走るリリア
エリック様が、少し優しくなった。
目が合っても嫌な顔はされない。むしろ、心なしか哀れんでいる気がする。いや、あれは完全に可哀想なものを見る目だ。
その視線の意味はちょっと気になるところだけれども、資料室で少し会話をしたこと、あれが良かったのだと思う。
やっぱり、結婚したくないアピールが効いたんだろう。
地雷踏んで地固まる。人間万事塞翁が馬。ほんと良かった。
まあ、それでもやはり普通のクラスメイトより距離があることは否めない。
私の場合普通のクラスメイトとも距離があるけどね。はっはっは。いや笑えない。
ともかく、こんな風に二人きりになるのは、非常に気まずい。誤解されないよう、扉は開けっ放しにしているが、この辺りは全く人が通らないのだ。ゆえに、しいんと静まりかえっている。
放課後、埃っぽい資料室で私とエリック様は二人で向かいあって座っている。
綴じ紐が緩んだ本や、汚れや傷みが酷い本の仕分けをしていた。無言が続いてる。天気の話は一瞬で終わった。
私が通うこの学園は、国で一番古い学園だ。その昔この国を作った王様が、国を担う若者に高等教育しようと作ったのが始まりで、王族から優秀な平民まで門戸が広く開かれている。
確か来年は王太子様も入学されるのではなかったか。そしてエリック様の妹さんが、その王太子の婚約者なんだよな……華麗なる一族だ。高貴すぎて怖い。
そんなこの学園は改築を繰り返してはいるが、歴史ある分古い備品がたくさんある。直せるものは補修し、難しい物は廃棄するのだ。
そういった作業は、通常監督生が行う。
監督生のエリック様が先生に頼まれている時に、たまたま居合わせた私も先生に一緒にやってと頼まれてしまった。
エリック様はさぞかし、嫌だったろう。顔強張ってたもん。
「間の悪いところにいてすみません……」
「君は悪くないだろう、謝ることはない。それに助かる」
目を伏せて作業をするエリック様は、今日も今日とて麗しい。そして優しい。顔がいい。かっこいい。
綴じ紐がほどけてバラバラになった本を、丁寧に補修テープでとめている。全くズレずにまっすぐ止められているテープにエリック様の性格が現れている。
「…………」
私の手元を見る。まあ、やや斜めだがご愛嬌だろうか。いや、よれてるな……。
私の視線に気づいたのか、エリック様が私の手元を見る。
「君は存外、不器用なのか」
「違います。エリック様が器用なんです」
「ははっ。それなら補修テープは僕がやろう」
口元に軽く笑みを浮かべたエリック様に、思わず見惚れてしまう。苦笑以外の笑顔を初めて見た。眼福や……。
見過ぎたのか、エリック様が私からふいっと目を逸らし、こちらを頼む、と表紙の汚れを落とす磨き粉と、布を渡してくれた。
◇
無心になって汚れを落としていたら、思ったより遅くなってしまった。
エリック様が先生に終わったと伝えにいくというので、私は先に帰ることにした。彼もそろそろ一人になりたかろう。私はなりたい。疲れてしまった。
荷物を取るため、教室に入ろうとするとクラスメイトの話し声が聞こえてきた。
私が急に入ったら嫌な思いをさせてしまうのではないか。近頃反射的にそう思うようになった私は、一瞬足を止めた。会話が聞こえてくる。
「リリア様、なんかすっかり変わったね」
「でもさ、絶対本性変わってないでしょ。先生のお使いなんかして、いいこちゃんアピール凄いじゃん」
「あのままじゃエリック様との結婚も危ないと思って必死なんじゃない。あの方と結婚なんて、エリック様もかわいそう」
入ってくる言葉たちに、私は固まっていた。
まあでも、そうだよなあ。納得する。確かに急に先生の手伝いとかしだしたのは、変わりましたよアピールのためである。いい子ちゃんアピールに他ならない。
でもショックだな。今、入らないほうがいいよね。私もどんな顔すればいいかわかんないし。
ぎゅっと拳を握る。静かに後ずさろうとした時、後ろから怒気まじりの声がした。
「君たちの品性を疑ってしまうな」
エリック様だ。
菫色の瞳に怒りを湛えて、彼女たちを見つめている。
青ざめる彼女たちに追い討ちをかけるかのように、さらに眉根を寄せて続けた。
「僕はリリアが君たちの思うような理由で動いていないことを知っている。けれど、たとえどのような理由であっても人のために動く彼女を揶揄する資格が君たちにあるのか?」
いや、彼女たちの思う通りです。そう思ったけど胸が詰まって言えなかった。
エリック様が静かに、でも深く怒っている。彼女たちはもう言葉も出ない様子だ。
「だ、大丈夫ですから! 別になんとも!」
泣き出しそうな彼女たちを見て、慌ててエリック様に告げると、エリック様はなんだか悲しそうな、泣き出しそうな、怒ってるような、不思議な顔をした。なぜそんな顔をするのかわからない。
そうして彼女たちも、今私に気づいたようだ。怒るエリック様しか目に入ってなかったのだろう。
私を見てさらに真っ青になった彼女たちの顔に悲しくなった。私が彼女たちに何かすると思われたのかもしれない。
居た堪れずに、思わずくるっと振り向き走り出した。
後ろから、エリック様の声が聞こえた気がした。でももう何も、見たくない。
中庭まで走った。疲れた。ほんと疲れた。
全身で息を吸う。なんだか腕や太ももがぷるぷるする。明日を待たずに筋肉痛になりそう。
ベンチに座って、深呼吸をする。抱えた膝に額をつけた。涙が滲んできた。
ああ、もう疲れたな。
記憶が戻って一ヵ月、まだまだ前世の感覚が強い。
けれど、私は前世での自分の名前も家族の顔も覚えていない。ただリリアじゃないという意識があって、周りから物凄く嫌われてて、それでも頑張った。でもやっぱりこうしてうまくいかない。
リーナは友達になってくれたし、こっちの両親も良くしてくれる。エリック様の目もゴキブリから足のもげたカマキリを見るくらいには優しくなった。そしてさっきみたいに、態度自体は凄く優しい。
でもそれは彼らが優しいからで、ただ無理をさせているだけなのかもしれない。
もう、話しかけるだけで怯えられたり、違う学年の知らない人たちが見学しに来たり、いつまで猫被りが続くのか、と賭けに負けた人のひそひそ話が聞こえるのも辛い。
「君は、意外と足が速いな」
ひたすらに落ち込んでいると、頭上から声が降ってきた。エリック様の声だ。
顔を上げると、エリック様は息を呑んだ。
私の荷物を持ってくれている。ちょっと息が荒い。走ってきてくれたのだろうか。
それでも今、顔を見たくなくてまた膝に額をつけた。ほっといてほしい。申し訳ないけど。私は今最高に醜い。気持ちがぐちゃぐちゃだ。荷物なんてそのへんに投げてくれればいい。
私の無言の抗議に気づいたのか、エリック様が少し慌てているようだ。
「追いかけてきて悪かった。君に謝りたくて」
息を吸う音がする。
「僕も君を誤解していたようだ。すまなかった、君が優しく朗らかな人だと、つい最近気づいたんだ」
びっくりして顔を上げる。
結婚したくない気持ちはちゃんと伝わったとは思ったけど、まさか優しいと思われてるとは夢にも思わなかった。
「そして、侮辱された時は怒っていい。むしろああいう時は怒るんだ、人間なんだから」
「…………」
エリック様が必死に慰めてくれている。
本心からそう言ってくれてることがわかって、ほんの少し心が柔らかくなった。
「大丈夫だ。きっと気づいてくれる人は他にもいる。協力するから」
また一粒涙をこぼした私に焦ったのか、エリック様が慌てた。
「……エリック様は、優しいですね……」
顔を拭って言うと、エリック様がほっとした顔をした。
「いつも助けてくれて、ありがとうございます」
涙が滲んだまま多分下手くそであろう笑顔を作る。
エリック様も一瞬驚いた後、微笑んでくれた。
見惚れるほど綺麗な、笑顔だった。





