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老人と沖縄(4)

 もう、帰ってしまおうか、と彼は思案した。


 じょじょに足は重くなるばかりだった。


 もう一度あの喫茶店へ引き返してみるのはどうだろうか。結婚する前の妻がよくやっていたように、コーヒー一杯で俺も幸せそうに微笑めたのなら……どんなに良かっただろう。


 そんな男ではないとは、自分がよく分かっているからできなかった。


 でも結局のところ、そう考えながらも彼は歩むことをやめられなかった。何故だか、自分がどうしてもあの海岸へ行かなければならないような、奇妙な胸騒ぎに似た不思議な思いに急かされている気さえした。


 海岸までの道のりは、数年前となんら変わりなかったが、彼の身体はすっかり倦怠感に包まれて重くなってしまっていた。


 食事の後は、いつも腹に膨張巻と吐き気が起こるし、無理をすると手足には黄疸が出た。筋肉は落ちる一方で、体力が戻ってくることはない。


 だから、仕方がない。


 どうにもならないのだから、しようがないのだ。


 彼は肝硬変だった。それを悪化させたくなければ、うまく付き合っていくしかないということは、彼もじゅうぶんに分かっていた。これは腫瘍とは違って治療する術がなく、悪化の歩みを遅くし、維持し、付き合っていくしかないのだ。


 道を進むにつれ、潮の匂いが鼻をついた。微弱だった風が、たびたび服をはためかせて吹き抜けていく。


「ああ、海だ」


 その海岸が見えてきた時、彼は変哲もない光景を見て自分を嘲笑した。俺は何をやっているんだと、途端にバカバカしい思いが込み上げてきた。


 海岸には、遠くなっていく大型の漁船を眺めながら、面白くもなさそうな顔で釣り竿を握る中年の男が一人。休憩がてら立ち寄って歩いているらしい、二十代前半の男女が一組。彼らを追い越す小学生男子達が、大笑いの騒ぎようで駆け回っている。


 最後に来た時と変わらない光景だった。雰囲気も、匂いも、最後に友人と共に後ずれた時と違いはない。


 彼はくたびれた足をひきずり、釣りをする男の脇から海を眺めた。弱くなった日差しが、にわかにしけった波に反射していた。底が深い部分は青が濃い。下を覗き込んで見ると、底なんて見えずどこまでも深いような錯覚にとらわれた。


「何か、釣れますか」


 彼は自然にそう尋ねていた。


 釣りをしていた男が、怪訝そうに彼を振り返った。だが、ふと見覚えがあるような表情を浮かべると「ああ」と数秒遅れで答えた。


「食える小物が、少々釣れる程度だが。ところであんた、俺は見覚えがあるんだが、よくここに来ていたことがあったかい?」

「数年前に、友人に連れられてよく通っていた」

「ふうん、そうか、そうか。なるほどなぁ」


 男は、再びゆるやかな時間を満喫するべく海へと顔を向けた。その男が腕を置く分厚いコンクーリ塀の上には、そのへんで安く売られている缶タイプの灰皿が置かれてあった。


 そこからよくよく辺りを見回した彼は、意外とまだ奥に人が多くいることに驚いた。向こうのさんばしでは、学生服を着た少年が三人いて、スポーツ自転車を踊るように扱っていた。近くでは走り回ってはしゃいでいる小学生軍団がいる。


 彼らとは逆の方角には、若い女性二人の姿もあった。綺麗な身なりをした彼女達は、彼にとってどうも見慣れしなかった。しかし、じっと観察してふと、そのうちの一人がベビーカーに手を添えていることに気付いた。


「なるほど」


 最近は、昔よりも散歩や休憩がてらに立ち寄る人が多いのだろう。後ろの少しの芝生をこやした空き地の向こうには、当時より建物も多く建ち、国道を行き交う走行車の様子も見える場所だった。


 彼は釣りをする男と同じように、縁に腰を下ろすと、何も考えずに海面に起こる白波を眺めた。昔はもっと美しかったと、彼は若い頃の時分を思い出した。


 あの頃は、バイクが好きな友人達がいて、漁師見習いの後輩がいて、海はどこまでもキラキラと輝いて美しかった。


 ビーチだろうと海岸だろうと、同じ海を目にすることが出来た。終戦の名残なんて感じさせないほど、海はどこまでも澄んで青かったものだ。


 そう思い返していた時、男の釣り竿の先がピクリと揺れた。


「何か食い付き始めているぞ」


 男が言って、独り言をぶつぶつと続けた。


「釣れたら、今日はもう帰るぞ。美味い酒が俺を待っているんだからな」

「長いことヒットしなかったのか?」


 彼が尋ねると、男は反応の収まった釣り竿の先を睨み見据えたまま、嫌なことを思い出したような顔をした。


「今日はついてなかったんだ。海に石を投げるクソガキもいたし――まあ、叱ってやったがな」

「そうだったのか。クーラーボックスは空なのか?」

「おぅ、虚しいが、まだ空だよ。さっきは虚勢をはっちまったのよ。いつもなら連れるんだぜ、小物が数匹くらいはよ」


 男は、視線を竿の先からそらさないまま、ぶつぶつと言った。


「後から来た奴らが魚を釣っていって、プロの俺が全く釣れないなんて悲しい話はよ、酒の席のネタにしかならねえだろうが」


 すると、再び釣り竿の先端が震えた。


 男は真面目な顔でじっと息を殺し、その経過を見守る。彼もまた、その様子を黙って見つめたが、聞こえてくる男の子達のバカ騒ぎに耳は密かに向いてしまい、男ほど真剣にはなれなかった。


 釣り糸が、先程より大きな反応をし始めた。釣り糸が海の中へと引っぱられるたび、釣り竿の先が上下するのを、二人はじっと見つめた。


 彼は、魚が食いつくのを待ちながら、深い海の中にいる魚の動きを想像した。隣では、男がその間に期待感を膨らませて述べた。


「結構デカいかもしれないぞ。食い付きが違う。俺には分かるんだ」

「プロなのかい?」

「プロっつうか、どっちかってぇと俺は陸釣り専門ではなくて、海――」


 その時、大きな水音が二人の耳に入った。


 その音に反応したかのように、釣り竿が一度激しく震えた途端に静まり返ってしまった。どうやら、どこからの音に驚いて魚が逃げてしまったのか。


 男の顔が、みるみるうちに赤くなり、怒りの形相へと変わっていった。


「俺の魚を逃がしやがったクソガキは、どいつだ!」


 しかし、怒号して振り返った男は、自分の声が全く気付かれないという、先程とは違う海岸の異変に口をつぐんだ。


 同じく目を向けた彼もまた、空気が変わったことを察知した。


 何やら騒がしい。耳を済ませて、目を凝らした。気のせいか、先程まで走り回っていた男の子達のうちの一人が、塀に登って残りの子達と共に海に向かって叫んでいる。


 向こう側で自転車をやっていた学生達が、何かあったのだろうか、という顔をして自転車を滑らせていく。すると顔を真っ青にした二人の女性が入れ違いで駆けて来て、近くにいた若い男女のうちの男の方に叫んだ。


「子供が落ちたの! 子供が落ちたのよっ!」


 パニックになったのか、ベビーカーに赤子を乗せた女性も同じことを叫んでいた。駆けつけた自転車の学生服の少年達が、びくりとしてお互いの顔色を窺い合う。


 男が、釣り竿を離せないまま喉仏を上下させた。


「ま、まじかよ……あっ、爺さんどこへ行くんだ! おい、待てったらっ」


 彼は、釣り男の制止の声も聞かず、老体でがむしゃらに走って子供達のところへ駆けた。


「危ないからどきなさい!」


 塀に座り込んだままの子供に一喝し、すっかり筋肉の落ちた腕で塀に身を引き上げる。気付いた男の子の一人が、その後の行動を察知して慌てて彼を引き止めた。


「お爺さん、危ないよ!」

「こんなことをしている時間こそ、もったいないだろうが!」


 誰が助けるか、どうやって助けを呼ぶか。


 そんなこと、彼は考えていられなかった。そんなことは飛び込んだ人間のあとに、残った誰かがやればいい。


「誰か人を呼べ! いいな!?」


 彼がしっかり言い聞かせると、小学生の男の子達が青い顔のまま、でもお爺さんだからと止める台詞も出せなくてこくこくと頷いた。


 彼は、そのまま一直線に海へと飛び込んだ。


 途端に全身を冷たさが打った。海は、彼が想像していた以上に冷たかった。しけった波にもまれ、中の海流に一気に体温を奪われるのを感じた。


 彼が最後に泳いだのは、もう十年、いやへたすると二十年も前の話だ。もがきながら、どうにか海面に顔を出した時、向こうへと流されていく子供の頭が見えた。


 どうやら子供は泳いだ経験はあるらしい。溺れかけながらも、足の届かない海の上でどうにか呼吸を確保しようとしていた。潮水はプールの水よりも浮力が強いが、動きのある水の中で小さな子供は無力だ。


 子供の体力があるうちに助けなければ。


 そう思った次の瞬間、彼は大きく息を吸い込むと流れにそって泳ぎ出した。

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