珈琲店の弓子さん
(いよいよだな・・・。)
今日は俺にとっては、人生のクライマックスだ。
週末の土曜日だ。
そして、この日は<喫茶 弓>の最終営業日なのだ。
「いらっしゃい。」
いつも通りにマスターが、優しい表情で俺を迎えてくれた。
本当に昔から、このオジサンに俺は癒されてきたのだ。
だから、この何気ないやり取りが、もうできなくなるのかと思うと、俺は悲しい・・・。
「ええと。」
俺はマスターに、<喫茶 弓>の今後について聞いてみることにした。
今日が営業最終日だからなのか、マスターも俺の話しかけに快く応じてくれた。
だから少々込み入った話ができた。
その会話によると・・・・。
この<喫茶 弓>は新しいオーナーに買い取られ、店名をかえて営業をするらしい。
だから店舗は基本的にそのままでも良く、引っ越し前日の今日まで、営業をしているのだという。
でも、そうなったら俺は、この喫茶店にはいかないと思う。
もはや俺にとっては、<喫茶 弓>は今日で終わりなのだ。
たとえその後、新装開店したとしても、<喫茶 弓>を名乗らなくなった以上・・・、マスターと弓子さんがいない以上・・・・・・。
マスターとの少しの会話を終え、俺は席についた。
このテーブルと席の感触も、もう味わうことは二度とないだろう。
文字通り、これは根性の別れなのだ・・・。
自分の目が染みてきた。
たぶん俺の目は、涙目になっている事だろう。
「いらっしゃいませ。」
「うっ・・・。」
自分の心の準備ができてないうちに、ウェイトレスの彼女がきた。
俺は、その自分の目をこすり彼女の顔を見た。
「ご注文は?」
相も変わらず、彼女は機械的な接客態度である。
「ブルーマウンテンを。」
そしてオレも、簡潔な注文のセリフを言った。
「かしこまりした。」
軽く会釈をした弓子さんは、厨房に消えていった。
そして・・・。
弓子さんが運んできた最後の珈琲を、俺はゆっくりと堪能した。
もうこれで<喫茶 弓>の弓子さんの接客は、味わえることはないであろう。
「マスター・・・。」
俺は会計時に、マスターに一つの願いを申し出た。
そしてマスターは、にこやかに、俺の申し出を了承してくれた。
===== カランカラン =====
ドアの鳴り物の音が、身に染みる。
もう<喫茶 弓>に来ることは、二度とないのだ・・・。
(ううん・・・。)
その夜、俺はそわそわして寝付けなかった。
様々な考えが、自分の頭の中を駆け巡る。
(弓子さん・・・。)
ガサツ女が、俺の脳内を刺激する。
「うむ!」
やっと俺は、自分が寝ることを諦めた。
そして、俺は散歩に出かけた。
こんな夜中に出かけるのは、何年ぶりであろうか。
「ほう。」
昔よく、あのガサツ女と遊んだ公園にきた。
(懐かしいな。)
今となっては、本当に懐かしい・・・。
あのガサツ女・・・・じゃねえ・・・!!
俺は驚愕した。
何と公園の中には、想定外の人物がいたのだから。
・・・・・黒いベストに白いシャツ、黒いスカート彼女・・・・・。
そう、珈琲店の弓子さんが、ブランコに腰掛けていたのだった。
(ゆ、弓子さん・・・。)
これは神様が俺にくれた最後のチャンスかもしれない・・・・。
数メートル先に彼女がいる。
しかも二人きりという状況だ。
なにも障害となるものはない。
しかし・・・・。
俺は身体が動かなかった、勿論、言葉も出なかった。
(あっ・・・。)
気が付くと弓子さんはブランコと降り、歩き始めていた。
「ゆ、弓子さん・・・。」
俺は臆病者だ。
当然、彼女に話しかける勇気などなかった。
俺は弓子さんが、彼女の家の方向に帰るの見届けた。
恐らく無事に帰宅した事であろう。
そう考えると、俺は彼女の安全を見守ったことになる。
そのように俺は、自分で自分を慰め言い訳をして、帰宅したのであった。
無論それから、すぐに俺は深い眠りに就いた。
引っ越し当日だ。
朝から、俺はマスターの家に行った。
もう引っ越しの業者が、トラックに荷物を積んでいる最中だった。
「やあ。」
マスターが手を挙げて、僕を迎えた。
そう俺は昨日の<喫茶 弓>でマスターに、引っ越しの見送りをさせてもらいたい、と言ったのだった。
「よう!!」
俺の背中を、誰かがバシンと叩いた。
「来てくれたのか!?」
振り向くと、いつものガサツ女がいた。
ブレザーにチェックのミニスカート・・・、学校の制服だ。
なぜ制服なのだろうか。
「今日は最後だからな!!」
そう言って、またガサツ女は俺の肩を叩いた。
「こらこら。」
マスターが、このガサツ女のガサツさを諫めた。
「サービス!!」
ガサツ女は、人差し指を自分の口元につけ、よくわからないポーズを取っていた。
それは言葉通り、こいつなりの俺に対するサービスなのだろうか。
「こらこら。」
マスターが、再びガサツ女をたしなめる。
「んーーー。」
なんなのか、ガサツ女は俺の顔を見つめ、不満そうな声を漏らす。
「ちょっと待ってな!!」
ガサツ女は、そう言うと、何か荷物を以て走っていった。
いまさら何をするつもりなのだろうか。
少々の時間が経過した。
そしてアイツの気配を感じた。
「あっ!」
振り向くと、黒いベストに白いシャツ、黒いスカート、とてもその女性はエレガントな姿をしていた。
「弓子さん・・・。」
弓子さんは、俺に優しい眼差しを向けて居た。
「弓子さん・・・。」
感嘆の余り、俺は彼女に名を呼ぶ以外の事ができない。
「さよなら・・・。」
弓子さんは、別れの一言を発した。
少しだけ顔を傾けた彼女は、寂しげな表情だった。
弓子さんが自分に対して、意志を現してくれたことに、俺は満足だった。
「さよなら、弓子さん。」
精一杯の気持ちを込めて、オレも一言の挨拶を発した。
「さあ、行こうか弓子。」
マスターが俺に手を振りながら、娘の弓子さんを自分の運転する乗用車に乗るように促す。
弓子さんは俺に軽くお辞儀をして、車に乗り込んだ。
本当にお別れだ。
エンジンがかかる。
車が発進した。
本当に終わりだ。
しかし、すぐに車の窓がスライドオープンした。
「あっ!」
弓子さんが窓から顔を出し、俺の方を見た。
上品な彼女らしからぬ行動だ。
「じゃあな!!」
彼女は右手を大きく振って、大きな声で俺に最後の別れを告げた。
本当にマスターと弓子さんは、旅立っていった。
俺は思っていることを、言葉に出した。
「弓子さん・・・、あんまり喋らなきゃ、いい女性なのにな。
あのガサツ女・・・・。」
俺は一人ブツブツ言いながら、しばらくたち尽くした。
それでも気が付くと、俺は一人でニヤけていた。
これもいつかは、自分の青春の思い出のアルバムの一ページになるのだろうか、それとも・・・・・・・。