第86話・紅竜の告解(だからわたしはお嬢さまと共にある)
翌朝早く、まだ職人街がごった返す前にお嬢さまとわたしはトリーネ家を辞去した。
朝食を一緒に、というお誘いはあったけれど、支度もあるので、ということでお嬢さまもわたしも強力に遠慮したのだった。
ネアスの様子は、というと時折はにかみながらお嬢さまと視線を交わしたり、お嬢さまの方もなんだか照れたように目を逸らし、そんで「今日は学校にはきちんと来なさいな」と偉ぶったことを言ったりと、なんだかこっちの方が和むよーなやり取りがあったから、まあしばらくはわたしが心配するよーなことは無いんだと思う。
「アイナハッフェ様、狭い家で申し訳ありませんでした」
「いえ、こちらこそ急にお邪魔をして申し訳ありません。このお詫びに、近々わたくしの主催で当家にお招きしますので、楽しみにして頂けると幸いですわ」
「大変恐縮です……」
帰り際、お見送りのネアスのお父さんとはこんなあいさつが交わされた。
何度も言うけど、ネアスのお父さんはブリガーナ伯爵家のお抱えの職人だ。ブリガーナ家としても極めて優秀な触媒の職人であるネアスのお父さんを大事にしているから、お嬢さまのこの対応はごくごく真っ当なものなのだ。
といってお嬢さまが個人としてそんな真似をするというのも珍しい話だから、お父さんが恐縮がるのも無理はない。
でもなー。
「……何よ、その目は」
『いえ、お嬢さまがネアスん家をご招待するって、ネアスを家に呼びたいとかゆー下心とかあったりして、ってー…あいた』
「下世話なことを申すものではありませんわ、コルセア。わたくしにはブリガーナ家の者として、篤く遇するべきをそのようにする務めがあるのです。別にネアスのことがあったからではありません」
迎えの馬車の中で、わたしはお嬢さまに小突かれた。
なんか朝起きた時はもやもやしてたけれど、ともかくいつも通りにはなった感じ。うん、やっぱお嬢さまはこーでないとね。
わたしは朝の喧噪が起こりつつある下町を往く馬車の中、外の景色を眺めながら安堵する。
悪いことをした、あるいはしている、っていう意識はどうしても拭いとれないし、この罪の意識は最後までわたしが持ち続けないといけないものだ。
どんなに上手いことやったとしても、三周目のネアスが一人で寂しく死んでしまったことは取り消せない。今のネアスがどんなに幸せな生涯を送ったとしても、それによってそれを無かったことになんか出来ないんだ。
でも、その時の記憶を今のお嬢さまやネアスに受け取ってもらえたのなら、それでも少しは報われたことになるんじゃないだろうか。そうなって欲しいと思うのは、きっとわたしのわがままで勝手な願いなんだろうけれど……。
「……それにしても、不思議なものね」
『ほぇ?』
と、黄昏れてたわたしの耳に、なんだか感慨深げなお嬢さまの声。
『どうしました?お嬢さま。なんかえらい楽しそーですけど』
「別に楽しんでなどいませんわ。ただ、昨夜のことはわたくしにはそれなりに痛恨事でしたもの。あなたの話も含めて、ね」
『へー、お嬢さまをやり込めたってんなら、わたしもなかなかやるってことですね』
「あなたここ数日でわたくしに何度ぶたれたか忘れたの?もう一発追加しておきましょうか?」
『何度も言いますが、ペットの虐待は立派な犯罪ですからね?お嬢さま』
「聞いたことがないわよ、そんな話。それにこれは愛の鞭というもの。あなたを大切に思えばこそ、厳しく当たるのです。お分かり?」
それってドメスティックバイオレンスってやつじゃないかしら、と思ったけれど、まあお嬢さまがわたしに愛を抱いているってーのは実感するところだったから、特に何も言わずにニコリと笑い返しておいた。そしたらどういうわけかドン引きした顔をされたけど。そこまでコワイ顔だったのかしらん。
まあそんなこんなで家に着き、用意されてあった軽い朝食をとると、ほとんどとんぼ返りみたく登校の時間になる。
お嬢さまも支度のために部屋に戻り、わたしは玄関でお嬢さまを待っていると、じーさまに呼び止められた。
「おう、コルセアよ。ちっと話があんだがよ。耳貸せや」
『やですよ。じーさまの方から改まって持ちかけられる話とか、厄介ごと確定じゃないですか』
「言うねえ、おめえも。だがアイナにも無関係じゃねえんだ。聞かずにおいて後悔しても知らねえぞ?」
『……やっぱり厄介ごとじゃん』
しゃーない。お嬢さまを盾にとられたんじゃあ聞かないわけにもいかないし。
わたしは肩を落としつつじーさまの後についてゆき、玄関の大階段の下に潜り込む。じーさまの見るからに悪党面のはげ頭が、この際うっとうしかった。
『……で、なんでしょ。そろそろお嬢さまが戻ってくるので手短に願いますね』
「そんなに長引く話じゃねえ。一つだけだ。あのな、近々…つっても今日明日ってえワケじゃねえが、殿下の身辺がちっと騒がしくなりそうだ。わりいが、アイナのことを頼む」
『んな具体性に全く欠ける話されましても。何が起こるんです?』
「それを言えるんならこんな物陰で耳打ちなんざしねえよ。ま、儂も全てを知ってるわけじゃねえ。憶測で話してお前さんを混乱させたくもねえから、今日のところは忠告、ってところだな」
このじーさまの顔で言われると、忠告ってより警告って感じがするけど。
わたしは聞こえよがしにため息をつき、悪人っぷりでは負けない自前の面をじーさまに向けると、一つだけ念押し。
『じーさまはお嬢さまの味方なんでしょうね?』
「そいつは請け合うさ。間違い無くよ」
『じゃあいーです。わたしはわたしで理由があってお嬢さまの側にいますから』
「その理由ってヤツも、そのうち聞かせてもらいてえもんだな」
『あなたお嬢さまにわたしを与えた張本人でしょーが。何ゆってんの』
「爺いの思惑なんざな、若ぇ連中の行動を掣肘出来るモンじゃねえのよ。お前さんも歳をとりゃ分かるさ」
そーなのかしら。わたし数百年生きても未だにそーゆー機微がピンと来ないんだけど。……ま、それは無駄に歳をとっただけ、ってことか。
なんか話が説教くさくなりそーだったので、二階からお嬢さまの「コルセアー?ちょっといらっしゃいな」って声が聞こえたのを折りに、その場を離れた。特に背中から声をかけられることは無かった。
「……あなたどこに行ってたの。呼んだらすぐに来なさいな」
二階のお嬢さまの部屋のある廊下まで来ると、ちょうど部屋の鍵をかけたお嬢さまの側に寄っていく。
『いえ、天気が崩れそうだなー、って話をしてました』
「天気?どこをどう見ても快晴の良い天気だと思うけれど」
『こーいうのは鼻が利く利かない、ってのがあるんですよ。で、何かご用です?』
「特に用というわけではありませんわね。ただ、呼んだら来てくれる存在があるというのは嬉しいものだと思わない?」
『その確認のためだけに呼ばれたんですか、わたし』
「ええ、そうだけれど?」
そうしれっと言い放つお嬢さまのお顔は、はつらつの一言で表せる明るいものだった。
昨夜、幼馴染みでライバルと目する少女に、秘めていた想いを告白されたにしては……いや、まさかとは思うけど、だからこそ、なのかひどく明るく、迷いを感じさせない。
そんな様子に目眩にも似たものを覚える。
……わたしは罪を犯した。そして、その報いはわたしだけではなく、わたしの大切な人たちにも及んでしまった。
だったら、わたしのすべきことは。
『お嬢さま』
「ええ、何かしら?」
踊り場に差し掛かったお嬢さまに、声をかける。
振り向きこちらを見上げた表情は、何百年もわたしが大好きでいる、自信と矜持に満ちた笑顔だ。
わたしはそれを。
『とりあえず、ですね。わたしは何があってもお嬢さまを守りますからね』
「何がとりあえず、なのかはともかく、当然のことをそう改まって宣言するのも無駄なことだと思うのだけれど」
『はあ』
なんつーか、忠誠を誓う気の失せる物言いだなあ、とは思う。
でもね。
「あなたはわたくしの一番の友だちなのだから、一方的に守られるつもりはありません。あなたのことをわたくしだって守るつもりなのだから。それは忘れないこと。よろしくて?」
……一緒にいたい人だなあ、ってことは間違い無く思えるんだよね。




