老人と沖縄(2)
運転手は腫れぼったい目をした、しまりけのない体格をした三十代後半ほどの男だった。バス会社のお決まりの台詞のようなものを述べてから、眠たげな目を彼に寄越してきた。
彼は、顎を上げて堂々と足を踏み出したのだが、まるでいくぶんも高くなったかのようにも感じたバスの段差に左膝が痛んだ。
チクショーと思いながらも、一人でできるんだと装って手すりを使った。しかし、彼は表情も歪んでいたし、もう見る限り一生懸命になっているのは誰の目にも明らかだった。
「おいおい、大丈夫かよ、じいさん」
ようやくバスに乗り込んだ時、一番近くの席に座っていた若者が声を掛けてきた。彼は自分に集まった視線を知ると、冷や汗をかきながらも不機嫌に答える。
「大丈夫だ」
俺はまだ腰が曲がってなんかいやしないぞ。そんな気力は、バス内の通路を進み出した頃には、すっかり弱ってしまっていた。
固い座席に腰を降ろした時、彼の口から思わず深い溜息が漏れた。
運転手の気だるい声を合図に、バスの扉が閉まってゆるやかに走り出した。
運転手が到着予定のバス停名を告げる。若者がガムをくちゃくちゃと噛む音以外、車内はがらんとして静かだった。
けれど普段は強すぎるようにも思われた冷房は、直接受ける日差しの熱に汗ばんだ身体には、心地の良い涼しさに取ってかわっていた。
秋は、まだまだなのだ。
彼はそう思いながら、車窓から青い空を見上げていた。
そうやってバスが目的地に着くのを、ぼんやりと待ち過ごした。通り過ぎていく風景の中で、しばらく馴染みのない街並みが続いた。
更地だったこの土地が、「おもろまち」や「天久新都心」として急速に発展したのは、彼が独りきりになってしまった後のことで、そこには思い出も何もありはしなかった。
「御乗車、ありがとうございました~」
そんなお決まりの台詞を聞きながら、彼は国際通りの中腹でバスを降りた。
車内の冷房に慣れてしまっていたせいか、外の空気は、乾燥しているというのにやや蒸し暑くも感じられた。通りには多くの車や歩行者が行き交い、排気ガスや換気口からの熱気、騒音とも思えるたくさんの音が彼を苛立たせた。
彼はポケットに両手を突っ込み、目的もなく通りを真っ直ぐ歩いた。
この時期は、国や県の違う賑やかな観光客達がまだ多くいた。
場所も考えず写真を撮る者もいるし、土産品店を興味津々に眺めていたり、商品を実際に購入したり、同じグループの誰かを待っているらしい姿も見受けられた。
「国際通りも、もうすっかり変わっちまったな」
彼は思ってそう呟いた。どこに目をやっても、まるで知らない店ばかりが並んでいた。時々は同じ県民らしき顔が目に留まるものの、少数だ。
肩がぶつかっても平気な顔触れの人間や、通りの真ん中でゲラゲラと笑い合う集団や、横断歩道のない道路を我が物顔で横断する人々に、ふつふつと怒りが込み上げてきた。
いずれ、沖縄は大和人だらけになる。
俺達は、すっかり追いやられてしまうだろう。
彼は、そんな卑屈なことを思ってしまった。まるで八つ当たりのようなことだと分かっていた。そんなことはないだろう。けれど苛立ちは、これまで感じた一つずつの嫌な思いと記憶を、彼の中から知らず知らず引っ張り出してしまう。
伝統的な夜のエイサーも、地域のお祭りの花火も、苦情があって取りやめになってしまった場所があるのだということを、彼は少なからず耳にしたことがあった。
この土地の、先祖や神様を大切にする心からの習慣も、そうやって次第に脅かされていくのだろうか。
「……パーランクーの音は、悪霊を退散させてくれるのにな」
悪いモノが、嫌う。そして土地の神様や、沖縄の神様や精霊、そしてご先祖様達が喜んでくれる音だ。
だから練習音だって、地元の人間は笑みを浮かべて耳を済ませるというのに。
「いや。そんな話を、もう知らない世代だっているのか」
まるで昔話でも繰り返してしまったみたいな気持ちになって、彼は仏頂面で口元を引き結んだ。
老いが、というよりは、元からの性格ゆえであるのを分かって自己嫌悪した。
南向けにゆっくりと足を進め、通りの終わりで反対側の道へと渡った。それから引き返すようにまた歩き出した。
知らず知らず、しんみりとした気持ちで通りの様子を眺めていた。今とはまるで違うはずの遠い過去が、彼の五感を伝って記憶の像をそこに重ね合せようとするのだ。
だだっ広いこの国際通りを、年齢も様々なたくさんの県民達が行進していく光景が蘇る。そこには彼と、二十年前に脳梗塞で亡くなった三番目の兄の姿もあった。
――沖縄~を返~せ、沖縄~を返~せ……。
米軍のお偉い人間がいる建物の前を、彼らはそう唱えながら行進したものだった。学生達も一団となって、抗議の旗などを持ち一緒になって活動を行った。
当時、皆が同じ歌に同じ想いを乗せて、沖縄を返せと訴え続けた日々だった。パスポートを持って日本へと渡り、その差別にも耐えながら歯を食いしばって、当時は両方と戦っていたような気持ちだった。
今になってもまだ、彼はその歌を覚えている。
何度も繰り返したその歌が、当時の複雑な思いと共に、喉や胸に刻みついて離れないのだ。
しかし彼は、不意に、それを知らない今の時代に寂しさが込み上げた。大通りの様子から目をそらすように中通りを進んだ。
迷路のように入り組んだ商店街だ。懐かしい名残が続く通りを、足が覚えているままに奥へと進んだ。数年前まで仲間と酒を飲み騒いでいた酒屋は、すでにシャッター街の一部と化してしまっていた。
そのまま立ち去ろうとした時、無精髭を生やした色黒の、痩せた浮浪者がムクリと上体を起こした。何かを腕に抱え、胡坐をかいて半分ほど残った黄色い歯を覗かせる。
「一杯飲まないかい?」
男が、舌の回らないような口調で声を掛けてきた。
「どうだい、俺とあんたで半分ずつ出せば酒が一本買えるぜ」
彼は断ろうとしたが、やや年下そうではあるものの、ほぼ同年代らしい男の顔を見やっているうちになぜだか言葉を掛けたくなった。
「昼間から、酒を飲むのか?」
「飲みたい時に飲んで、寝たい時に寝る。でも今はさ、もう一眠りする前に、酒をチビリと飲みながら、誰かと話したい気分なんだよ」
男はそう口にしながら、今にも眠りに落ちてしまいそうに頭をぐらぐらと揺らせていた。よくよく見れば、彼が抱き枕のように腕に抱えているのは、空になった一升瓶だった。
彼は、男の様子を眺めしばらく考え込んだ。
ちょっとした道草がてら、男の話に付き合ってやるのもいいだろうという気が起こった。どうせ予定もない、自由気ままな散歩のようなものなのだ。
「いいよ」
彼はそう答え、中年の女店主が一人いるだけの小さな商店で、一番安い島酒を一瓶買った。
彼が酒を差し出すと、男はしばらく呆けた顔で見つめてきた。話したことを忘れてしまったのだろうか?
「ほら。俺とあんたで飲むんだろ」
彼が教えるように言って酒瓶を寄せると、男がややあってから「ありがとよ」とを受け取った。
「あんた、いい人だねえ」
男は、先程のやりとりを忘れてしまったようだ。抱えていた空の瓶と取り替えると、ふらふらになった手で蓋を開け、そのまま一人でグビリと喉に流し込んだ。
「楽しいねえ、愉快だねえ……」
男は満足そうに笑い、酒瓶の蓋をしっかりと締めた。
「あの時代も、良かったっけなあ。あーあ、ほんと、毎日が賑やかだったよなあ」
そう言うと、男は再び酒瓶を抱え込んで横になった。頭上の空瓶のことなど、全く気づいてもいない様子で幸せそうに目を閉じる。