百年蘇生を待つ
喜劇を装った悲劇か、それとも文字通りの悲劇なのか。
それはあなたの決めること。
いっぺん読んでみる?
悲しいお話なんです。本当に、悲しい。もし読むのなら、覚悟して下さい。
1
「あら、青嶋君、久しぶり。元気だった?こっちは、二人とも元気よ。」
日曜日の昼過ぎ、自宅の受話器をとった不二子は、相手が旧友の青嶋拓哉だと思い込み、気軽に挨拶を交わしたつもりだった。
「ち、違うんです。」
「えっ、違う?どこか悪くしちゃったの?お互い、もう若くないんだから、気を付けなくちゃね。それで、どこが悪いの。」
「心臓が止まっちゃったんです。」
「青嶋君、冗談は無しにして。心臓が止まった人がどうやって、電話していると言うの。もし、本当だったらテレビに出られるわよ。ワイドショーのスターになれるわよ。それで有名になって、『不死身の弁護士青嶋拓哉が語る死後の世界の愛と平和』とか何とか、訳の分からないタイトルの番組を持たせて貰って、言いたい放題言っちゃうのよ。お茶の間の人気者になれるわ。極端な事を言えちゃう人の方が人気が出る時代なの。何なら、私が交渉してあげる。どの局が良いかしら。」
「不二子さんも、こんな時に冗談はやめて下さい。」
「不二子さんだなんて、そんな呼び方って、青嶋君らしくない。あらっ、ひょっとしたら、青嶋君じゃないの?」
「はい、ひょっとしなくてもそうです。」
「何だ、てっきり、青嶋君がドッキリをしているのだと思ったわ。そうじゃないとすると、これはいたずら電話なのかしら。でも、声は、青嶋君そっくり。彼の声って特徴のある高い声なのよね。銀行員時代に、澄ました声でお客様のお宅に電話して、相手が留守だったので、戻り次第、支店に電話が欲しいって伝言を頼んだら、しばらくして、電話が掛かって来て、電話に出た女子行員に、掛けて来たお客様が、『先ほど、青嶋様と言う女性の方からお電話をいただいたようなのですが。』って、最初に電話を受けた人が青嶋君の事を完全に女性だと勘違いして伝言していたという笑い話が残っているくらいだもの。」
「その話は、父から何度も聞かされています。でも、不二子さん、誰かに説明しているみたいな話し方で、不自然ですよ。いやっ、そんなことを言っている場合じゃなかった、すみません。」
「その通りだから、謝る必要はないのだけれど、例の話を何度も聞いているってことは、お父様は青嶋君と銀行の同僚だった方なのかしら。と言う事は、私の知っている人?」
「いいえ、父は、青嶋拓哉本人です。僕は、息子の吾郎です。」
「えっ、じゃあ、心臓が止まったと言うのは、青嶋君なのね。」
このあたりから、吾郎は泣き声になって、事の次第を語り始めた。かなり興奮していたし、全く落ち着きのない話し方で、話があちこちに飛んでしまったりしたが、彼が父の異変に気が付いたときは、拓哉は、息をしていなかったと言う事は不二子も理解できた。
「それにしても、突然だったね。予兆らしいものも無かったんだね。」
不二子のパートナーの大介は、不二子から話を聞いて、驚くと同時に自分も気を付けなければいけないな、と思った。まだ、五十路前だからと、つい、無理をしていることが多いのは確かだ。
大介と不二子そして拓哉の三人は、大学入学時から仲が良かった。語学のクラスが同じだったのだ。拓哉は、大介や不二子と仲がいいことと、ゼミも同じ近代経済学の有瀬瑠範教授のゼミだったことから、ゴエモンとあだ名が付けられていたことがある。三人は、卒業後も、当然のように同じ銀行に入行した。本当に長い付き合いである。
「しかし、ショックだね、青嶋が死んじゃうなんて。信じられないよ。彼がいなくなったら、僕らもお仕舞なのかなって、不安になって来るね、トリオなのだから。学生時代、僕らは、ときどき、三位一体なんて呼ばれていたものね。それはともかく、お通夜や告別式の日取りは聞いた?」
いつもは明るい大介も、この時は暗く沈んだ顔をしていた。
「お通夜も告別式も、どちらもやらないわよ。」
不二子の声の調子がそれまでと明らかに変わった。
「どういうこと?身内だけで済ませちゃうってこと?青嶋のところは、お父さんは、だいぶ前に亡くなり、お母さんも二年前だったかな、お亡くなりになっている。奥さんとは離婚しているし、近しい身内・親戚と言ったら、吾郎君とお姉さん夫婦くらいかな?」
「身内で済ませるなんてこともないの。私も、あなたと同じように、吾郎君に聞いたのよ。お通夜や告別式の日取り。やはり、何を置いても青嶋君の葬儀なら、駆け付けなければと思ったので。何なら、受付とか、そういうのもお手伝いさせてって申し出たの。」
「そうだよね、出来る事はいろいろとお手伝いしなくちゃ。」
「そうしたら、吾郎君ったら、必要ないんです、って、言うの。」
「必要ない?何、宗教か、何かの関係?」
「私も慌てていたけれど、吾郎君も相当慌てていたのよね。そりゃ、そうよね、父親の心臓が突然止まったなんて事が起きたんだもの。だから、青嶋君が死んじゃったのだと思いこんじゃったのよね、私。」
「えっ、それじゃあ、大丈夫だったの?」
「そう、命は取り留めたんだって。吾郎君の心臓マッサージが良かったって、看護士さんがおっしゃっていたそうよ。最初の十分間、これが大きな分かれ道になるみたいなのだけれど、運よく、彼が気が付いたのが、早かったのね。そうして、吾郎君は、どこかで心臓マッサージの訓練をしたことがあったんだって。そうじゃないと、いざっという時に、適切なマッサージなんて出来ないものね。どこをどうするのかとか、力加減とか、吾郎君は、詳しかったそうよ。それに、救急車も直ぐに来てくれたし、救急病院も近くにあったのも超ラッキーだったんだって。」
「そうか、良かった、良かった。ホント、びっくりしたよ。」
「そうなのよ。吾郎君ったら、途中から涙声になるし、まだ慌てたところが残っていたから、話が要領を得なかったのね。結局、涙は青嶋君の命が助かったことの嬉し涙だったって訳。」
「でも、命に別状はなかったと言っても、『何だ、寝ていたのか。』というほど、軽く笑い話で済ますことが出来る話ではなさそうだね。」
「何、それ。青嶋君だから?こんな時に、そんな冗談言わないで。」
「悪い、悪い。いや、死んだわけじゃないと分かったら、嬉しくなっちゃって。」
「それは、そうだけど。大介も気を付けてよ。『次元は現場で寝ているんですよ、ムロイさん。』なんて言われないように元気でいてね。」
「不二子も、いい勝負じゃないか。何のパロディかすぐに分かる人は少ないかも、今の。」
「そうかもね。現場を離れて時間が経ったから、鈍っちゃったかも。最近、バイクにも乗っていないし。」
「いずれにしても、青嶋の容態が落ち着いたら、見舞いに行かなくちゃね。」
2
「でも、息子さんの声は、青嶋君の声とそっくりだったわ。」
拓哉の見舞いに行く途中の車中で、不二子が拓哉の特徴のある声を話題にした。
「そんなに似ていたの?青嶋の奥さん、いや、奥さんだったあの人は、結構、太くて低い声だったと言う記憶があるけれど。息子さんは、お母さんには似なかったんだね、男の子は母親に似るなんて言われたりするけど。」
「あの人、場面によって声を使い分けていたのよ。だから、その時、その時で全然違う声だったの。よくいるでしょう、そう言う人。顔まで、場面、場面で使い分けるの。いつも鏡をのぞき込んで、表情を作る練習をしているのよ。『お嬢様、振り向いた途端に水商売』って、私、よくあの人の事を陰で言ってたの、いけないことだけれど。それにしても、息子さんの吾郎君の声が青嶋君そっくりと言うのは、将来、何か意味を持ってくるのかしら。」
「そんな事は分からないよ、僕でも。人生、何が起きるか分からないのだから。悲劇になるのか喜劇になるのか、どちらでもない曖昧なものになるか、これからの流れ次第じゃないのかな。まだ、決まっていないと思うんだ、そういうことは。考え、考えして、少し進んでは軌道修正する。その繰り返しだろう。」
「でも、親しいのでしょ。」
「確かにね。親しい事は親しい。」
「まあ、いいわ。それより、もう名前も忘れちゃったけれど、何年になるかしら、あの人が出て行ってしまってから。」
「あれは、確か、入行七年目で青嶋が支店の代理さんになってすぐの事件だっただろう?だから、もう二〇年位になるんだと思うよ。」
「二〇年か。時の経つのは早いものね。青嶋君も良く頑張ったよね。まだ幼いお子さんを残して奥さんに出て行かれても、文句ひとつ言わずに、息子さんのこと、育てたんだもの。近くにお姉さん夫婦がいらしたのも幸いしたけれど。」
「そもそもの原因を作ったのは自分だと言う気持ちがあったからだろうね。本当に何一つ言わないで頑張っていたもの。」
「それにしても、あのクレーマー、何て言ったかしら、あいつは許せないわね。とんでもないことをしていながら、いけしゃあしゃあと被害者面して。」
「銀行も銀行だよね。目撃した女子行員も多くて、事情はよく分かっているんだから、情状酌量で、「ほとぼり」が冷めるまで、しばらく地方の支店勤務位で収めるとか、いくらでも出来たと思うのにね。刑事事件としては、起訴されないで済んだんだからね。警察や検察の方が、よっぽど事情を詳しく調べてくれたよね。」
「結局、事なかれ主義なのよね、大企業は。青嶋君は同期の中で出世頭だったけれど、代わりはいくらでもいるんだよっていう感じで冷たかったわよね、上の人達。」
拓哉は、融資課の課長代理(大昔は、支店長代理と称していたが、支店長を代理する権限があるかのような誤解を与えると言うことで、改称された。)として勤務していた支店で、名うてのクレーマーが、些細な事で女子行員に激しくクレームしている現場に遭遇した。窓口担当の女子行員に用事があって融資課の部屋から出て来たところ、彼女がそのクレーマーに責め立てられているところだったのである。
拓哉は、何とか、その場を収めようとしたが、クレーマーは、どんどんエスカレートして行き、女子行員から矛先を拓哉に移し、次から次へと口から出まかせの悪口雑言を並べ立てたのだった。それでも、拓哉は、我慢を重ねていた。しかし、クレーマーは、ついに、拓哉が気持ちを抑えきれないような事をぶつけて来た。
「お前が新しく代理になった青嶋か。同期の出世頭だそうだな。それでいい気になっているんだろう。何だ、さっきからの態度は。俺は、ここの頭取とも親しいんだぞ。お前の首を飛ばすくらいは簡単だ。それに、俺は、お前の女房の事を知っているぞ。あの女は、学生時代から男好きで有名だったぞ。誰とでも寝る女だ。俺は、あの女と寝たことがあると言っている男を何人も知っている。そんな淫乱女と結婚したのに、それも知らないで、父親がお偉いさんだからって得意になっているんだろ。バカな奴だ。アオシマじゃなくて、アホシ・・・」
クレーマーの罵詈雑言は途中で打ち切られた。妻に対する誹謗中傷を聞いて、拓哉が思わず手を出してしまったのだ。わざと、大袈裟に倒れたクレーマーの騒ぐことと言ったら普通ではなかった。これが、最初、クレーマーの餌食になっていた女子行員から不二子が後日聞いた事件の顛末である。
事件後、拓哉は、銀行を退職した。形の上では、依願退職だったが、実質上の解雇である。わずかながらの退職金が出るようにしたのが、銀行の配慮の全てである。拓哉が銀行を退職すると間もなく、妻の由美子は、家を出て行った。拓哉が所要で外出していて、帰宅すると、食卓の上に、署名捺印済の離婚届けが置いてあった。それが全てであった。
「結局、あの人は、青嶋拓哉という人間と結婚したのではなく、東大出身の出世コースに乗っている銀行員と結婚したってことだよね。」
大介は、まだ怒りが収まらないという様子である。由美子の父は、財閥系のある会社の社長であった。二人とも、クリスチャンではないのに、式は、新婦の希望により、カトリックの教会で行われ、披露宴も盛大だった。挙式前に、拓哉が、「新婦と神父の洒落と言う事で。」と恥ずかしそうに言っていたことや、出席者の顔ぶれも、新郎側と新婦側で、随分と開きがあり、そのアンバランスさもあって、いやな予感がした大介だったが、まさか、数年も経たないうちに、あんな結末を迎えるとは予想も出来なかった。
「あの後、あの人、どこで何をしているのか全然知らないけれど、私、この後、どこかで、突然、現れるような予感がするわ。」
「不二子の感は結構当たるからな。」
「あの後、誰かに成りすまして、あのクレーマーに近づいて、ずっと、復讐する機会を狙っていたとか、そういうのは無しにしてほしいわ。ここで、あの人が事件でも起こしたりしたら、青嶋君は勿論のこと、吾郎君も可哀想過ぎるもの。」
「テレビドラマじゃないんだから、それは無いんじゃないかな、さすがに。」
「あら、分からないわよ。あのクレーマーは、あの人が銀行頭取の奥さんになる夢をぶち壊したのだもの、私たちが怒っている以上に、あの人の怒りは大きいわよ、絶対。」
「それもそうだな。彼女が、あの後、お父さんの力のお蔭で、別の道を歩んで、自分の人生に満足していることを願うよ、僕としては。」
「私だって、それはそうよ。何も、事件が起きるのを期待している訳じゃないもの。いくら、私たちが大介、ゴエモン、それに不二子の三人だからって。」
3
大介、不二子と久しぶりに再会した拓哉は、本当に嬉しそうだった。吾郎の話によると、意識が戻ってからも、しばらくは、脳の働きが戻らず、医者からは、「しばらくは、『五歳児』の脳だから覚悟するように。勝手に歩き回って危険だから、行動にも十分、注意するように。かなり長期間のリハビリ療養が必要となる。」と言われていたのだが、拓哉の回復は予想以上のペースで進み、医者も驚いていたと言う事だった。
「しばらくは、ヒトの名前を忘れてしまっていて、テレビでよく見る芸能人の名前が出て来なかったり、逆に、著名な俳優の名前を聞いても顔を思い浮かべることが出来ないことがしばしばあったんだ。最近になって、ようやく、その状態からも脱却出来たみたいだ。面白いよ。道を歩いている時に、突然、アイドルの名前を思い出したりするんだ。あるいは、忘れていた歌の歌詞が、はっきりと頭に浮かんだり、とかね。パソコンでは、こうはいかないよね。生身の人間ならでは、だと思うね。」
記憶に関する拓哉の説明である。大介と不二子は、そうなのかと頷き、直ぐに一番聞きたかった臨死体験はどうだったかと聞いて見た。
「臨死体験の話ね。僕は、生前は、と言っても、本当に死んでしまった訳ではないけれど、かなり、傲慢な人間だった時期があったせいか、地獄に向かったんだ。そうしたらね、びっくりしたけれど、閻魔様が、『今は、地獄もコロナウィルスのせいで、入場制限している。今日は、もう定員一杯だから、入場させることは出来ない。これ以上、患者が増えると、地獄の業務に差支えが出るからな。そんな訳だから、一度、地上に戻って、チャンスを待て。』と言うんだよ。『地獄に堕ちるのがチャンスなんですか?』思わず、僕は、そう聞いたんだ。そうしたらね、閻魔様の答えはこうだった。『そうだ。地獄に堕ちるのはチャンスだ。天国なんかに行って見ろ。生きていた時と同じことを繰り返すんだぞ。それも、終わりなどない。永遠に繰り返すのだ。それで幸せと思うか、お前は。』そう言うんだよ。驚いたね。それでね、中に入れなくても、少し地獄を覗かせて下さいって頼んだんだ。それは認めてやると言われて、覗いてみたら、あの人やこの人、一杯いたよ。地獄に堕ちればいいなと思っていた人達。でもね、それが、みんな美味しそうにコーヒーを飲んでいるんだ。あれっ、地獄ってこんないいところなのかなと思ったところで、『休憩終わり!』と言う声が掛かり、全員、一斉に肥溜めの中に顔を突っ込んだ。勿論、これは、昔からある冗談ね、知っていると思うけれど。こんなことがあるはずがないよね。実際は、何も記憶がないんだ。ある時、気が付いたら、病院のベッドに横たわっていた。それが、心肺停止で意識を失ってから一週間くらい経った頃。実際には、二日目くらいには意識は戻っていたらしいけれど、全く記憶が残っていない。そして、ああ、病院にいるんだなと分かっても、それから十日くらいは、記憶が曖昧で、はっきりと覚えてはいないんだ。だから、臨死体験なんかの話をすることは全くできない、残念ながら。」
大介と不二子は、臨死体験の話は聞けなかったが、拓哉の口から、得意のジョークが飛び出してきたので、これで大丈夫だと安心した。
大介が、自分も支店長の職を無事にこなしたが、もうすぐ50歳になるので、そろそろ系列企業のどこかに行くことになるのではないかと話した時だった。
「もう、そんな時期なのか、早いね。そう言えばね、銀行に入って間もなく、こんな事があったよ。」
拓哉が、昔を懐かしむような顔をして話し始めた。大介と不二子は、一瞬、例のクレーマー絡みの話かと思ったが、あれは、入行直後ではないから違う話かなと思っていると、拓哉が話の先を続けた。
「僕は、最初は、支店の出納課に配属されて、しばらく札勘定の練習をしていて、その後、当座預金の窓口、テラーと呼んでいたよね、そのテラーになった。ある日、普通預金の窓口の女性が有給を取っていて、もう一人が急に発熱して休んだので、僕が代わりに普通預金のテラーに入った。そうしたら、あるお客さんが、普通預金の通帳を見せながら、言うんだよ。『最近、ATMというものがあるから、カードを作ってそれを利用すれば便利だとさんざん言われて、カードを作って、そのATMを使ってお金を下ろしていたんだ。確かに便利だと思ったよ。でも、とんでもない事だった。このATMとか言う機械を使ってやった取引が全然、通帳に載っていないんだよ。どうなっているの、お宅の銀行は。』って。僕は、驚いて、詳しく聞いたんだよ。そうしたら、その人、通帳は、大事に自宅の箪笥にしまってあって、久しぶりに箪笥から取り出して見たら、何も記帳されていなかったって言うんだ。僕は笑いを押さえるのに必死だった。」
拓哉の話を聞いて、大介と不二子も笑い出したが、何故、拓哉がそんなエピソードを披露をしたのか、それは二人にもまだ分からなかった。
「まだまだあるんだ。」
拓哉が、そう言って、話を続けた。
「ある日、夫婦でソコソコの預金をしてくれている奥さん、もう老年と言っていいくらいのお年だったけれど、その人が新聞を持ってやって来た。そして、言うんだよ。『何で、保険金が支払われないのか。おかしいだろう。』って。何の話かと思って、新聞を見せてもらうと、ある事故が、損害保険会社の免責事由に該当しないと言う記事だった。免責事由にあたらないのだから、保険金は支払われる、当初、支払われないのではないかと言う心配があったが大丈夫だと言う記事だった。僕は、『保険金は支払われますよ。』と言ったんだ。そうしたら、その人は、『そんなはずはない。ここに免責事由に該当しないと書いてある。該当しないと言うんだから、保険金は支払われない。バカにするな。』って言って、怒るんだよね。困っちゃったよ。それで、しょうがないから、『とにかく保険金は支払われますから、ご安心下さい。』と言ったら、『自分はその保険に入っていないから、保険金は支払われることはない。嘘を言うな。』と、こう言うんだよ。もう、完全に参ったよ。『だいたい、当店は銀行であって、その損害保険会社とは全く関係ないのですが。』と言って、何とか、話を終わらそうとしたけれど、『この銀行は、この保険会社と関係がないんでしょう!それが怪しからない。』と言って、もっと怒るんだ。『怪しからない』というのは、『怪しからん』ということだった、後で分かったのだけれど。」
「そんなことがあったの。知らなかった。それでどうなったの。」
不二子が、可哀想にと言う顔をして聞いた。
「それがさ、僕が、もうダメだと思った時に、支店長がやって来て、『いつもお世話になっています。お茶でもどうですか。』って言ったら、その奥さん、すっかり、上機嫌になっちゃって、支店長について、応接室の方に行ってくれて、それで、助かったんだ。」
「支店長もナイスタイミングだね。それ、偶然じゃないね、おそらく。」
大介は、そう言って、少しニヤニヤしている。
「そうなんだ。その奥さん、支店じゃ、昔から、『否定形の福ちゃん』と言うニックネームが付いている人だった。福岡と言う姓だから、福ちゃん、なんだって。支店長は、そろそろ自分が出て行った方がいいかなと思ったんだそうだ。」
「何?その『否定形の』と言う形容詞は?」
不二子が意味不明と首を傾げている。
「後で、次長が教えてくれたのだけれど、その福ちゃん、否定形の言葉がおかしくて、『服を着らない」とか、『夜も寝らない』とか、言ったりするし、否定形の言葉が出て来ると、意味が分からなくなっちゃうんだって。今の件だと、『免責事由』と言うのは、結局は、『責任が認められない』と言うことだから、否定の意味が入っている。それと、『該当しない』という、文字通り、否定が重なると、もう訳が分からなくなっちゃって、それで、最後の『該当しない』の『しない』だけが、頭に残って、だから、『支払いしない』と書いてあると思い込んだらしい。」
「すごいね、そこまで行くと。さすがに、僕もそこまでの人は会ったことはないな。銀行にいるといろいろな人が来るけれどね。窓口に財布をポンと投げて行ってしまう人とか。本当はいけないことだけれど、行員が中身の計算をして、それで伝票を書いていたなんてこともあったよ。それから、言葉遣いが他の人と全然違う人もいたね。例えば、10時5分前というところを、必ず、10時前5分と言うんだ。間違っていないよ、確かに。でも、『前5分ですよ。』と言われると、何かしっくりこないんだよね。他にも、大根おろしとは言わずおろし大根、蕪ではなくすわり蕪、じゃがいもとは絶対に言わずに馬鈴薯と言うし、木になる柿を海の蛎と同じように『か』を高く言って、蛎の事は、必ず『かきぼう』と言う。それから、唐辛子を『こしょう』と呼ぶ、勿論、本物のこしょうもこしょうと呼んでいる。紛らわしくないかと言うと、自分の故郷では、みんなそう呼ぶ、おかしなことを言うなと言う、とかね。もっと、もっと、色々あるけれど省略。長く支店にいる準行員さんに聞いたら、その人は、自分は他の人とは違うと言う事を示したくて、わざわざ他の人と異なった言い方をしている、ずっと、そうやって来たので、もう無意識のうちにそういう言葉を使っている、と言う事だった。そこまでして自分を誇示したいのかと驚いたけれど、そうしないと耐えられない、そんな経験をしたのだろうね、その人。」
「本当、色々な人が来るわよね。私が、普通預金の記帳係をしている時に、一日に何度も何度も窓口にやって来る男性がいたわ。毎回、千円を入金しては、それを下ろすの。何故そうするのかは予想出来ると思うけれど、どう?」
不二子も、そんな思い出話をして嬉しそうである。
「そんなに可愛い子がいたの、窓口に?」
拓哉が、正解だろうという顔をして不二子に聞いた。
「正解。本当に可愛いと言う表現がピッタリの人だったの。」
「やはり、そうか。まあ、いじらしいじゃないか、そのお客さんも。」
「でも、完全な中年おじさんよ。」
「そうなると話が違うな。ちょっと、危ない、そういう話になっちゃうね。」
「まあね、一般的には。でも、その子、見掛けと違って、物凄く強い子で、例のスケバン刑事みたいな子だから、誰もあんまり心配していなかったし、実際、事件も起きなかったみたい。勿論、どこかでそのおじさんの方がひっくり返っていたなんてことがあったのかも知れないけれど。そのおじさん、恥ずかしいのと、自分も捕まっちゃう可能性のある話だから、警察には届けなかっただけとかね。」
「そんなにすごい子だったんだ。でも、三人だけでも、これだけのエピソードがあるのだから、同期全員の分を集めれば、簡単に本を一冊出せるね。誰かが音頭を取ればだけれど。」
大介は、そう言って、ナイスアイデアだろうという顔をしたが、不二子に即座に否定された。
「そういう、他人の失敗談を集めた本を出して、それを読んで笑う、というのは、古い文化よ。今の時代は許されないわ。同じ笑うのでも、ほほえましい話を読んで微笑む、そういうのが望まれる時が来ているの。それを、みんな、しっかり認識する必要があるわ、もしも、これから先も人類が生き延びて行こうとするなら。」
「不二子、立派だよ。まるで別人みたいだよ。あっ、ゴメン、ゴメン。それはともかく、僕はさっきのお客さん、通帳の人と新聞の人だけれど、そういうお客さんに出会った時に、顔には出さないけれど、心の中では、その人達を馬鹿にしていた。それは間違いないんだ。そして、それを当り前の事だと思っていた。思い上がっていたんだよね。そのことを、例のクレーマー事件の後になって、ようやく、悟った。遅かった。あのとき、僕に思い上がりがあったから、あのクレーマーもどんどんエスカレートしたんだと思う。あの件で、僕は、銀行を辞めたし、由美子も出て行った。全てを失ったと思ったけれど、自分が一番悪いのだからと思って、泣き言を言わないで頑張って吾郎を育てた。そして、その吾郎に、今回、命を救ってもらった。本当に大切なものが、ちゃんと、自分のすぐそばに残っていた。そう感じている。それを、話したかった。決して、笑いの種にしたくて持ち出した訳ではないんだ。」
4
「青嶋君、だいぶ元に戻ったようで安心したわ。」
「そうだね、これでしばらくはまた三人でいろいろと出来そうだね。ああ、有瀬瑠範先生も入れないと怒られるね。」
「それはそうだと思うけれど、わざわざ『有瀬瑠範先生』と言うのは不自然よ。」
「確かにそうだけれど、まあ、これは口癖と言う事で、大目に見て。」
「青嶋拓哉君をゴエモンと呼んでいたのだから、有瀬先生のことは、端的にルパン先生と呼べばいいのよ、そうでしょう。」
「そうだったね。もっと早く気が付けば良かった。よし、早速、そうしよう。」
「焦らないの。」
そんな会話をしながら、帰宅した大介と不二子だったが、それからしばらくして、拓哉から郵パックが届いた。中を開けてみると、一冊の書籍が入っていた。
手紙も入っていて、それによると、拓哉は、銀行を辞めてしばらくして、趣味で、小説らしきものを書き始めたと言う。ある程度溜まったところで、丁度、今回のアクシデントが起きた。生き返って別人になったようなものだから、一旦整理する意味で、これまでの作品を一冊の本にする、最後の作品は未完成で書き掛けだけれど、これまでの活動全体を振り返るという意味があるので、この作品も未完成作品として載せるということだった。
大介と不二子が読んでみると、最初の作品は、拓哉の自伝かと思えるものだった。しかし、読み進めると、不思議な少女が出て来て、主人公やその親友と三人でお喋りをして楽しんでいるシーンが何箇所かある。結局、それは夢だったこと、その少女は、主人公の実兄(二人はそれぞれ別の家庭に養子に入っている。)の義妹だったこと、その少女とは、中学受験塾で同じ教室だった筈だが、主人公の記憶にないこと、しかも、夢の中では、その少女が高校生の姿で出て来ていたことなどが、次第に明らかにされ、単なる自伝ではなく、ファンタジーのようだなと思いながら、さらに、大介と不二子が読み進むと、実は、主人公は、双子だったのだが、母親が交通事故でダメージを受け、主人公を産んだところで力尽きてしまい、妹は肉体を持って生まれて来ることが出来なかった、しかし、その精神は主人公の脳内にずっと存在しており、二人は、これまで一緒に生きて来たし、これからも一緒に生き続ける、この作品はその双子の妹の手によるものであることが最後に明らかにされていた。
「変わった作品ね。青嶋君って、こんな事を考えたりしていたのね。」
「現実にはあり得ない設定だから、分かりづらい点も多いけれど、そのあたりは、読者の方でいろいろと想像して欲しいというのが青嶋の意図だろうね。」
「まさか、これ、彼のカミングアウトじゃないわよね。」
「そっちの線は考えづらいね。それよりは、自分の体には別人が潜んでいるので、その時によって印象が全然違ってしまうのだと言う彼が昔、酒の席で良く言っていた冗談の線から行き着いたと考える方が自然な感じだね。」
「そうね、良く言ってたものね、そういうこと。」
次とそのまた次の作品は、連作のような感じで、始めから終わりまで、夫婦の会話のようになっていて、夫のほうが、ジョークを連発し、妻が呆れる形となっているが、それが、実は夫の独り言だったことが、両作品とも最後に明らかにされる。
「これって、青嶋君が、学生時代に盛んに言っていたジョークを集めたものね。」
「そうだね、『これが、青嶋だ!』と言う作品だね。最初の、双子の話は、彼が、こんな作品を書くのかとびっくりしたけれど、こっちの二つは、いかにも青嶋って感じで、納得だね。」
「でも、これって、小説と言えるのかしら。落語の台本みたい。」
「だから、手紙にも、『小説らしきもの』と書いたんじゃないかな、青嶋は。」
その次の二作品は、所謂、ショートショートのSFで、大学の同じゼミで仲良しだった男性二名と女性一名のうち、男性一名は、実は、人類存続を掛けた調査のため、タイムマシンとパラレルワールドを利用して、未来からやって来た青年だった、と言う話と、事故で意識を喪失した主人公が、脳に直接働きかけて、通常の生活を送っていると認識させる装置を装着され、親友の勘違いにより、主人公が大好きだった女性ではなく、その女性の親友の女性と仮想世界で結ばれるという想定で、データが入力されるが、コンピュータの判断で、想定外の事が起きて、結局、大団円を迎えると言う話である。
「この二つは、読んでいて、思わず、ニッコリしてしまう落ちになっているね。」
「青嶋君が成長した証拠なんじゃないかしら。こういう筋を考えつくのって。学生時代や銀行員時代だったら、そうはいかなかったような気がするわ。青嶋君としたら、今回、自費出版本をお配りした方々に是非読んで貰いたい作品じゃないかしら。」
「そうだね。特に、二作目は、青嶋自身が、ひょっとしたら無意識状態が続くことになっていたのかも知れなかった訳だから、是非、こんな装置が出来たら良いのにと思って書いた感じがするね。今のコンピュータならば、理論的には可能の様にも思うけれど、実際の所、どうなんだろうね。実現したら、素晴らしいよね。この小説の場合の様に、それで、意識を取り戻すこともあるんじゃないだろうか。」
「とにかく、私は、この二つとも大いに気に入ったわ。文章がどうこうではなくて、内容がとても面白かったわ。でも、青嶋君の手紙から判断すると、後の作品も今回の入院より前に書いたもののはずだから、ひょっとしたら、心肺停止状態からの蘇生と言う事になることを予見して書いたのかも知れないわね。」
次いで、司法修習生を主人公とした作品。拓哉の実経験に基づく部分も多いと思われる。彼は、銀行を退職した後、司法試験に挑戦して、合格している。この作品は、主人公の独白の後、男女の親友が感想を述べるというスタイルで、それが繰り返される。内容よりも、このスタイルに拘った作品の様に思えるが、ここでも、最後にニッコリさせる一行がある。単に、ニッコリだけでなく、読者に想像させる、その読者の印象で、どちらであってもおかしくないように書いてあるという仕掛けとなっている。
「形に拘ったのは分かるけれど、話の筋に無理が多い気がするのは、私だけかしら。」
「それよりも、僕は、主人公が、小学校の時に、憧れの先輩の純白の下着が見えてしまって、クラクラっと来たと言うのが、青嶋の実体験なのではないかという方に興味があるな。」
「大介らしいわね。まあ。常識的に実体験ね。そのお姉さん、どうなったのかしら。どんな人だったのか、その頃の写真を見てみたいわ。」
「そうだね。所謂、青嶋の初恋かな?小説の中では、その先輩は、主人公と親友のどちらかと結婚したように書いてあって、どっちなのかは、読者の自由な想像に任されているけれど、不二子はどっちだと思った?」
「私は、親友の方だと思ったわ。」
「意見が一致したね。」
大介と不二子は、次の作品に進んだ。これは、会話文だけで出来ているものだった。登場人物は、セリフのある四人と出番は名前だけの二人。会話の中で、人間関係が全て明らかになるように書いてある。内容は、馬鹿々々しいものだが、何となく、微笑んでしまうようなところも多い作品だ。
「これも、実験小説ね。内容より、形式に重点。」
「しかし、こういうのって、昔から、色々な作家が既にやっているんじゃないかな。僕は、ある女性の推理作家がこの形式を使って書いているのは見たことがあるよ。」
「そうすると、ただ、やってみましたってだけかもね。」
さらに二人は読み進む。オール会話文の作品の次は、冒頭、寝坊して慌てた女子高生が下着を付けずに家を飛び出すところから始まる。そして、お定まりの天使が出て来る。その天使に少し工夫が見られる。そして、心が和む結末。おそらく、拓哉の目指すところに沿った作品であろう。
「下着を付けていないって、青嶋君ったら、こんな事考えたりしていたのかしら。ちょっと、驚き。」
「偶々、閃いたんじゃないかな。でも、いやらしさは全然ないよね。主人公の名前が和泉で恋多き女子高生だからって、男子の同級生が式部ちゃんって綽名を付けたと言うのは、少し理屈臭いけれど。」
「それを差し引いても、面白いし、心が和むわ。私は、このラストは大好きよ。」
次は、意識過剰の余り、意中の女性との会話が上手く出来ない青年の話。コンピュータを駆使した装置で、「仮想彼女」との会話訓練に励む。ところが、いざ実戦となると、あわててしまい、彼女から平手打ちをくらい、失意に沈むこととなる。しかし、その後、相思相愛だと分かり、夢のようだと主人公は何度も呟くこととなるが、実際に、それは夢だったと言う落ちになっている。
「これも、ニッコリ出来るわね。」
「この頃、多いらしいね、こういう男の子。」
「そうね、女の子の方は、結構、開けっ広げに性の話をするようになったのにね。私、この間、電車に乗っていて、前日のデートの件を話している女子高生の会話が聞こえて来たんだけれど、恥ずかしくて、こっちの顔が赤くなっちゃったわ。時代ね。」
その次に、子供むけの作品が二つ続く。最初の作品は、苗字がトイレを連想させるため、名前のことでからかわれて、学校が嫌いになっていった子が、笑いを取り戻して友達がたくさんできたというお話。次は、変わった作品で、ロックコンサートに関する記述から、二人のギタリストの男性とピアニストの女性の関係を当てさせると言う作品。
「苗字が御手洗だと言う方の作品は、心温まるけれど、少しお説教くさいところが気になるわね。」
「三人の関係を当てさせる作品の方は、いかにも法律家の作った当てっこの文章だね。」
「青嶋君も、こういう子供向けの作品にチャレンジしていたのね。」
「だいぶ前に、あいつが、いつかピーターパンや宝島のようなものを書いてみたいと言っていたのを思い出したよ。」
「まあ、どっちも、読んで面白い事は面白いと言う事で、次に行きましょう。」
次の作品では、学生時代から憧れていて、入社した会社でも同じ部署になったのに、振られるのが怖くてデートに誘う事すら出来ないでいた主人公は、その彼女が結婚したか、同棲していると知って、愕然とする。同期の友人から、コンピュータ駆使の仮想社会で、現実の社会とは違って、煩わしいことなしに、満足の行く結婚生活を体感することが出来るというシステムを紹介される。夜の生活も素晴らしいと言う。憧れの彼女は、もう手の届かない所に行ってしまったと思い、友人とその仮想結婚装置の体験使用をすることになる。映像も名前も、あこがれの彼女と同じにしてもらい、素晴らしい一夜を過ごす。翌日、その友人と相手を交換して、また、新たな感激を味わって、自分の部屋に戻った主人公を待っていたのは、角をはやした彼女だった。これでは、現実の世界の場合と変わらないではないかと逃げる主人公は、反対側から逃げて来た友人と激突して、気を失う。しかし、それは、余りに仕事が多忙だったため、社員食堂で眠り込んだ主人公の夢だった。憧れの彼女に起こされると、彼女は、主人公が仕事を頑張ったからと、人気のコンサートのチケットを示して、彼女の方からデートに誘ってくれるというストーリー。
「これ、本当に面白いわ。主人公が、話が違うと言って逃げ回るシーンには思わず笑っちゃった。」
「確かに、笑えるね。青嶋は、コンピュータを駆使して、空中に映像を作出すると言うのが好きだね。ただ、あれだよね。最初の方に出て来る『尾田野部長』というのは、『オダノブナガ』の洒落なんだろうけれど、少し、流れから浮いている感じだね、ここだけ。」
さらに、作品は続く。次は、夫婦別姓と老後をテーマにした話だった。結婚を約束したものの、両家とも相手が姓を変えるべきだと主張して譲らなかったため、二人は結婚を断念する。その後、40年経ち、独身を貫いた主人公の男性は、婚約中に約束したとおり、定年退職した日に湖畔の遊歩道を散歩する。その歩く先には、かつて結婚を約束した彼女が立っており、二人は、手をつないでゆっくりと歩きだすと言う話である。
「確かに、姓をどうするかで揉めると言うのはありそうな設定よね。なかなか、選択的夫婦別姓が認められない日本だから。」
「そうだね。お互いが相手を思いやり、連絡を取ったりしていなかったけれど、おそらく、相手の女性も結婚せず、この日を迎えたと読者に思わせるところが、いいよね。これは、ストーリーが気に入ったよ。」
「それと、今、問題になっている選択的夫婦別姓の問題について、この作品を通して、自分の意見を明確にしたいと言うのが青嶋君の意図する所ね。」
次なる作品は、大学進学のため、上京し、三姉妹の従姉妹のいる伯父の家に同居することになった主人公が性に関して疎い事を案じた高校の同級生と三人の従姉妹が、いたずら含みで、次から次へとお色気作戦を繰り出し、主人公を鍛えると言う話。その中で、主人公は、将来、人生を一緒に歩いて行くべき相手を見つけるという結末。映像化すると面白そうな話である。
「最後の最後で種明かしね。」
「結末を知って、読み直してみると、ちゃんと、ヒントが書いてあるんだね。」
「でも、最初に書いてあるお笑いのネタって、あの二つの落語の台本みたいな話に出て来るものそのものよね。同じ作者だから、盗作と言う問題は生じないのね。」
その次は、一つ前と同じように青春と言う言葉がタイトルに入っている作品。タイムトラベルがらみで、過去と現在を二往復してしまった主人公が、未来を変えてしまったのかと言うのが一つのポイントになっている。大学入学時には、同じスタートラインに立っていた女性が、その姿も見えない程遠い存在になったことから、頑張り切れなかった自分の人生を後悔するが、自分を支えてくれた妻を想い、青い鳥は身近にいたと元気を取り戻す弁護士のお話。コメディ仕立てになっている。
そして、完成作品の最後は、やはり弁護士の物語。弁護士の役割を熱く語る主人公と、始めは弁護士を馬鹿にしていたのに、その熱弁に気持ちを動かされて弁護士を目指すこととなる女子大生。弁護士になれることが決まった日に、彼女の耳に入ってきたのは、主人公が裁判所で暴漢に襲われて意識不明の状態に陥ったというショッキングな話だったが・・・、と言うストーリー。
「二つとも、普通の人が良く知らない司法試験の事とか、司法修習の話が出て来て、面白いね。」
「そうね。でも、最初の作品で、主人公が転びそうになって、女性の胸を掴んでしまったのに、その女性が主人公を気に入って、『今度はもっと優しく掴んで下さいね。』と言ってしまったと言うのは、出来すぎよね。青嶋君の実体験に基づいていたりして。」
「でも、青嶋は、そういう女性と結婚していないのは間違いないからね。そんな事でもあったら面白いなと思っただけじゃないかな。」
「私は、前の方の作品にモデルがいるのかどうかが気になるわ。」
「それもそうだけれど、青嶋は、『避暑地の涼しげな白樺の林の中で、白いワンピースに麦わら帽子の姿でにっこり微笑む天使の笑顔』と言う表現が大好きだね。ほら、最初の自伝的作品の謎の美少女の所で使っているだろう。僕は、こっちのモデルの方が誰なのか気になるね。」
5
「最後に載せたのは、未完成の小説と言う訳ではないんだ。」
拓哉が、自費出版本の最後に載せた作品についての説明を始めた。大介と不二子が、拓哉の本を読みながら感想を述べ合った日から、およそ三か月が経っていた。
「どういうことなの、他に意図があるということ?」
不二子が、拓哉に更なる説明を促した。
「ここに書いてあるような夢を見るのは、フィクションじゃない、本当の事なんだ。つまり、あるときから、頻繁に、同じ様な夢を見るようになった。夢の中で、僕は、林の中の道を歩いている。すると、向かっていく先にいつも同じ女性が立っているんだ。少し微笑んでいるような感じがする。でも、薄暗くて、はっきりと見えている訳ではない。その女性に気が付いて、僕は近づこうと歩いて行くのだけれど、一向に彼女に近付けないんだ。僕が、いくら歩いても、彼女は同じ距離の所に立って、僕の方を見て微笑んでいるんだ。夢の中で、僕は、近づけないならば、と思って、後ずさりしてみたこともある。それでもやはり彼女との距離は変わらないんだ。勿論、夢だからこそ、そんなことが起きるということは分かっている。」
「それで、これを載せてどうしようと言うの。本の中では、夢を見た主人公は、自分は一体誰の夢を見ているのか気になり、あれこれ考えだすと言うところで、終わっているけれど。」
大介も拓哉の意図するところを計りかねている。
「そこなんだ。夢だ、と言っても、それを僕が見ている以上、僕の頭の中に彼女がいることは間違いないと思うんだ。だけれど、顔もはっきりしない夢だから、いくら自分で考えたって、答が出るはずがない。しかも、答、つまり、僕が誰の夢を見ていたかが分かっても、それで何かがどうにかなる訳じゃない、とも思う。」
「それはそうよね。それで、青嶋君は、何か他の事を考えたって訳ね。」
「うん。実はね、この夢の話を自費出版本の最後に訳あり気に載せておいて、みんなに配った訳なんだけれど、それで、みんなから、「あの子じゃないか。」、「いやあっちの子だろう。」というような話が出てきたら、それで話を作ってみようかと思ったんだ。邪道かな?」
「邪道とか、そういう問題は生じないと思うよ。面白いんじゃないか。」
「あっ、ルパン先生。いつの間にいらしたんですか。さすがにルパン先生、全く気が付きませんでした。」
「いつの間にいらしたって、ここは私の家だよ、大介君。」
「すいません。少しふざけ過ぎました。」
「それは、ともかく、青嶋君の夢に出て来る女性を友人たちがあれこれ想像すると言うのは面白いね。青嶋君本人が気が付いていないことも出て来るかも知れない。でも、そんなに候補の女性がいるのかい、青嶋君は。」
「夢の中でその女性と何かをしていると言う訳ではないので、かなり範囲を広げて見てもいいんじゃないかしら。一回、会っただけだけれど、強い印象が残った人とか。」
不二子は、何だか分からないが面白そうだと喜んでいる。
「それで、何か、反響があったかね、これまでに。」
有瀬教授も、暇つぶしに丁度いいと少し乗って来た。
「ええ、早速、由美子、いや石原由美子さんから、手紙が来ました。」
「えっ、あの女にも送ったの?」
「いや、実家の御両親宛に送った。短期間とは言え、お義父さんお義母さんと呼んだ相手だし、吾郎の祖父母であるのは変わらないから。」
「それで、彼女は、何て言って来たの?」
不二子は、こんなケースで、別れた妻が何を言って来たのか、想像もできなかった。
「たった一言、『夢に出て来る人は決して私ではありません。』とだけ書いてあった。他の作品については、一言のコメントも無かったよ。」
「わざわざ、それだけを書いた手紙を送って来るなんて、どこまで行ってもすごい人ね、信じられない。」
不二子は、呆れたという顔をしている。元々、不二子は由美子に対して良い印象を持っていなかったので、優しくなかった。それで、大介は、まるで、小姑みたいだと言って笑っていたくらいだった。
「私は、今、話を聞いて、不二子君とは、違う感想を持ったよ。」
有瀬は、由美子は、まだ、拓哉に対する気持ちが残っているのではないかと感じたと言うのだ。
「いやだ、いやだも、好きの内、という言い方もあるじゃないか。そもそも、彼女の青嶋君に対する気持ちが完全に冷めているのなら、そんな手紙を送ってこないんじゃないかな。わざわざ、自分は夢の女性ではないなんて書いて来るというのは、どこかに、青嶋君が夢で見ている女性が自分だったらという事が彼女の頭の隅にある証拠だと思うよ。」
「僕も、先生と同じようなことも考えてみました。てっきり苗字が変わっていると思っていたのに、まだ、石原姓だったこともあるし。」
拓哉は、旧姓のまま、イコール、再婚していないと考えていたが、そうではないと、不二子が別の可能性があることを主張した。
「あら、再婚しても、男性の方が、改姓していることだってあり得るわよ。彼女のお父さんの力でね。そして、新しい相手は、政治家志望で、今は、与党のどこかの代議士さんの秘書をしていて、近いうちに地盤を引き継いで選挙に出て来るの。彼女の事だから、絶対、与党の人よ。その時、青嶋君も野党のどこかに担ぎ出されて、因縁の対決とか言って、マスコミが大騒ぎ、というのはどうかしら。」
「いや、不二子、そういうのは勘弁して。僕は、政治家なんかになりたいとは思わないよ。実際に政治家にならなくても、目指しただけで体を壊しそうだよ。何しろ、一回、心臓が止まっているのだから。」
「だから、いいのよ。『生き返った男、青嶋拓哉が、この日本を生き返らせます!』というキャッチフレーズにして打って出るのよ、選挙に。」
「それいいね、不二子。でも、そもそも、彼女が再婚していなかったら、あるいは、再婚していても、その相手が選挙に出て来なかったら、インパクト不足だけれど。」
「それは、大介の言うとおりだけれど、私たちで、そうなるように働きかけましょうよ。ルパン先生と大介、不二子そしてゴエモンが揃えば、何とかできるんじゃないかしら。」
「まあ、そういう途方もない話はともかく、由美子さんの反応だけでも、青嶋君だったら、話を作れるんじゃないか。もともと、そういうことを期待していたんだろうから。」
由美子の手紙については、こう言って、有瀬教授が締めくくった。
「それから、夢野先生のお嬢さん、沙理ちゃんからも手紙が来た。」
「ほう、君たちは、夢野先生のお嬢さんとも知り合いだったのかい。」
「ええ、僕たち、サークルで、フォークロックのバンドをやっていたのです、実は。拓哉は歌が上手いので。本当ですよ。演技だけじゃないんです。東大って、白バラ合唱団が有名ですけれど、僕らが作ったのは、歌うのがフォークロックだし、経済は黒字が大切だからと言う洒落で黒バラ歌唱隊と言う名前にしました。沙理ちゃんもそのバンドのメンバーだったんです。僕らが四年生の時の一年生でした。」
大介が懐かしそうに事情を説明した。女性メンバーは、沙理ちゃんのように他の大学でも構わない、そういうサークルだった。白バラもそうである。何となく、意図が見え見えの様に思える。白バラでは、その意図通りの結果も相当生まれているらしい、そう付け加えた。
「沙理ちゃんって、青嶋君、ちょっと付き合っていたのよね。」
「ほう、そうなのかい。夢野さんからは、何も聞いていないけれど。それで、どうなったんだい。」
「ええ、まあ、何と言うか、うーん、どう言ったらいいのでしょう。」
「何だい、歯切れが悪いな。」
拓哉は、何か、話しづらそうである。
「青嶋君が振っちゃったのよね、どういう訳か。」
「青嶋があっさり振られたんだよね。」
不二子と大介が声を揃えて、しかし、内容は反対の事を言った。
「一体、どういう事なんだい?」
有瀬教授は、どうなっているのかと言う顔である。
「私は、沙理ちゃんから、『青嶋さんから、急に電話も来なくなった。私、振られちゃったみたいです。』って、直接聞いたわよ。サークルの集まりで会ったので、聞いて見たことがあるの。でも、その時の沙理ちゃんったら、すごく明るそうにしていて、青嶋君とのことは、全然気にもしていないみたいだったから、私もそれ以上は聞かなかったのだけれど。」
「沙理ちゃんがそんな事を言っていたなんて。知らなかった。僕は、年齢も離れているし、彼女もそんなに真剣に考えていない感じがあったので、これは、二人でいる時に、強く感じたのだけれど、あんまり強引に交際の続行を求めようとするのは止めようと思っていたんだ。やっぱり、夢野先生のお嬢さんだと言う事があって、腰が引けていた。そうしたら、同じサークルの土方が、沙理ちゃんにデートを申し込んだとわざわざ僕に言って来た。沙理ちゃんから何か言ってくるかなと思ったけれど、何も無かった。だから、やっぱり、やめておいた方が傷つかないで済むかなと思って、それ以来、電話をするのを止めにした。」
「まあ、お互いの勘違いなのかも知れないけれど、良くあることだよ。どっちにしても、二人の吸引力はそこまでだったという事じゃないかな。」
「はい。僕も、そういう風に考えて、引きずらないようにしました。」
「それで、今回、沙理ちゃんから手紙が来たのは、夢野先生に本を送ったから、という訳なのね。」
「そうなんだ。まあ、先生の所に送れば、沙理ちゃんの目にも触れるかも知れないと思ったのは確かだけれど。」
「それで、沙理ちゃん、何て言って来たの。夢の人は、私かも知れないとか書いてあった?」
「いや、夢の事については、何も書いてなかった。」
「じゃあ何が書いてあったの?」
「彼女、先生の机の上に、僕の本が置いてあるのを見つけたんだって。そうしたら、先生が、『青嶋君が心筋梗塞で倒れて、この本が出版された。』と言うような、あいまいな説明の仕方をされたらしい。それで、沙理ちゃんも、誰かさんたちと同じで、僕が死んじゃったと勘違いしたんだって。つまり、この本を遺稿集だと思ったって。後で、そうじゃないと分かって、嬉しかったって、そう、書いてあった。僕としては、夢の事が書いてあるのよりも、嬉しい手紙だった。」
「良かったね、青嶋君。」
不二子は、まるで自分の事の様にうれしそうである。この後、不二子と大介は、自分達が知っている女性の名を何人か挙げて、その思い出話をした。大学や銀行のときの不二子の友人で、拓哉も知っているはずの女性が中心だったが、不二子の友人ではなく、拓哉が最初に配属された支店の一年後輩の女性の名前も挙がった。高卒の女性だったが、とてもチャーミングな子だった。名前が貴子で、拓哉と同じ「タ」の字で始まる。拓哉の一年先輩に井田さんという大学の先輩でもある人がいて、その先輩の名前も達彦と言う名前で、やはり、「タ」の字で始まる名前だった。それで、その井田先輩の声掛けで、支店の中で、名前が「タ」の字で始まるメンバー5人で「タンゴクラブ」と名付けたグループを作り、食事会をしたり、ハイキングに出かけたりした。しかし、一年も経たないうちに、井田先輩が転勤になってしまい、グループの活動はいつの間にか消滅した。拓哉の手元には、千葉の海岸に出かけたときに砂浜で撮影したその子とのツーショット写真が残っている。
「あれは、井田さんが、青嶋君と貴子ちゃんの仲を取り持とうとして、わざわざ『タンゴクラブ』なんてものまで作ったりしたのよね、絶対。」
不二子は、当時、ツーショット写真を拓哉から見せられた時から、井田仲人説とでも名付けたら良さそうな意見を主張していた。
「きっと、青嶋君ったら、物欲しそうな眼付であの子を見ていたのよね。」
当時から、不二子は、しばしば、そう言って、拓哉をからかっていた。拓哉は、井田先輩の一年後に転勤となった。しばらくして、休日に電車に乗っていると、彼女が、ボーイフレンドらしき男性と二人で同じ車両に乗って来た。気が付いて、拓哉が軽く会釈をすると、彼女は、その男性の耳元で何かささやいた。すると、その男性が席を立ち、拓哉の前まで歩いてきて、「この娘は、自分のものだ。手を出すなよ。」と言わんばかりの目付きで、拓哉を睨み、席に戻った。拓哉は、「お二人さん、お幸せに。」と心の中で呟いたという記憶がある。
その直後に由美子との見合い話が持ち上がり、そして、結婚した。その意味で、貴子は、拓哉の独身最後の恋人候補だった訳で、例のツーショット写真を捨てないで持っていたのも、そのせいである。やはり、少しは未練があったのかも知れない。もっとも、由美子に見付からないように、職場のデスクに保管していたのであるが。
有瀬教授宅を辞し、大介・不二子とも別れ、自宅に帰った拓哉は、久しぶりに貴子とのツーショットを眺めてみた。電車内で、ボーイフレンドらしき男性と一緒だった時の顔とは、明らかに異なる表情で、いかにも清純そうだった。あの時、あの男性は声には出さなかったが、言わんとするところを瞬時に察することが出来たのは、彼女の表情の変化のせいだったのだと、拓哉は納得した。それにしても、女性という存在は複雑だな、それに比べたら、男は単純だ、いつまで経っても頭の中身は子供のままだ、拓哉はそう呟いた。
6
拓哉は、夢の中の彼女は、不二子なのではないかと考えても見た。不二子であれば、一定の距離を保ち、それ以上、近づくことはできず、だからと言って、遠ざかることもない。夢の中とは言え、一つになることは決してない。だけれども、いつも、自分を見て微笑んでくれている。現実の世界でも、拓哉にとって、不二子はそういう存在だった。だから、夢の彼女イコール不二子は、正解の様にも思える。しかしながら、そうだとすると、なぜ、今回、心筋梗塞による心肺停止状態から生き返った後になって、急に夢に出て来たのかが分からない。勿論、夢のことなのだから、理屈に合わないなどと言う事自体、問題にすべきではないのかも知れない。しかし、拓哉には、夢に現れ始めた時期が何か重大な意味を持つ、そう思えて仕方がなかった。
大介や不二子が名前を挙げた女性たちも、全て、夢の女性である可能性は皆無であると拓哉は考えていた。拓哉のことを、いつも優しく見てくれていた女性なんて、そんなにはいやしない。そして、自分の脳内に存在する何かが、あの夢を見させている、そう考え始めた拓哉は、ある女子生徒の事が頭に浮かんだ。
拓哉は、中高一貫の私立校に通っていた。最寄り駅からは、朝一本だけ始発電車が走っており、少し早起きして、その電車に乗って通学していた。たいてい、席に座って、教科書などの本を読んでいた。ある時、反対側の席に女子生徒が座り、やはり、読書をしている姿が目に入った。立っている乗客も多くいるので、いつも観察できる訳ではない。また、視認できても一瞬だけと言うときもある。そして、拓哉が電車を降りるときには、既に彼女の姿は席になかった。どの駅で下車しているのかは、ついに確認できなかった。何度か、眼が合ったことがある。その時、彼女は、本当に温かい笑顔を見せてくれた。今回、夢に出て来る女性は、中学生や高校生などではなく、中年に達しているとしか思えない様子なのであるが、しかし、拓哉に投げ掛ける笑みは、あの時の彼女の笑顔に間違いない、拓哉はそう思った。
拓哉は、中高一貫の男子校に通うのが、最初、大いに苦痛だった。もともと、男らしさには欠けるところがあり、周りがいかにもガキ大将だったと思われるクラスメートばかりだと息苦しさを感じてしまっていた。教師陣も、男子校のせいか、内面は優しくても、表面的には怖いと思ってしまうくらい厳しい先生が多く、始めの内、拓哉は授業中少し怯えていたくらいだった。
しかし、電車の中の彼女に気が付いた頃から、現金なもので、拓哉は、その電車に乗って登校するのが楽しくなってきた。そうすると、不思議なもので、クラスメートもみんな優しくてユーモアに富んだ楽しい仲間に思えて来たし、教師陣に対する恐怖心も消え、授業中に震えることはなくなったのである。
そんな彼女だったが、ある時から、電車で見かけることはなくなった。どこに住んでいるのか、どこの学校の生徒だったのか、それは分からなかった。勿論、名前も知らなかった。そう思った時、本当に知らなかったのかと、拓哉の脳内を何かが駆け抜けた。
当時の事を、もう一度落ち着いて振り返って見た。拓哉の学校生活のピンチを救ってくれた彼女。いや、ピンチを救うためだけに姿を見せてくれたと言った方が正確なのかも知れない。あるときから、姿を見せなくなったのも当然なのかも知れない。ピンチは去ったのだから。その後の人生では、不二子が・・・。
そこまで考えて、拓哉の頭の中で、あの電車の女子生徒も不二子も現実の世界の人間ではないのではないかという疑念が渦巻き始めた。勿論、大介とパートナーを組んでいる不二子が実在の人間であるのは間違いがない。しかし、それ以外の「フジコ」が自分の脳内に住んでいて、電車の女子生徒が姿を現さなくなってからは、その「フジコ」が「不二子」の姿をして現れて、そして、その存在が自分に安心感を与え続けてくれたのではないか、そんな気がしてきたのである。つまり、二人を見ていたのは、全て夢の中の出来事でしかなかったのではないか。いや、夢と言うのは可笑しい、眠っていた訳ではないから。脳に直接何かが働きかけて女子生徒や不二子の映像を認識させていたのだ、そう思い始めたのだった。
要するに、自分の脳内には、そういう女性を認識させるものが存在する。それは、端的に肉体を有していない女性なのかもしれない。自分は、頭がおかしいのだろうか。いや、誰だって、脳内には複数の人格が存在していて、ただ、通常は、メインのものだけを意識しているだけなのかも知れない。一時的に全く別人のようになってしまう人がいる。アルコールの力による場合が多いが、そうでなくとも、何らかのことが引き金となって、別人格が現れることもある。自分の周りを見回してみよう。そういう人は、決して稀な存在ではないのではないだろうか。
自分の場合、その別人格は自分を愛おしく思ってくれている女性だった、そういう事なのかも知れない。だから、由美子との間も余り上手く行かなかった。一度に二人の女性を愛することなど出来やしない。彼女が出て行ったのは、必ずしも、あの事件のせいで銀行を退職せざるを得なかったからだけなのではないかも知れないのだ。由美子の場合だけでなく、振り返って見ると、自分は女性と上手に交際するのが苦手だった。それもこれも、全部、脳内の女性のせいなのかも知れない。自分は、その脳内の女性を無意識にではあるが、熱愛していたのだ。そして、あの時、つまり、急性心筋梗塞で心肺停止になった時、自分の中の別人格、即ち、「電車の中の女子生徒」、「もう一人の不二子」は消失し、蘇生しなかった。それで、彼女が戻って来る事を願う自分の中のメインの自分が、彼女の夢を見続けているのではないだろうか。勿論、こんな話をしても、何を馬鹿な事を言っているのだと、笑われるだけだ。だから、小説の形にしよう。そうすることで、自分の頭の中の彼女にいつまでも待ち続けることを伝えよう。「百年河清を待つ」ではなく、「百年蘇生を待つ」になってしまうかも知れないが。
7
私は、キーボードを叩き始めた。その時だった。
「只今。あら、あなた、あれだけ資源ごみを出しておいてって言ったのに、何にもしていないのね。」
不二子だった。どんな時も私に優しくしてくれている。料理も上手だ。その上、研究熱心で、いつも新しい味を追い求めている。私が銀行を辞めようと、体調を崩して弁護士を辞めてしまった後も、文句ひとつ言わずに傍に居てくれている。
(欠点がないわけではないが。)←削除予定
「ああ、不二子、お帰り。いやあ、今度こそ、傑作を書こうと思ってね。いいアイデアが浮かんだものだから、つい、ゴミ出しを忘れてしまった。」
「傑作って、また、あれでしょ。頭の中に別人格が存在するってやつ。以前は、母親が交通事故にあって、自分を産んだところで力尽きてしまったために、肉体を持って生まれて来ることが出来なかった双子の妹が自分の脳内に生きているって話だったわよね。蘭ちゃんだったっけ、妹の名前。キャンディーズファンだったの?そう言えば、蘭ちゃんのお相手って、あなたと同い年で誕生日も近いのよね。あの人もどこか普通じゃない感じのする人よね。それに、あの妖艶な女優さんも、それから、あの女性の知事さんも、みんな誕生日が近いのよね。あの時期、地球上の磁気が狂っていたのかしら。あっ、こんな事、私が言ったなんて、絶対、書かないでよ。怒られちゃうから。ま、それはともかく、あんまり、あんな話ばかり書いていると、姥山さんや星江さんにも、本当に変な奴って思われちゃうわよ。それと、また、サリーちゃんが出て来るんでしょ、話のどこかに。本当に好きよね、サリーちゃん、女の子みたい。あっ、頭の中に妹がいるから、なんて言い訳は無しね。それと、あなたの書いたものって、小説というより、思い出話の寄せ集めよね。もうちょっと、普通に面白い物を書いてよ。それから、小説の中に私を実名で出しておいて、離婚したとか、一つになることはないなんて書くのは止めにしてね。そういう願望は、頭の中だけにしておいてね、お願いだから。言いたいことはこれだけ。それじゃあね。早く書きなさいよ、つまらぬものを。」
不二子は、言いたいだけ言って、食事の支度を始めたが、直ぐに、また、顔を出してこう付け加えた。
「大介ったらすごいらしいわよ。3日も徹夜して作業して、それでも眠ったりしないんですって。『次元は現場で起きているんですよ。』って、よく言われているらしいわよ。」
ね、悲しいでしょう、持ちネタが少ないって。
完
笑説です。