアの婚約記念パーティーをな!!」
「はい」
その特徴的な声を聞き間違えるわけがなかった。
一刻も早く聞きたかった声で、だけどこの場では聞きたくなかった声でもあったからこそ。
「る、みあ……?」
今ほど視力を失ったことを後悔したことはなかった。
正面。それこそ第一王子の近くに侍るような距離から聞こえたのは間違いなくルミアの声だった。
こんなにも近くにいたのに、声を聞くまでルミアがそばにいたことにも気づけなかったのか。
「フランシアさま」
ルミアはなぜこの場にいる? 決まっている。普通に考えれば、願望さえ捨ててしまえば、答えは簡単に出る。
フランシアが敗北し、特別でなくなった瞬間に周囲の人間は離れていった。あくまでフランシアが特別であったからこそ近づいてきていた連中でさえそうだったのだ。虐げられてきたルミアだけが例外のわけがない。
違いがあるとすれば、周囲の人間と違ってルミアは一度フランシアの信頼を勝ち取って、心の拠り所となった上で裏切り、より強い傷をつけようとしたというだけだ。
ならば、それはおそらくルミア本人が考えているよりもずっとずっと強烈に作用したことだろう。
顔の上半分を焼かれた時も、公爵や公爵夫人から切り捨てられた時も、味方と思っていた取り巻きが離れていった時も、第一王子から『ようやくその腐った性根に相応した外見になったな』と告げられた時も、何とか耐えられた。
「ごめんね?」
それでも。
これだけは。
ーーー☆ーーー
かつては民に寄り添い、病や怪我を癒してきた聖女が持っていたとされる希少な光属性魔法を使えるというだけで国から強制的に王立魔法学園に入学させられたルミアの周りは敵だらけだった。
魔法の才能はルミアのような平民から生まれた突然変異を除けば血筋に依存する。そして貴族とは遥か昔に魔法の才能を持つ血筋の者たちがその力でつくり上げた特権階級だ。となれば魔法関連において名門とされる王立魔法学園には多くの貴族の令息令嬢が通っているのは当然であり、半ば社交界の縮図と化している学園において平民の居場所などあるわけがなかった。
しかも、第一王子が何かにつけて声をかけてくるものだから悪目立ちしてしまい、ほとんどの令嬢から王族に色目を使う売女などと噂される始末。
普通の学園であれば単なる僻みなんてものは陰口に繋がる程度だろうが、高位貴族の令嬢の『僻み』ともなれば多大な実害を伴うものだ。暴漢に襲われた風を装って危害を加えられることも珍しくない。
いいや、その寸前まで事態は進行していたのだ。
希少なだけで掌から治癒効果などありもしない何の変哲もない光を出すくらいしか出来ない──今後に期待というよりは単なる研究材料としての価値しか見出されていない──ルミアではさる貴族の令嬢が差し向けた刺客にろくに抵抗できずに『キズモノ』にされ、最悪殺されていただろう。
あの日、あの時、彼女が現れなければ。
『おほほ!! 薄汚い平民相手とはいえ仮にも貴族たる者がこのような輩を差し向けるとは。貴族とは常に優雅に、気高く振る舞うべきというのに、嘆かわしいことです』
そこらの学生では手も足も出ない魔法の実力を持つ刺客を一蹴して彼女は高笑いを響かせたものだ。
それがフランシア=リアトリス公爵令嬢とルミアの出会いだった。
では、ルミアを助けてくれたフランシアは優しくしてくれたかと言えばそんなことはなかった。フランシアはそれはもうキツくあたってきたものだ。
社交界の縮図と化している学園では振る舞い一つとっても下手なことをすれば嘲笑のマトとなる。礼儀作法など学ぶ機会もなかった平民のルミアは陰でこそこそ蔑まれていたものだが、フランシアは何が出来ていないのか一つ一つ詳細に指摘してマナーがなっていないと笑ったものだ。──何も知らず、誰も教えてくれないから言われっぱなしだったルミアからすれば改善するべき点を面倒がらずに教えてくれるのはありがたいものだったが、もちろんフランシア本人は純粋に嘲笑っていただけだろう。
そうだとしても、フランシア=リアトリス公爵令嬢は他の令嬢と違っていつだって真っ向からぶつかってくれた。陰でこそこそせずに、どこをどう改善するべきか具体的に示してくれたのだ。
陰口を叩いて見下すだけだった有象無象やそのままのルミアでいいのだと甘やかすだけの第一王子と違って、フランシアだけは傲慢に嘲笑いながらも成長する『きっかけ』を与えてくれた。
理不尽に悪態をつくのでもなく、甘やかすのでもなく、どこが悪いのか指摘してそれが克服できれば『ふん。まあ及第点ですわね』とフランシアらしく褒めてくれたものだ。
それが、泣きそうになるくらい嬉しかった。
この学園に来て初めて『侮蔑する対象』でも『愛玩動物』でもなく、一人の人間として扱ってもらっていると感じたのだ。
だから、フランシアから平民が由緒正しき王立魔法学園に通うなど身の程知らずにも程があると言われるのは当然のことだったが、素直に学園から出て行くとは言えなかった。ピカピカ光るしか能のないルミアでは実力不足なのはわかっていたし、そもそも国からの命令であるからどうにもできないことを別にしても学園から出ていく気はなかった。何せ平民であるルミアと公爵令嬢であるフランシアとでは住む世界が違う。それこそ同じ学園に通うでもしないとそばにいることはできないのだから。
そんな風にそばにいたいと望むほどにはフランシアと仲良くなりたかったが、そのためにはせめてフランシアの婚約者である第一王子から言い寄られている状況をどうにかしないといけないともわかっていた。流石にフランシアの婚約者を奪っているような状況でしつこく絡むのは神経を逆撫でしているも同然だろうから。
ということでルミアにしつこく言い寄ってくる男をどうにかしたかったが、相手は王族であるので平民のほうから迷惑とバッサリ切り捨てるわけにもいかず、随分と遠回しな言い方しかできなかった。
だからだろうか。第一王子はルミアの気持ちに気づきもせずに離れるどころか前よりも頻繁に近づいてくるようになり、フランシアとの距離は近くなるどころか遠くなっていった。
そんな時だ。
王立魔法学園に大陸でも最強と恐れられる犯罪組織『ニーズヘッグ』が攻め込んできた。
普段はフランシアから真っ当な指摘を受けていたルミアを連れ出して『大丈夫。いつだって俺様がルミアを守るからな』などとズレたことを言っていた第一王子は我先にと逃げ出していた。
『おほほっ!!』
多くの令息令嬢が犯罪組織の構成員たちによって殺されていく中、逃げ遅れたルミアもまた同じように殺されるはずだった。
あの日、あの時、ルミアを庇うように大陸最強の犯罪組織に立ち向かった彼女がいなければ。
『このわたくしの前でつまらない真似が許されるとでもお思いですか!?』
敵は数百にも及ぶ犯罪組織の構成員。それも一人一人が歴戦の騎士を凌駕する実力者であってもお構いなしだった。
ともすれば傲慢なまでに。
どこまでも気高く、彼女は戦い抜いた。
あるいは一対一であればフランシアが負けるわけがなかっただろうが、数百にも及ぶ数は有限である魔力を削っていった。魔法は魔力がなければ具現化できず、いかにフランシアといえども使い続ければいずれは尽きる。
『ハッハァ!!』
『う、お、ああァァああああッッッ!!!!』
だからこそ、確実に犯罪組織『ニーズヘッグ』を退けるという目的を完遂するために立ち回ったフランシアはボサボサ頭の男と相打ちに近い形で顔の上半分を焼かれることになった。防御に回す魔力を削ってでも数百にも及ぶ犯罪組織の構成員を退けるために。
『……ッ!!』
ルミアには何もできなかった。
数百にも及ぶ犯罪組織『ニーズヘッグ』の構成員の大半を殺し、ボサボサ頭の男を含む数人を逃がす形で決着をつけることに成功したフランシアが倒れるまで、ただただ見ていることしかできなかった。
希少な光属性魔法の使い手? それがどうした。歴史上、その力を治癒という形で発揮したのは聖女ただ一人。その他にも長い歴史の中で何人か光属性魔法の使い手は確認されてきたが、彼らにできたのはルミアと同じく何の変哲もない光を放つこと程度。
ルミアは『特別』にはなれない。
光属性魔法という希少な手札があろうとも、それを聖女のように万全に生かして『特別』な存在へと至ることはできないだろう。
だから、だけど。
それは守られたままでいていい理由になるのか?
『わ、たしは……私だって』
そこで、ルミアは気づいた。
この場に残されたのはルミアを除けば気を失ったフランシアと犯罪組織の構成員や逃げ遅れて凶刃に倒れた令息令嬢の死体だった。その中で、唯一、呻き声をあげる犯罪組織の構成員がいたのだ。
息はあるが、あの怪我ではもう助からないだろう。
普通なら。
『……私は光属性魔法が使えます。かつての聖女のようにあんたの傷を癒して助けることができるのよ』
それがどれだけ残酷なことかわかっていて、それでもルミアはただ守られているだけの存在で終わりたくなかった。
犯罪組織の構成員のいくらかは逃げている。公爵令嬢や王族が通う学園を襲うような連中だ、放っておけば報復のためにフランシアを襲う可能性は高い。
『だから! あんたを助けてあげる代わりに教えなさい!! あんたたちの本拠地とか構成員とかどうしてこの学園を襲ったのか、とにかく知っていること全部!!』
実際にはルミアの光属性魔法に傷を癒す効果はない。死にかけの人間の助かりたいという気持ちを利用した最悪の『騙し』でしかないのだ。
それでも、どれほど醜い畜生に堕ちようとも、ルミアは何か一つでもフランシアの力になりたかった。助けられるだけの足手まといで終わりたくなかったのだ。
だからできるだけ情報を得ることで『次』の戦いに役立ててもらおうと思った。それくらいなら光属性魔法というルミアしか持ち得ない手札を有効に活用することができる。
だから。
だから。
だから。
『……は……? な、によ……それは。ちょっと待って、それは、だって、だったら!!』
唯一の『証人』をルミアは助けることはできなかった。
光属性魔法という手札があろうとも、ルミアは聖女のような『特別』ではなかったから。
ーーー☆ーーー
フランシアが第一王子から婚約破棄を突きつけられてから事態はとんとん拍子に進んでいった。そもそも第一王子にとっては全てが確定事項であり、ルミアに確認することなく事前に準備を進めておいて円滑に進めるのも当然のことだったのだろう。
婚約記念パーティーも終わり、ルミアは王城に連れてこられていた。玉座に腰をかける国王へと第一王子はフランシアとの婚約破棄及びルミアを新たな婚約者とすることを報告した。
当然のことだと言いたげに、堂々と。
「……それは、冗談か?」
「冗談? まさかっ。そもそもフランシアのような傲慢で醜い性根の女が未来の王者たる俺様の婚約者であったことが間違いだったんだ! それに比べてルミアの何と心根の美しいことかっ。彼女こそ俺様と結ばれて、未来の王妃となるにふさわしいと思うが?」
第一王子の熱弁に国王は呆れたように額に手をやるだけだった。もちろん王族としての勤めを忘れて第一王子の言葉に共感するわけもなく、どこで育て方を間違えたのかと己の不甲斐なさをため息に変えて吐き出す。
最悪の場合は王位継承権を王女に移譲させるべきかといった考えが頭をよぎった、その瞬間の出来事だった。
「陛下。こいつは『ニーズヘッグ』と繋がっているみたいだよ」
サラリと。
話の流れを無視して、件の平民が第一王子を指差してとんでもないことを言い出したのだ。
「う、む?」
第一王子がリアトリス公爵令嬢との婚約を一方的に破棄してでも手に入れたかったらしい平民の少女は思わず唸るしかなかった国王へと軽い口調とは裏腹に憎悪さえも滲ませながら、
「ほら、『ニーズヘッグ』が王立魔法学園を襲った事件あったじゃん? あれ、第一王子が裏で糸を引いていたんだよ」
「じ、自分が何を言っているのか、理解しているのか?」
「もちろん。これで第一王子が無罪だったら打ち首間違いなしだよね。そこまで覚悟しての訴えなんだよ? 相応の確信あってのことだって思わない?」
「む」
「陛下、ここで私が証拠を提示したって用意周到に捏造したんだって言われちゃどうしようもないよね。だから調べてよ。私の命懸けの訴えが本当か嘘か、国家権力を存分に使って調べてよ! それで何も出なかったら打ち首でもなんでも受け入れるけど、だけど! もしも第一王子のクソ野郎があの事件の黒幕だっていうならきちんと裁いてよね!!」
事態は急速に移ろいでいっていた。
第一王子が王家と国内でも有数の公爵家との繋がりを深めるための政略結婚を勝手に破棄するような愚行に走ったかと思えば、新たに婚約者に選ばれた少女が第一王子と大陸最強の犯罪組織『ニーズヘッグ』とが繋がっているなどと言い出したのだ。
そして。
そして。
そして。
ーーー☆ーーー
ルミアは『特別』ではない。
ゆえにできることには限りがあった。
『だから! あんたを助けてあげる代わりに教えなさい!! あんたたちの本拠地とか構成員とかどうしてこの学園を襲ったのか、とにかく知っていること全部!!』と叫んだ時は凶悪な犯罪組織からフランシアを守りたい一心だった。
まさかそこで犯罪組織を裏で操っていたのが第一王子であるなどという話が出てくるとは考えてもいなかったのだ。
『……は……? な、によ……それは。ちょっと待って、それは、だって、だったら!!』
第一王子は今回の襲撃に際して一目散に逃げ出していた。自身を守る近衛騎士と犯罪組織とがぶつかって削り合うのを防ぐためでもあっただろうが、実は味方同士だからと第一王子だけが不自然に狙われないとか手加減して戦っているなどの違和感を見せないためにはそもそも激突しないのが一番だったからだ。
『……すべて、は……フランシアとかいう公爵令嬢を、貶めるためのものだ……。自分よりも、優秀で、偉そうな……婚約者が、気に食わないとか……言ってたな』
『ふ、ざけ……ッ!!』
『そうそう。お前、ルミアだろ? ……第一王子の奴、お前だけは、殺すなって言ってたよ。……だからこそ、人質にでもとって……主導権を握ってやろうって話だったんだが……失敗したなあ。まさか、あの公爵令嬢が、ここまでやるだなんて、予想外にもほどがあるっての』
『待ってよ、そんな、だったら!!』
『絶望しろよ』
死にかけの人間に助けてやるから知っていること全部話せという風にルミアは『騙した』つもりだった。だが、相手は大陸でも最強とされている犯罪組織『ニーズヘッグ』の構成員だ。第一王子が執着しているがために人質としての価値ありと判断した少女のことを調べていないわけがなかった。
実はルミアの光属性魔法に治癒能力なんてないことは、とうの昔にバレていたのだ。
『テメェは……ごふっ。高位貴族の令息令嬢が通う学園の……襲撃を鼻歌まじりで指示するような……野郎に執着されてんだ。安息なんて訪れると思うな。血みどろの道に巻き込まれて、一生苦しむことだな』
その男は最期まで助けてとは言わなかった。
ありもしない希望に縋ることはなかった。
代わりにルミアへと絶望を残して。
『…………、』
──あの言葉には嘘が含まれていないからこそルミアには効くと、そう判断したからこそ、最後の時間を費やしてでも怨嗟を残していったのだろう。
もちろん明確な証拠はない。『証人』はもう死んでいる。
単なる平民であるルミアでは犯罪組織と第一王子が繋がっている証拠を掴むなんてことはできないし、ルミアの声が届く範囲で犯罪組織と第一王子が繋がっているのだと訴えても第一王子の権力に握り潰されて終わりだ。
ルミアは『特別』ではない。
だから諦めるのか? 意図してフランシアを傷つけたかもしれない第一王子の横暴を見て見ぬフリをするというのか?
『守られるだけの存在で終わってたまるか。フランシアさまは命をかけて私を守ってくれた。だったら、私だって命をかけてフランシアさまを守ってやる!!』
確かにルミアは『特別』ではないかもしれない。
だとしても、彼女がどれだけ足掻いたところで平民の力で王族に敵うわけがないとしても諦められるほど安い決意ではないのだ。
『特別』でなくとも、命をかければ人間なんだってできる。
自分の力ではどうしようもないのならば、どうにかできる人間を巻き込めばいい。
幸いなことにルミアは第一王子に執着されている。
その執着を利用して第一王子の『上』と話ができる機会をつくることができれば、後は命でもなんでもかけて『上』を動かせばいい。
『フランシアさま』
全てはフランシアのために。
『ごめんね?』
そのためならどんな悪役も霞む悪女にだってなってやる。
ーーー☆ーーー
「は、はは」
フランシアを傷つけてでも得た『上』との対話の時間をルミアは万全に生かした。
「ははは」
もちろん国王が王家の恥を握り潰すような人間だったり、そもそも平民の言うことなど信じなかったり、最悪国王もグルだったなどという展開になれば全ては無駄に終わるのだろうが、『特別』ではないルミアにできるのはこれが限界だ。
後は国王が真っ当な感性の持ち主であり、犯罪組織と第一王子の繋がりを暴き、裁いてくれることに賭けるしかない。
「ははははははははははははははははははははははは!! まさかルミアが、はっはっ、本当残念だ」
そのはず、だったのだが。
「王者の妻となる者であればこれまでと同じように従順に侍っているべきだろうに。俺様の寵愛を素直に受けておけばいいものを、くだらない真似をしやがって。もう少し裏工作に時間を費やしたかったが、こうなれば仕方ないよな」
ボッッッ!!!! と。
突如吹き荒れた猛火が玉座に腰掛ける国王を吹き飛ばしたのだ。
「……は?」
瞬きをした後には世界が変わっていた。
第一王子の隣に一人の男が現れていた。
彼はフランシアの顔の上半分を焼き潰したあのボサボサ頭の男だった。その彼が放った猛火が国王を呑み込み、吹き飛ばした。
大陸でも最強とされている犯罪組織の構成員、それもフランシアと相打ちになって退いたはずの男がいきなり現れたのだ。
……玉座の間の外でも轟音が連続していた。ボサボサ頭の男がこの場に現れたように王城内に転移した構成員たちが暴れているのだろうか。
国王に手を出したのだ。長期戦になれば不利になるのは第一王子側とすれば、逆らう者はこの瞬間に皆殺しとするつもりなのかもしれない。
「この国における王の力は大したことはない。それこそ騎士団長や宰相といったお歴々の顔色を伺わないと何もできないのが今の王の現状だ。舐めやがって! 王族の決定が全てに優先されるのが正しい支配構造だというのにだ!!」
だから、と。
犯罪組織と繋がった王者の血筋は言う。
「王者の決定に誰もが逆らえないようにするために犯罪組織と繋がっていた。学園への襲撃もフランシアを蹴落とす『きっかけ』とする以外にも将来の『敵』を刈り取るために必要なことであり、ルミアには傷一つつけないよう言い含めてのことだった。全ては逆らう者を皆殺しとすることで、従順な連中で国を埋め尽くして正しい王者の時代を迎えるためのものだったのだ。……これで納得して従順で可愛い俺様の婚約者に戻るのならば、これからも愛してやっていいぞ」
「……ッ!!」
わざとらしい猫撫で声に不気味なほどににこやかな笑みで第一王子はそう言った。
これは最後通告なのだろう。
ここで首を横に振れば最後、ルミアは殺されることだろう。
頼りの国王はすでにやられている。
これだけ派手にやっても誰も駆けつけてこないことからも王城内の護衛は第一王子側の戦力にやられている可能性が高い。
助けは、やってこない。
ルミアが生き残るには従順な伴侶として第一王子の後ろに侍るしかない。
フランシアを傷つけた男に、だ。
「ばっっっかじゃないの!? 平民だからっていつでもどこでも文句も言わずに従うとでも思うんじゃないわよ!!」
その言葉の先に何が待っているかわかっていて、それでも我慢できなかった。
案の定、第一王子は容赦をしなかった。
猫撫で声は鳴りを潜めて、にこやかな笑みは残酷な独裁者のそれに塗り潰された。
冷たく、言い放つ。
「そうか。ならば代わりを探すとしよう。おい、さっさとこいつ殺せ」
それが引き金となってボサボサ頭の男が猛火を放った。
光るしか能のないルミアが抗えるわけもなく、そのまま焼け死ぬのは目に見えていた。
ドッッッゴォン!!!! と、壁を突き破り、彼女が現れなければ、だ。
「え……?」
それは豪快に伸びた縦ロールを存分に靡かせた女だった。
それは魔法の才能が優れた血筋が集まった貴族の中でも頂点に君臨するはずの国王を薙ぎ払った猛火を雷撃を纏った片腕で払った令嬢だった。
それはルミアが例え嫌われようとも助けたかったほどに大好きな人だった。
「ふらん、しあ……さま?」
「言いたいことは山ほどありますけれど、今はそれどころじゃありませんわね。一分で片付けますので、少々待ってなさい」
「ハッハァ!! 言うじゃねえか、公爵令嬢ちゃんよお!! つい最近、テメェの顔面を焼き潰したのは誰か、忘れたわけじゃねえよなあ!?」
ニタニタと。
嘲笑いながらボサボサ頭の男はそう言った。数百もの構成員を引き連れて学園を襲い、フランシアの顔の上半分を焼き潰した下手人は第一王子を庇うように前に出る。
「テメェの顔を焼き、視力を潰し、第一王子の婚約者から引きずり下ろされる『きっかけ』をつくったのは俺だぜ? まああくまで『きっかけ』であって、根回しだなんだは第一王子がやったことではあるがなあ」
「…………、」
「ぺらぺらとよく喋ることだ。まあもう隠すことでもないから構わんがな。戦争は無駄に命を失うだけだとくだらない戯言を撒き散らす宰相や騎士団長といった甘ちゃん連中を『一掃』し、絶対的な王の支配下でもってありとあらゆる国家を征服するにはもう少し根回しや戦力の蓄えに時間を費やす予定だった。だからこそ無駄に時間を使ってでも権謀術数を張り巡らせてフランシアを蹴落としたんだが、こうなっては普通に殺せばいいことだしな」
「…………、」
ボサボサ頭の男の嘲るような言葉にも、第一王子の強欲が滲む言葉にも、フランシア=リアトリス公爵令嬢は何も返さない。
ただ静かに、雷撃を纏った拳を握りしめる。
王族主催のパーティー会場では魔法を使うことは敵意を示すことに他ならないからと余計な軋轢を防ぐために控えるしかなかったが、ルミア以外の全てが『敵』であれば遠慮することはない。
「あの日の続きといこうぜ、公爵令嬢ちゃん。まあ目ん玉潰れたテメェと俺とじゃもう勝負にならねえだろうがなあ!!」
言下に炎が溢れた。
先のルミアを襲ったそれとは比較にならない大規模な炎は見上げるほどに高い天井に届いていた。
それはまるで巨人が振るう炎の剣。
数十メートルにまで伸びた灼熱の刃が勢いよく振り下ろされて──金色に輝く拳が叩き込まれて、跡形もなく吹き飛ばした。
簡単に、呆気なく。
そう見えるほどの力の差でもって。
「な、あ……ッ!?」
「前と今とじゃ違う点が一つありますわ」
ざらり、と。
焼け潰れた顔を撫でながら、フランシアは一歩前に。
「前は貴方とやり合う前に数百もの敵とやり合って魔力を消耗していました。今はそこまで酷く消耗はしておらず、魔力に余裕があります。つまり前と違って全力で叩き潰せるということですわね」
「いや、だけど、目は!? なんで視力を失っているのに正確に炎の剣を迎撃できた!?」
「……?」
いっそのことキョトンとでもしたように首を傾げて、フランシアはそんなことかと言わんばかりにこう答えた。
「空気の流れを掌握してその変化を読み取るなり、微細な魔力を放ってその反響を捉えるなり、周辺状況を把握する方法はいくらでもありますわ。……魔法を暴力の手段としか考えない者ではそもそも思いつきもしないでしょうけれど」
だからこそ、フランシアは目が見えていた頃よりも鋭敏に周囲の状況を把握できるし、何ならこの場でルミアや第一王子が何を喋っていたのかも空気の振動を読み取って把握している。
ルミアが何をしようとしていたのか、そんなことはもうわかっている。
だったら、頑張れる。
人生に絶望することなく前を向くことができる!!
「こんな馬鹿なことがあってたまるか!! 俺は最強無敵の『ニーズヘッグ』のボ──」
「もういいですわ」
「ぐぶばあ!?」
バッヂィッッッ!!!! と雷撃の拳が飛んだ。
顔の上半分を焼き潰した下手人が相手だろうとそんなことはどうでもいいと言わんばかりに。
今のフランシアには復讐なんかよりもずっと大事なことが後ろに控えている。ゆえにこのような些事に構っている暇はなく、何事か喋っていたボサボサ頭の男は呆気なく崩れ落ちたのだ。
その結果に先程まで余裕の表情を浮かべていた第一王子は目に見えて狼狽えた。犯罪組織を取り込み、戦力としていた──つまりは頼りの綱は切れた時点で第一王子にはフランシアに対抗できるだけの力は残されていなかったのだ。
「待て。待てよ! 俺様は第一王子だぞ!! 天下に覇を唱える絶対的な支配者となるんだ! そんな俺様に、王族に手を出す気か!? それがどういうことか、いくらフランシアといえどもわからないはずがないだろう!?」
「…………、」
「あ、そうかっ。婚約を破棄されたことに怒っているんだな! 仕方がない、貴様と俺様との婚約を元に戻してやってもいいぞ!! 王者の妻となれるなど望外の喜びだろう!?」
「……王者の妻、ですか」
「そうだ!! ははっ、そうだ、貴様のような傲慢な女を王者たる俺様の妻にしてやると言っているんだ!! 平民ならともかく、貴様ならその価値も理解できるだろう!? だからいい加減その物騒な雷を引っ込めるがいい!!」
そっと。
俯いたフランシアを見て第一王子は口の端を笑みの形に歪めた。もちろんフランシアのような傲慢な女を伴侶とするつもりはない。全てはこの場を切り抜けるための方便であり、ゆえにどんな女でも食いつく餌を撒いたに過ぎない。
適当な出まかせでいい。時間さえあれば第一王子の看板で戦力をかき集めることができる。生まれの差、偉大なる血筋の『力』でもって婚約者の癖に第一王子よりも優秀などと持ち上げられていた傲慢な女を殺すこともできる。
だから、そう、だから。
権力、財力、暴力、全てが高水準のフランシア=リアトリス公爵令嬢といえども王者の妻という魅力には敵わない。自分との婚約を破棄されたことはありとあらゆる悲劇を凌駕する絶望だったに違いないという自信があったからこそいかに傲慢極まるフランシアといえども最後には屈服すると確信していた。
「おほほ」
フランシアが、顔を上げる。
そこに広がっていたのは権力に媚びるそれでも、恋に浮かれてのそれでも、諦めに満ちたそれでもなかった。
金銀財宝の山も誰も食べたことのない絶品料理も世界を救うような名誉さえも霞む王者の妻という『餌』を前にして、それでもフランシア=リアトリス公爵令嬢はあの憎たらしい、この世全てを見下すような傲慢極まる笑みを広げていたのだ。
「おほほ! おーっほっほっほ!!」
笑って、笑って、笑って。
傲慢の塊のような女は容易くこう切って捨てた。
「誰が貴方のようなくだらない男の妻になどなるものですか!!」
「なっ!?」
本気で唖然としている第一王子はまさか断られるとは思ってもいなかったのだろう。この期に及んで彼はまだ自分が『特別』であり、何よりも優先されるべき人間なのだと信じていたのだ。
ある意味において、昔のフランシアのように。
「俺様は第一王子だぞ!? いずれこの国を、いいやこの大陸全土を征服する王の中の王なんだ!! その妻と選ばれることがどれだけ価値のあることか、仮にも公爵令嬢ならわかるはずだぞ!? そう、そうだ、所詮は平民でしかないルミアはその価値がわからず投げ捨てやがったが、貴様なら理解していないとおかしいだろう!?」
「おほほ! ですから、理解した上でそんなもの簡単に切り捨てることができる程度の価値しかないと言っているのですわ!!」
「……ッッッ!?」
──この時、フランシアの脳裏に浮かんでいたのは空気の振動を軸とした魔法で盗み聞いていた第一王子のある言葉。
『そうか。ならば代わりを探すとしよう。おい、さっさとこいつ殺せ』、とその言葉が彼女の頭の中を何度も暴れ回る。
王族が相手だろうとも関係なく傲慢に。
それでいて昔とは違い、静かに、強く、フランシア=リアトリス公爵令嬢は拳を握りしめる。
そう、世界の中心は自分だと、己のことしか考えていなかったあのフランシアが自分ではなく誰かのために拳を握っているのだ。それをたかが王者の妻などという小さな交渉材料で止められるわけがない。
「待ってくれ……。俺様はいずれ大陸の全てを支配する王者となるべき男だぞ!! それが、こんなっ、ふざけるなよおおおおおおお!!!!」
何事か喚く第一王子を無視して。
フランシアの拳が飛ぶ。
ゴッッッドン!!!! と。
これまでで一番の轟音と共に顔面に拳を叩き込まれた第一王子は壁を突き破って吹き飛んでいった。
ーーー☆ーーー
気がつけば事態は収束していた。
『ニーズヘッグ』の構成員であるボサボサ頭の男や学園襲撃の黒幕である第一王子はフランシアによって殴り倒された。ボサボサ頭の男と同じく転移してきた『ニーズヘッグ』の残党が残っているが、どうやらフランシアがこの場に駆けつける道中である程度撃破していたようで残りは王城内の騎士でも対応可能なようだ。
だから、ルミアと向き合うに際して邪魔なもの全てを排除したフランシアはこう問いかけた。
「ルミア、何か言いたいことはありますか?」
問いに。
ルミアは小さく首を横に振る。
どのような理由があれどもフランシアを傷つけたことに変わりはない。どんな言葉を尽くそうとも言い訳できない事実がある以上、フランシアのためだなんて口が裂けても言えない。
そして。
そして。
そして。
ぽん、と頭を撫でるように軽く殴られた。
ボサボサ頭の男や第一王子のように気絶するほどに殴り倒されることも覚悟していたルミアへとまるでこれでチャラにするとでも言わんばかりに。
「え、あれ?」
「いつものように能天気にしていればいいものを、変なところで真面目な人ですね。わたくしは真実が知りたいのですわ。ですからルミアが何をしようとしていたのか、余すことなく教えてくださいな」
「いや、それは……」
「言っておきますけれど、あんなことをしてくれたルミアに拒否権はありませんからね?」
「うっぐ」
そこまで言われれば全てを曝け出すしかなかった。
学園襲撃の際に第一王子が黒幕であると知り得たこと、王族の一角の悪事を暴くにはそれこそ国王でも動かすしかないと考えたこと、平民であるルミアが直接国王に直訴するために第一王子との婚約を受け入れたこと、そのためにフランシアを裏切ったことを。
続ければ続けるだけ申し訳なさそうに俯いて小さくなっていくルミアへと決して優しくはないフランシアはズバズバと言葉を叩きつけていく。
「まったく、随分と杜撰な計画ですわね。わたくしが違和感を感じて第一王子やルミアの会話を魔法を使って『聞いていた』から大事に至る前に駆けつけることができましたけれど、それがなければ今頃どれだけの死体が転がっていたことやら」
「うっ」
「そもそも、そもそもですよ? 初めからわたくしに相談してくれていればもっと確実な方法で第一王子を追い詰めることだってできたとは考えなかったのですか?」
「いや、それは……」
「まさかとは思いますけれど、わたくしに頼ってもどうにもできなかったとでも考え──」
「それはないよっ!!」
バッと。
それだけは看過できないと勢いよく顔を上げ、ルミアは興奮したように声音を荒げながら、
「もちろんフランシアさまの力を借りたほうがもっとずっと確実にケリをつけられていたってのはわかっているよ! フランシアさまなら学園が襲撃された時のように最後には何とかしてくれるって信じていたよ!! フランシアさまが普段の物言いが霞むくらい凄い人なんだってことはとっくに思い知っていたよ!! でも、だけど……あんなにも傷ついて、辛そうにしているフランシアさまに戦えなんて言えなかった。フランシアさまにはっ、笑っていてほしかった! だから!! 少しでもフランシアさまの力になりたいと、助けたいと、そう思ったんだよ!! ……まあ、結果的には助けられることになったんだから、本当情けない話なんだけどさ」
「ルミア……」
「ごめんね、フランシアさま」
それはいつかどこかで聞いた言葉で、だけどこんなにも受け取り方が違うのかとフランシアは口元を優しく緩めていた。
「まったく」
気がつけば、フランシアの両腕はルミアを抱き締めていた。力強く、胸の内から湧き上がる感情のままに。
「わたくしはルミアに助けられましたよ。貴女がいてくれたから、わたくしは世界に絶望せずにいられたのですから」
「フランシア、さま」
「ありがとうございます、ルミア」
「うん……うんっ」
腕を、回す。
応えるようにルミアはフランシアを抱きしめ返していた。
ーーー☆ーーー
『きっかけ』こそ第一王子の悪意からであったかもしれないが、普段の傲慢な振る舞いがフランシア=リアトリス公爵令嬢の『敵』を生み出していたことに変わりはなかった。
ゆえに猛火に呑まれて瀕死ながらも生きていた国王を犯罪組織『ニーズヘッグ』と繋がっていた第一王子から守ったという実績があろうとも前のような輝くような日々が戻ってくることはなかった。
フランシアという優秀な魔法使いを騎士団を取り込みたい騎士団長や命を助けられた形になった国王が味方してくれているのでそれなりの立場を得ることはできたが、それでもかつての日々とは程遠いものであった。
というか、一連の騒動の実績を利用して成り上がることもできたはずのフランシアが彼女らしくもなく表舞台から姿を消したのだ。
あの傲慢の象徴のようなフランシアが反撃の機会を投げ捨てて、社交界で彼女を貶めることに忙しい者たちを放っているというのはかつての傲慢さを知る者こそ疑問に思うことだろう。だからこそ何かあると、水面下で逆襲の準備を整えているのではと、ありもしない脅威に怯える羽目になった。
そのような者たちの疑心暗鬼に満ちた勘ぐりとは裏腹に、フランシアは公爵領の片隅でひっそりと生きる決意を固めていた。
「フランシアさまっ。今日もかわいいねっ」
「るっルミアはどうしていつも脈略もなくそんなことを言うのですか!?」
「フランシアさまがかわいすぎて我慢できないからだよ!!」
「ばっ、もう!!」
「あ、そうそう。私、いつかきっと光属性魔法を極めてフランシアさまの顔の火傷も視力も治してみせるよ」
「急に何ですの?」
「大好きな人のために何かしたいってのは普通じゃない?」
「ですからルミアはどうしてそうも突然っ、まったく!!」
フランシア=リアトリスは決して少なくない傷を負ったかもしれない。誰もが羨む贅を尽くした黄金のような日々は失ったかもしれない。
かつての栄華に満ちた日々は帰ってこないだろうし、取り戻そうとも思っていない。
なぜなら彼女はかつての日々よりもずっと輝くものを手に入れて満たされたのだから、それ以外の何かを欲することがなくなったのだ。
大好きな少女がそばにいてくれるならば、それがフランシアにとっての幸せな結末であった。
「大好きだよ、フランシアさまっ」
「そっ、そんなのわたくしのほうが大好きなのですからね!!」