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老人と沖縄(3)

「こんな俺にもさ、学士だった時代があったんだぜ。学生運動にも参加してたよ。面倒だとか、億劫に思うことなんて、一度もなかったっけな」

「そうか」

「うん、そうなんだよ。胸にはさ、いつも突き上げるような熱い想いが漲っていてさ。どこまでも枯れ果てることを知らない、無尽蔵の海みたいなもんだった。でもさ、他のやつらときたら、今となっちゃ皆お偉い人間になっちまってんだもんなぁ」


 懐かしみと愛しさを噛みしめた男の目が、古いアスファルトに熱く注がれた。声は、急速に柔らいで優しくなった。まるで湖面を飛び立つ美しい白鳥の呼吸に触れるかのように、大事そうに紡いだ話に一区切りをつける。


 ふと男が、彼の存在を思い出したように目を上げてきた。


「でもさ、昔は辛くて悲しいことばかりだったんだぜ。でも、どうして思い出される過去ってのは、全部きらきらと輝いて、暖かく思えちまうんだろうなぁ」

「取り戻せないもの、だからだろう」


 彼はそう言って、足をひと休みさせるべく隣の段差に腰を下ろした。こじんまりとした商店以外には、すっかり錆ついたシャッターが降りている。通りの頭上は遮られているから、日差しの届かないアスファルトは年中冷たい。


 男は話すことに満足したのか、心地いいまどろみにつかり始めた。腫れぼったい瞼が、安心感を得たような瞬きを繰り返す。


 その間に、二、三人の人間がぽつりぽつりと通り過ぎていった。


 まるで世界中一人きりのような侘しさ中で、彼ら二人だけが、心を寄り添わせているかのような孤立感があった。


「寒くはないか」


 彼は男に訊いた。


「冷たいよなあ」


 男は独り言のような呟きを返してきた。


 二人はお互い、遠い過去から現在に到るまでを思い起こして沈黙した。けれど男の方は、そうしているうちにも眠りそうだったので、彼はおいとまするべく膝に気をつけながら慎重に立ち上がった。


「もう行くのかい?」


 男が眠たげな口調で問い掛けてきた。


 彼は「ああ」と答えた。男は「そうか」と吐息交じりに呟くと、酒をありがとうと唇を微かに動かせたあと、穏やかな寝息をたて始めた。


 それでも岐路につく気分にもなれず、彼はまずは来た道を引き返すことにした。


 過去からの苦悩と憂鬱が共にやってきて、彼の足を絡め取るように重くした。素晴らしい日々や想いもあったが、彼が次から次へと遭遇した人生の試練は、あまりにも長く彼を悩ませ続けていた。


 俺一人だけがそうじゃない。


 誰もが出会いと別れ、そして人生に悩みながら生きているんだ――。


 だから彼は、できるだけ考えないように生きてきた。仕事の理由がなくなってしまい、頑な心に我が身として壮年の実感が触れ始めた時、だから「放っておいてくれ」と彼は苛立ったほどだ。


 次第に人の往来が増え始め、気付いた時には賑わう店々が彼の前に開けた。


 国際通りへ抜けた途端、眩しさが彼の目を射た。たくさんの観光客や移住者を前に、つい立ち竦んでもしまったのだ。


 そんな彼を、前から後ろから流れてくる人達が邪魔そうに見やった。わざわざ目を向けてこんでもよろしい、と彼は卑屈な心で思った。


「ひとまず、歩こうか」


 彼は短い間思案し、そして呟きを落としてから一人歩き出した。


 観光客向けの雑貨を扱う店の前まで来た時、店頭に飾られているブルーの加工石のキーホルダーが目に留まった。


 それは、美しい海の色を彼ら呼び起させた。


 そういえば、最近は海を見ていなかったことをふと思った。


 沖縄は快晴ではあったが、太平洋を横断した低気圧の影響でまだ波はしけっていた。彼もそれは知っていたものの、数年前に脳梗塞で亡くなった友人が、いつも釣りに付き合わせてくれた海岸が脳裏に浮かんだ。


 ――そこへ行ってみようか、と彼は思った。


 陽がすっかり暮れてしまうまで、時間はたっぷりある。何より、そうやって時を過ごすことで、しばらくは家から目を背けることができるような気がした。



 長く運動が出来る身体ではなくなっていたので、彼は休憩を挟みながら、その海岸へと向かった。


 国際通りでかなり歩いたせいか、そこからバスに乗り、途中で降りて再び歩き出そうとした時には、何度も休憩を取る必要があった。


「バスだと、距離を感じるな」


 ふぅと額に浮かぶ汗を拭った。昔は、彼も友人と共に釣り具を抱えてよく歩いた。とはいえ酒の予定がなければ、近くの駐車場に車を停めて楽をしていたのも事実だ。


 彼は体力の限界を感じ、途中、目に留まった喫茶店に入った。


 こじんまりとしたその喫茶店には、客が一人もおらず、愛想のいい若いウエイトレスが一人と、彼と同年らしいマスターがカウンターに立っていた。


 彼が席につくと、手際良く氷の入った水が出された。注文をすると、マスターがキッチンへと入り、そうして間もなく温かな食事が出された。


 この歳になっても食欲はあったが、ここ数年守り続けているように、彼は健康重視の軽い軽食をとるに留めた。遅れながらも昼の分の薬はしっかりと飲み、ついでに膝と筋肉の痛みを和らげる漢方薬も服用した。


「昔は、国際通りに店を持っていたんですよ」


 その間、マスターがのんびりと話しかけてきた。身体には気をつけてはいるが、最近は全く体重が増えなくなったことが気がかりだという。確かにそのマスターは痩せていて、けれど背が伸びた姿勢が若々しくもあった。


 店内には、ひどく落ち着いた空気が漂っていた。客席は十もなく、通路も狭い。


 彼が食後のコーヒーを飲んでいる間、マスターは客席に腰を降ろして丁寧に石榴の赤い種をボールに分けていた。ウエイトレスは店内にかかる洋楽を時折口ずさみつつ、にんにくの皮をゆっくりとむいていく。


 やや古風な西洋作りの掛け時計、シックな店内の内装に、木製のテーブルや机やカウンター。壁際の棚やカウンター前には、雑誌や漫画、本などが置かれてあった。


 彼は、この店の雰囲気がすっかり気に入った。こんなところに、あの頃のような素晴らしい喫茶店があるとは思ってもいなかった。


 予想以上に長居をしてしまったものの、時間に急かされる気持ちはまるで起きなかった。充実した時間に触れられたことに、彼は心から感謝を覚えてマスターに伝える。


「また来るよ」


 マスターとウエイトレスは嬉しそうに微笑み、「またのご来店をお待ちしております」と言って彼を見送った。


 もう太陽は西日だった。どうしてか、この時間の空気を吸っていると、いつも若い当時岐路についていた一抹の寂しさを覚える。


 彼は海岸へと足を進めながら、もう帰ってしまおうか、とも考えた。


 学校を終えた子供達の姿が、ちらほらと目についていた。先程よりも弱くなった日差しが、長年続いた生活リズムにそって、彼を家へと連れ戻そうとしているかのようだった。


「帰ったって、何もないのにな」


 薄くなった空の青空を眺め、ぽつりとこ言葉が唇から落ちた。


 妻が他界してからは、用意された夕食を食べるという彼の日課は、とうに消えてしまっていた。それでもこの時間帯になると、彼は時々、彼女が死んでしまったことを忘れてこう考えてしまったりするのだ。


 そろそろ、あいつも買い出しを済ませて、夕食の仕込みをし始める頃だろう。仕上がるまでには俺も用意をすませて、帰って食卓についておいてやらなければ……。


 彼は、誰よりも長いこと、妻と二人で過ごした。


 とうとう彼女が病に倒れ、入院したベッドの上で認知症を併発させて、彼のことを忘れてしまった時でさえ、毎日会いに行き長い時を過ごした。


 家と病院を往復する生活は、簡単な話ではなかった。しかし、彼はどんなに辛いことがあっても、黙って耐え偲ぶことの出来る人間でもあった。


 彼女の前では、誰よりも一番に信頼を置かれる男であり続けたいとも思っていた。だから妻が最期に見せた穏やかな微笑みと、満足げな涙で、全ての苦労などゼロになり――それだけで、じゅうぶんだったのだ。


 彼は、そんなことを思い出しながら歩き続けた。今になって急速に、妻との思い出が頭をもたげてくる。隣に、向かい側に、そして斜め後ろに、ポッカリと空いた物足りなさは、今に始まったことではない。

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