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老人と沖縄(5)

 手足が軽く、まるで自分が水泳のプロになったような錯覚さえ覚えた。


 けれど、これはあちらの方向へと流されているからであって、子供のいる場所まで辿り着けた後は、どうなるか分からないぞと自分に言い聞かせた。


 彼は、子供から目を離さないよう努めながら泳いだ。しかし、海面でうなる波が視界を遮り、邪魔をした。


 ――チクショーこの波め!


 その時だった。波の向こうに遮られた子供の声が、不意に途切れた直後、彼はその子供の姿を見失ってしまった。


 離れた海岸から叫ぶ声があったが、耳もやや遠くなっていた彼には、風と波音が耳を打つせいもあって言葉として聞き取ることが出来なかった。


 彼は舌打ちすると、再び大きく息を吸い込んで海へと身体を沈めた。直で子供の姿を探そうとした目に、途端に潮水が浸かって激痛が走った。


 彼はたまらず海面に顔を出し、両目の海水をぬぐった。


 子供はまだ肺に空気が残っているはずだから、水面の近くにいるはずなんだと、彼は己を叱った。こんな痛みがなんだっていうんだ、さあ子供を探すんだっ、見つけたら、しっかり捕まえるんだぞ!


 彼は心の中で自分に言い聞かせると、再び海へと潜った。刺すような激痛が両目を襲い、生暖かさが目元から溢れるのが分かった。それでも、歯を食いしばって目を凝らした。


 海中は、まだ明るい水上の光で、薄暗く照らし出されていた。更に注意深く見据えてみると、海面のすぐ下で、両手足を懸命に動かす子供の姿が彼の目に留まった。


 ――よしっ、いたぞ!


 そこで息がもたなくなり、彼は一度酸素を求めて水面から顔を出した。一気吸い込んだ空気が、しわがれた喉元でひゅーひゅー立てる音を聞いた。


「俺は……まだ、やれる……っ」


 ぜーぜー言いながら自分を叱り付けると、彼は子供がいた方角へ向かって精一杯の力でもって泳ぎ出した。


 そこには、眺めている時には全く感じなかった激しい波があった。それは、彼から子供を奪い去ろうと言わんばかりに、彼の老体を打ち付けて体力を削いでいく。


「おーいっ、ここだ!」


 彼は、ありったけの声で叫んだ。


 子供は彼に気付くと、何やら叫び返してきた。よく聞きとれなかったが、近付くと自分からやってきてパニックした様子で彼にしがみついてきた。


 彼はバランスを取ろうとしたのだが、何度も海水が口と鼻に侵入した。落ち着きなさいと言う言葉も、起こった波によって何度も遮られた。


 波は決して悪天候の荒さではない。しかし彼は、こうしている間にも自分と子供が流されていってしまっていることにも気付いていた。海岸の方に目を向けようにも、暴れる子供を大人しく差せない限り不可能に近かった。


「大丈夫だ! おじさんに捕まっていれば大丈夫だから! おじさんは、きっとお前を背負って泳いでいけるぞ!」


 彼は子供に聞こえるよう、何度も声を張り上げた。


 子供は、彼の顔と肩にしがみついてようやく身体が安定した。震え泣きながらも、何度目かで目があって、頷き返してきた。


「おじさんの言葉が、分かるな?」

「うん」

「しっかりしがみついていなさい」


 言われた通り、子供が彼の背中側から首に腕をかけて、しっかりとしがみついた。


 子供の体重は、すっかり体力を奪われた老体の彼の身体には、辛かった。海面に顔を出しているのがようやくで、向かう方向からぶつかってくる潮の流れが、彼の手足をより一層重くした。


 彼は子供を背負ったまま、海岸がある方へと泳ぎ始めた。手足を思い切り動かして泳ぐことが出来ず、どうにか足をばたつかせて前へ進む。


 しかし上下に揺れる波に、いくども顔が沈んだ。しがみつく子供の身体が、無意識に水中を恐れて、逃げるように彼の身体を上から押さえつけるせいだ。


 ――仕方ない、怯えているんだ。慎重にいくんだ。


 彼は、子供に気を配りながら手足を動かした。でも必要な空気を、肺に取り込むのがやっとでもあった。大きく動かす手足は体力の消耗にあえぎ、水中で震え始めてもいた。


 抗いようのない波が彼の前に立ち塞がり、子供もろとも押し流そうとしていた。己の不甲斐なさに打ち震え、彼は役立たずな手足を厳しく叱りつけた。


 こんな波ぐらいがなんだっていうんだ! 進め、前へ進め!


 彼は、必死に波をかきわけて泳いだ。沈みそうになるたび、気力を振り絞り、すっかり老いた手足で抗いようのない波の流れに逆らおうとした。


 海水で痛む目が、左足の関節が、ずきずきと痛みを訴えてきた。


 次第に聴力や皮膚感覚も低下し、水中が冷たいのか暖かいのか分からなくなる。しかし、彼は首と、背中に感じる子供の存在だけは離すまいと己を奮い立たせた。


 彼は波にもまれながら、出産予定日の前に流産してしまった我が子を想った。そして、不妊治療を経てようやく授かった、二番目の息子の最期を思い出した。


 医者になる夢を持っていた息子は、友人達と登った山で遭難し、彼がどうすることも出来ぬ間に冷たくなって帰って来た。


 運命は時として残酷だ。けれども彼は、一番目の子を想う時、妻のお腹の中で確かにあの子が生きていて、妻と共にその子に語りかけ、まるで三人で暮らしているかのように幸福だったことばかりを思い出してしまう。


 二番目の息子とは、親子として衝突することもあったが、それ以上に幸せな日々を共に過ごせた。家の引き出しにしまわれた沢山の写真には、語りきれぬ多くの幸福ばかりが詰め込まれていて、それは彼にとって宝物だった。


 他人に多くの素晴らしい思い出を語ったとしても、その想いまで正確に伝えることはできないだろう。


 いずれその人が最愛の人を見つけ、子を授かり、そうやって夫婦共に年を取っていき、実感と共に不意に気付くことなのだ。不器用な彼は、堪え、耐え、そうやって今までを生き続けてきた。


 ――そんな俺も、ここでしまいになるのか。


 ふと、自分がこんな時になって過去を思い出しているのに気付いた。彼はそうじゃないと歯を食いしばり、波に押し流されまいと集中して泳いだ。


 もうろくとした目で前を見据え、永遠とも思われる長い間を、懸命に泳ぎ続ける以外はまるで考えが浮かばなかった。


 不意に、彼は誰かが自分を呼ぶ声を聞いた。


 気付くと、すぐそばまで泳いでくる人の姿があった。そして、しっかりと彼の腕を掴んだのは、海岸で見たカップルのうちの若い男だった。


「爺さん、よくやったな! 釣りのおっさんが、車まで道具を取りに行ってくれているから、もう大丈夫だぜ」


 若い男は、セットした髪を海水ですっかり濡れらしていた。かき上げられた前髪の下にあったのは、若々しい安堵の表情だ。


 男が、子供の方を引き受けて自分にしがみつかせた。そして、彼の身体にも腕を回した。


 しばらく呆けていた彼は、若い男が合図するように、大きく腕を振るう先に気付いて目を向けやった。


 そこには人の集まりがあった。先程の二人組の若い女性達、小学生の男の子達、そして戻って来たらしい釣りの男と、学生服を着た少年達の手には、それぞれ漁船に置かれている救助用の浮き袋が抱えられているのが、霞んだ視界で見えた。


 おそらく、大半は自分の恋人に向けて手を振っていたのだろう。若い男がようやく片方の腕を降ろして苦笑した。


「しっかし、あのおっさんが酒飲みのウミンチュで本当によかったよ。船に持って行く道具を乗っけたまま、ここ数日、釣りと酒を楽しんでいたらしい。先々週は台風もあったってのに、全く、したたかだよなあ」


 彼は、気を紛らわせようとするその言葉に相槌を打てなかった。その目から、一つ、二つと、静かな涙がこぼれ落ちていた。


 本当は、寂しさに押し潰されてしまいそうな日々だった。


 彼はずっと、誰か助けてくれと叫びたかった自分の気持ちにも気付いた。この寂しさや悲しみが、思い出されるばかりの温かい過去で埋まってしまえばいいのにと、どんなに思ったことだろう。


「子供を、助けてくれてありがとう」


 救えなかった我が子に重ねて、彼は目元を腕でこすった。すると若い男は、困ったように小さく苦笑して言う。


「助けたのは、お爺さんだよ。本当にお疲れ様」


 若い彼が、子供と彼をさんばしまで連れて泳いだ。救助準備が整い、例のウミンチュの合図で、太いロープに繋がれた浮き袋が海に投げ込まれた。


「俺の逃した魚は、絶対大きかったはずなんだからな!」


 釣りをしていたその男の、安堵と称賛を含んだ大きな一声は、やや遠くなった彼の耳にも、しっかりと届いた。

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