エピローグ
『ネアスまま、ただいまです』
裏庭で洗濯物を取り込んでいたら、最近とみに鱗の青色が深く輝くようになってきたカトラスがやってきた。
最近一人で飛ぶことをようやく覚えたらしく、やたらと出歩くようになったカトラスのことをコルセアがひどく心配していたんだけれど、過保護なんじゃないかなあ。きっとコルセアとパレットさんが心配するよりもずっとしっかりしていると思うよ?
「おかえりなさい、カトラス。今日はどちらに?」
『はい!コルセアままがおしごとでアイナままといっしょなので、カトラスはさきにかえってきました!』
「あはは、おつかれさま。ちゃんと先に帰るって言ってきたなら大丈夫だと思う………その様子じゃあ、黙って帰って来ちゃったんだね」
『……うう、ごめんなさい……』
しゅん、と悲しそうな顔になる。
鱗の色もそうだけれど、こういうところはコルセアの小さいころとは全然似てないなあ。
わたしとアイナ様がまだ幼くて、わたしたちのおもちゃみたいになってた時のコルセアって、本当におしゃまで、むしろわたしたちを率先してひっかき回してたようだったもの。
でもそれは、コルセアが異世界から転生してきた大人の女のひとだった、って出自を聞かされて、納得のいく話だった。
それだけじゃなくて、コルセアに聞かされた、彼女とパレットさんは何十万回もの人生を繰り返してきたという衝撃的な告白に、わたしとアイナ様は二人のいないところで暮夜揃って涙を流したものだ。
それが今は、カトラスっていう娘…なのかな?竜に男の子とか女の子とかって区別はないって聞いたけれど、言動を見るとどこか女の子っぽいから、それでいいよね…も出来て、パレットさんっていう奥さんも出来て、幸せにくらしているんだから。
まあコルセアは自分で女だって言ってるし、パレットさんもいつまで経っても少女っぽさが抜けない女の人だから、世の中の常識ってものに照らし合わせれば変わった話なんだろうけれど。でもアイナ様っていう素晴らしい女性を生涯愛する、って誓ったわたしがどうこう言えることじゃないものね。うん。
「いいよ、カトラス。コルセアが帰ってきたら一緒にごめんね、って言ってあげるから。だからとりあえず……おやつにしようか?わたしの自慢の焼き菓子を作ってあるんだ。アイナ様が今日は甘いものを用意しておきなさいな、って言っていたからね」
『……いいんですか?アイナままよりさきにたべちゃって、いいんですか?』
「ふふ、そうして遠慮するカトラスはとってもかわいいから、きっとアイナ様も許してくださるよ。じゃあお茶を煎れようか。あ、パレットさんもお家にいるなら連れてきてくれるかな?」
『はい!パレットままはおひるねしてたので、たたきおこしてきます!』
そんな言い方どこで覚えたんだろう、っていうか、間違いなくコルセアだよね。
わたしは苦笑しながらいそいそと飛び立つカトラスの背中を見送ったんだけど、そのカトラスはわたしの頭の高さより少し高くまで浮かび上がると、動きをとめてふもとに続く林道の方に顔を向けていた。
「どうしたの?カトラスのおうち、そっちじゃないよね?」
『……コルセアままがかえってきました!アイナままも……でも、あれ……?なんだかしらないにおいがするです……』
「知らない匂い?」
カトラスが顔だけでなく身体ごと向き直った方角を、わたしも手をかざして見やる。薄暗い木々の間にそれらしい人影は……。
「ネアスちゃぁん……なにか良いにおいしてきたんだけど、お菓子作ってたの?」
「わあっ?!……って、パレットさん?え、ええ、今カトラスが呼びに行こうと……え、まさか焼き菓子の匂いでここまで来たんですか?」
急に背後から話しかけれて思わず飛び上がるわたし。パレットさんだった。
割と人間離れしたところのある人……っていうか人じゃないから無理も無いんだけれど、それにしたって焼き菓子の匂いが届く距離じゃないだろうに、どうやって嗅ぎ付けたんだろう。
いや、今はそういうことじゃなくて。
「ええと、コルセアとアイナ様がお帰りなんですけれど、どうもカトラスがそれだけじゃないって言って……」
「あ、うん。そうね。なんかとても……楽しそうなことが起こりそうよ?」
楽しそうなこと?
どことなく浮き世離れした笑みを浮かべたパレットさんは、すっかり板に付いた村娘の格好のまま、アイナ様とコルセアがやってきてるだろう林道の奥を目を細めて見つめていた。
「コルセアまま!アイナまま!」
わたしたちは待つつもりだったんだけれど、カトラスは待ちきれないって風に、姿を見せたコルセアのもとに飛びつくと。
『まま!まま!……あいたっ!』
『この子はもう!黙ってどっか行ったらダメって何度言えば分かるの!』
『……うう、ぶった……コルセアままがぶった……』
それほど強く叩いたわけじゃないだろうけど、こちらから見えるカトラスの肩はぷるぷる震えてて、そしてコルセアのことを見上げていたことだろう。いつものように、上目遣いで。
そんな顔を向けられて、わたしたちがいつもすることは。
『う……うう……。も、もうするんじゃないわよ。次からはちゃんと、ママの言うことを聞いて先に帰るなら先に帰る、って行ってから帰ること!いい?』
『はあい。ありがとです、コルセアまま!』
こんな風に、ぱぁっと輝くような笑顔になるカトラスを見たくてなんだか許してしまうのだ。
「コルセアちゃあん。カトラスたたいちゃダメでしょ?コルセアちゃんと違って頑丈じゃないんだから」
『わたしより頑丈なあんたが言っても説得力ねーわよ。それより、お嬢さま?』
「……あなたいつまでわたくしをお嬢さま呼ばわりするつもりなの。まあいいわ。ネアス、こちらにいらっしゃいな!」
わたし?
林から出てきたアイナ様に呼ばれる。珍しいこともあるものだ。ただ、ほんの少し上気したアイナ様のお顔はなんだかとてもいたずらっぽくて、そんな表情がとても珍しいものだからわたしは言われたように早歩きで近くに寄っていく。
「おかえりなさい、アイナ様。研究所のお休みは明日なのに、随分とお早いお帰りですね」
「ふふ、予定より早く決まったものでね。ほら」
と、姿を見せた時からずっと気になっていた、アイナ様の後ろに隠れている小さな人影が、促されておずおずと前に出てきた。
「あは、早く来てくれる気になったんですね。良かった」
「………」
心の底から良かったと思って笑顔を向けてみたけれど、その子は表情を固くして困ったように目を逸らすだけだった。
初めて会った時には薄汚れて垢じみたボロをまとっていたのに、でもこうして綺麗にしてみると本当に可愛い女の子だと思う。
作りはいいけれど派手じゃない子供服を着てるその子は、少しクセのある栗色の髪を頭の後ろのところで丸くまとめてあり、広く露出した額には思わず唇で触れてしまいたくなる。
一方で、しばらくしたらすぐにあっちこっちとよく目が動き、その度に瞳は輝きを増していくようだ。
……ほんの半年前まで、両親から虐待を受けて暗い顔をしていたことなんかうそのようだけれど、この子の境遇を知ったアイナ様の努力と苦労を知っているわたしには、涙の出てきそうなことなのだ。
「ふふ。まだ少し気にはしてるみたいだけれど、カトラスに会えるのを楽しみにしてたわ。こちらにいらっしゃい、カトラス」
『ふえ?』
コルセアとパレットさんの後ろに隠れてこちらをうかがっていたカトラスは、アイナ様が両手を肩に置いている小さな女の子を見て、それから両親の顔を交互に見つめた。
『カトラス、行ってきなさいな』
「そうね。おともだち、だよ?」
『おともだち?』
言葉の意味はよく分からない風だったけれど、その柔らかい響きが気に入ったのだろう、ともだち?ともだち?と口の中で繰り返しながら、アイナ様の前にまでやってきた。
『あなた、おともだち?おともだち、って、なに?』
この家と隣家の住人全てをとろとろに蕩けさせる、首を傾げての問いにも、女の子は焦った風にアイナ様を見上げていた。
「ふふ、大丈夫。思ったことを仰いなさいな。ルイセ」
「………うん」
ようやく一言を紡ぎ出す。言葉というより、息を呑む音がそのまま大きくなったような感じではあったけれど、それでも意志の存在を疑わせない力強さだけは、そこにあった。
ルイセは教えられた通りに……ではなく、わたしもアイナ様もそんなことをするようには言った覚えがないから、きっと彼女がそうありたいと願ったものを、そのまま口にしたんだと思う。
「……わたしはルイセ。アイナ所長と、ネアスさんが……おかあさんになってくれる、の……ええと、それで……はい」
『……?』
「握手、っていうの。手を出して」
言われるがままに手…というより短い指を伸ばすカトラス。
ルイセはそれをちっとも変なことだとは思わないように、堂々と握る。
太くて短い指を握る、ルイセの小さな手。それで、幼子たちの誓約は済んだ。
「おともだちに……家族になって」
『おともだち?かぞく?』
やっぱり言われた言葉の意味は分からなくって、けれどそれが自分にとってとても大切なことだということだけは分かったように、二つの言葉を口の中で繰り返すカトラス。
それはいつか見た光景。
優しい伯爵様が、大切な娘の友だちとして連れてきた紅い竜が、女の子を守ると誓った時のこと。
女の子は大きくなって、いろんなことが出来るようになって。
その一方で生まれた時から持っていたものの多くを失って、それでもずっと一緒にいた紅い竜は側に居続けて。
『ペットじゃなくて友だちから開始、っていうのも……まあ悪くはないよね』
「……それどういう意味なのかしら」
『どんな形であっても幸せの意味は変わらない、って意味ですよ、お嬢さま』
「そうなのかしら?………ふふ、そうかもしれないわね」
女の子と紅い竜はわたしの一番大切なものとして、今もここにいる。