人生最良の日を、どうか俺と(後編)
付き合うようになってから立ち入るようになったのは、店の中のカウンターの奥にある、小さい部屋だ。
至る所に在庫の本が並べられ、クロエが座るのだろう二人がけの小さなソファとブランケットが置かれてる。
晴れて恋人になり、用事がなくても日曜日に会う大義名分を得られたユリウスは、この小さな部屋でくつろぐことが多かった。
「ユリウスは顔も良いから、他の子が見たらみんな好きになっちゃいそう」
ふわふわの髪を撫でる。ソファの背もたれに押し倒すようにキスをすると、クロエがため息混じりにそう言った。
「……顔隠して生活してみて」
「この状況でそんな可愛いことを……」
体を起こして気分を鎮める。結婚するまで手を出すわけにはいかないが、最近の恋人は可愛すぎて大変困る。
「誰に好かれてもクロエだけだよ」
そう言うと、彼女は、寂しそうに笑っただけで頷かなかった。
クロエはユリウスに「好き」とは言わない。ユリウスがいう「好き」の言葉にも曖昧に笑うだけだ。
クロエの肌の内側に固まった諦めは、ユリウスの心を小さく、けれど確実に傷つけていく。
前に言われた『貴族のあなたを私は信じることがない』という言葉を思い出してため息を吐く。その言葉は多分どういう関係性でも、真実なんだろうなと、そう思う。その理由が何なのか、尋ねる権利があるかどうかもわからない。
◇
「どうしたの、それ」
「似合う?眼鏡かけててもかっこよかったらごめんな」
眼鏡をかけて現れたユリウスに、クロエは戸惑いながら古書店の奥の部屋に入れた。ソファに座ったユリウスを、まじまじと見つめる。
「……もしかして、私がこないだ言ったことを気にしてかけたの?」
「気にしてってほどじゃないし、眼鏡じゃ大して変わらないかなって思うけど。まあクロエの気休め程度になったらいいなって」
そう言うとクロエは目を瞬きさせて、俯いた。罪悪感でも感じてそうな顔に、慌てて明るく話を続ける。
「でもさ、俺の友達にはもうキラキラした王子みたいなのがいるし、余裕がある大人な感じのイケメンもいるし、クロエが心配するほどモテたりしないんだけどね。彼女もいるって言ってるし」
「え?彼女がいるって言ってるの?」
クロエが顔を上げて、変なところで驚く姿にユリウスも驚いた。
「そうだけど」
「平民なんかと付き合ってるって言ったら、将来に響かない?結婚とか、」
「……なんで別れる前提なんだよ」
ユリウスの声が低くなる。
「いずれ結婚したい子と付き合ってるって言って、響く将来なんてないよ」
悲しそうに眉を寄せて黙るクロエを見て、心に黒いもやを感じた。
◇
その黒いもやが爆発したのは、思い出せないくらい他愛もないことがきっかけだった。何をしても信用されず悲しい顔をされて、鬱憤が溜まっていたのかもしれない。
「あのさ、俺が貴族じゃなかったら信じてくれた?俺が平民だったら、結婚しようって言っても笑ってくれるのか?」
そう言って苛立ちながらまっすぐクロエを見つめると、彼女はユリウスから目を逸らした。
「……あなたは貴族だもの」
「そうか、わかった」
勝手に口から出た言葉は、思ったよりも冷たく響いた。
「貴族がどうだ平民がどうだって、俺に心があるって知ろうとしないのはクロエの方だ」
彼女の顔も見ないまま荷物を掴んで、店を出る。
荒れ狂う感情の波に任せて歩いた。とにかく歩いた。
怒り、悲しみ、憤り。ぐるぐる回って吐きそうだけれど、それでも一番大きく頭を占めるのは後悔だ。絶対に今、彼女は一人で泣いている。
頭の中に、泣いているクロエが浮かんだ。あのふわふわの頭や小さな肩を震わせて、散々キスしたあのソファの上で、一人涙を落としているんだろう。
想像したらダメだった。くそ、と舌打ちしながら、ユリウスは走って店まで戻って行った。
◇
些か荒く扉を開けて部屋まで入ると、クロエは想像通りにソファの上で泣いていた。驚いて見開かれた目がユリウスを捉える。顔がぐしゃぐしゃだ。
その姿を見たら、さっきまで感じていた憤りがすうっと悲しみに溶けていく。ゆっくり近づいて、髪に触れた。
「ごめん」
ユリウスが掠れた声で呟くと、クロエが首を激しく振り、私の方こそ、と謝った。
「一緒にいたい」
クロエの顔が歪んで、またぽとぽと涙が落ちた。
その涙を指で拭き取り、薄く開いた唇に自分の唇を重ねる。クロエの腕が首にまわった。ソファに押し倒して、何度も何度も口付けた。首にまわったクロエの腕から力が抜けて、ユリウスの服を力なく掴んだ。
「……」
クロエの目に自分が映る。この目に映るものが全て自分だけになったなら、彼女は余計なことを考えずにすむのだろうか。
出来もしないことを考えて、あり得ないことを望んでしまう。恋がそういうものであることを、ユリウスは初めて知った。
◇
小さなソファの上で寝転びながら、ぴったりとくっつくクロエは泣き疲れて眠そうな目でゆっくり語った。
「よくある話かもしれないけど」
元々クロエはある子爵の娘だった。大恋愛の末に結婚したという平民出身の母は、貴族の世界に馴染めなかった。平民を妻にしたことで、父の家の評判も落ちたそうだ。どこにいっても蔑まれて心を病んだ母に対して、父の気持ちは離れていった。
そして結局、病んだ母に大金を積んで離婚した。母は屋敷を出たその足で、生家であるこの古書店に当時六歳のクロエと渡された金を置き、川に身を投げ命を絶った。
「それが忘れられない」
「うん」
「ユリウスを信じてないわけじゃない。でもずっと好きでいてもらえる自信がない」
「うん」
「私は、貴族と結婚するのは怖い」
「わかった」
淡々と話すクロエの言葉に、何も言えなかった。思うことが色々あった。自分にも、彼女の周りにも。
けれどもう、起きてしまったことは変えられない。
ユリウスは、悠々と生きてくだろう自分の未来に手を振ることを決意した。
◇
ユリウスが決めたことは、クロエには話さなかった。そしてクロエも、ユリウスには何も言わない。
けれど前のように、一緒にいて時折感じる虚しさや寂しさは無くなった。一緒にいることが自然に感じるようにもなった。
くだらない喧嘩もするし、仲直りに時間がかかることもある。未来を信じて疑わない恋人のようだ。
少しずつ季節が過ぎていくことを、二人で一緒に味わうように過ごしていた。
◇
「……めっちゃ痛え」
長期休み。故郷に数日だけ帰省したユリウスは、痛む頬を抑えて王都へ向かう馬車に乗る。
今回、ユリウスは自分の将来について決めたことを報告した。
予想していた通り、父は「爵位は継がない。文官になる。結婚したい子がいる。相手は平民」という事を丁寧な言葉で述べたユリウスの話を聞いて大激怒。国防を担うウィーズリー辺境伯の、熊をも殺しかねない鋼の鉄拳が、ユリウスの頰にヒットした。
「絶対許さん」
父はそう言い捨てて、後はもうユリウスの前に姿を現さなかった。予想はしていた。父は貴族という自分の家系に、強い誇りを持っている。
兄と母は何も言わない。ただユリウスの頰を手当てし、クロエや学園の話を聞きたがった。「良い子そうじゃん」と兄が言い、母は何も言わずに微笑んだ。
◇
「……ごめん、寝てた」
「何だか最近、疲れてない?」
「んー……」
ソファの上で少しうたた寝してしまったようだった。寝不足が祟っている。
今まで親の爵位を受け継ぐものだとばかり思っていたユリウスは、大して勉強をしていなかった。領地経営に関する勉強は入学前に叩き込まれていたし、貴族で一番大切な社交は身に付いている。しなくて良い努力はしない主義だ。そのツケが、文官を目指し始めた今、回ってきている。
頭は悪くない方だが、試験まで時間がない今、睡眠時間を削る他なかった。クロエとの時間は削れない。
「クロエの顔を見てると眠くなるんだよな」
「緊張感がない顔ですみませんね」
「被害妄想がすごい……」
むくれそうなクロエのご機嫌を取ろうと腕の中に閉じ込めようとすると、クロエが初めて自分からキスをした。驚くユリウスに、「あんまり無理はしないでね」と、彼女が恥ずかしそうな、けれど心配そうな顔をした。
◇
季節が過ぎるのは本当にあっという間だ。
気づけば、もう少しで卒業となる。
先週受けた文官試験は、確かな手応えを感じた。
けれど頻繁に父宛に送る手紙の結果は、あまり芳しくない。返事が返ってこないのだ。
ただ母の手紙によると、届いた手紙はむっつりしながら全て読んでいるようだった。
この調子なら、難関と言われる文官試験に合格さえしていれば許してもらえそうだなと、父の性格を考えて予想する。
そしてクロエも少しずつ、ユリウスに対して信じる姿勢を見せてくれるようになっていた。
例えば「来月はあそこに行こう」「来年もここに来よう」そう言うことを、言ってくれるようになった。それから初めて、ユリウスのことを好きだとも言った。言われた時は嬉しくて目が潤んだ。
慌てるクロエを、「ちょっともう無理」と言われるまで抱きしめた。
◇
手応え通り、文官の試験は合格した。父に手紙を書き送った。今回こそは何かしらの返事が来るだろう。
ユリウスの卒業が近づくにつれて、クロエは何か覚悟を決めたような顔を見せた。
別れが近いとでも考えているのだろうか。そう考えるとちょっとだけムカついた。
「あの、卒業したら…ヴッ」
「別れないよ」
クロエの鼻をつまんで笑って言うと、クロエは不服そうな複雑そうな顔をした。このまま王都で文官になるよ、と言えたらいいけど、父の返信前に迂闊なことは言えない。父がそんなことをするとは思えないが、その気になれば父はユリウスの合格を握り潰せる地位にいる。
「卒業、土曜日だから終わったら会いに行ってもいい?ちょっと遅くて、夜になっちゃうかもだけど」
そう言うとクロエは少し顔を赤らめて、こくんと小さく頷いた。
◇
父親から了承をもらえたのは、卒業式の前日だった。
文官に受かった以上仕方ないとややキレ気味に書かれた手紙の最後には『言い出したら聞かない所としつこい所は俺譲りだ』と書かれていた。最高の賛辞に、思わず笑った。
少し悩んで、かけていた眼鏡をゴミ箱に捨てる。
きっともう、無くてもいい。
◇
卒業を迎え、泣いて笑う同級生の波。
「色々とおめでとう。もうお前の泣き言を聞くこともないと思うと寂しいよ」
幸せそうな友人をからかって、「俺もこれでようやく彼女にプロポーズできる」と笑うと、彼はよかったな、と肩を叩いた。
「泣き言は言わないですむ事を願うが、僕たちは友人だ。いくらでも会える」
「それはそうだ」
そうは言っても、平民となり文官の道を進む自分と、公爵家を継ぐエリックとでは、もう気軽に会うことは難しい。
それでもきっと、会おうと思えば会えるだろう。自分と彼は友人だから。
◇
近所の花屋で花束を買い、緊張と高揚で吐きそうになりながら店に向かった。
学校帰りに行くのは初めてだ。馬車の中、紺色に足を浸し始めた空を見上げる。夜に会うのも初めてだ。
これから毎日、一緒に夜を眺められたらいいんだけど。
「平民として、文官に採用されたよ。仕事始めは二週間後」
「は?」
既に閉店していた店内に入って開口一番、笑顔で告げると、クロエは目を見開いて固まった。
「俺は爵位も領地も継がない。親父も了承してる」
「え?」
「どうしたらクロエが苦しくならずに俺と結婚できるか考えてさ。まー確かに貴族の嫁は辛いかなって」
「えっ」
「しばらくは宿舎に住む予定だけど、クロエの心の準備ができ次第一緒に住もう」
満面の笑顔で見つめれば、クロエは真っ青になったり真っ赤になったり顔色を変えるのに忙しそうだ。
「な、何を……何てことをしてるの……」
「プロポーズの準備」
「プッ……」
また固まった。
奥で落ち着いてから話そうか、とにっこり笑って、混乱しているクロエを奥の部屋へと追い立てる。
彼女の代わりに店の扉の鍵を閉めて、大きく深呼吸をした。
◇
落ち着いていないのは、自分の方だったかもしれない。
ミルクティー色の、ふわふわの柔らかな髪の毛を見たらもうだめだった。
ユリウスは後ろを向いている彼女を強くぎゅっと抱きしめ、ふわふわの髪の毛に顔を埋める。手に持っていた花束がくしゃりと恥ずかしそうな音を立てた。クロエが小さく息を呑む。彼女の髪の毛をかきあげると、小さな耳が赤くなっているのが見えた。
「……かわいい」
そう耳元で囁くと、クロエの体が小さく跳ねた。それが愛しくて、思わず吐息を漏らす。
「好きだよ。俺を信じなくてもいいから、ずっと側にいて欲しい」
自分の声が掠れていることに気づいて、込み上げてくる気持ちになんとなく泣き出したいような気持ちになった。もう祈ることしかできない。腕の中の彼女が、ユリウスの腕に恐る恐るそっと触れて、熱い息を吐く。
「……私も、ずっと一緒にいたい」
「うん」
「ユリウスは……後悔しないの?私のために、全部……」
「しない」
強く言い切ると、クロエが一瞬息を呑む。
「俺クロエに会ってなかったら、努力とか挫折とか恋愛とか、知らないまま死んでったかもしれない。そういうのを教えてくれた、クロエ以上に大切なものなんてない」
「……うん」
「クロエ、こっち向いて。顔が見たい」
クロエがユリウスに向き直る。キラキラ潤んだヘーゼルの瞳が、星のように綺麗で、思わず見惚れた。
手に持った花束を、クロエに差し出す。
「大切にします。どうか俺と結婚してくれませんか」
もしかしたら彼女は困るかもしれない。人生で一番緊張しながら、ユリウスは願った。一瞬なのか永遠なのか、区別がつかない時間を経てクロエが震える声を出す。
「はい。私も、結婚したいです」
「……ほんと?」
すぐに了承してもらえるとは思っていなかった。
ユリウスの手からそっと花束を取り、涙目で笑うクロエをぽかんと見つめた。
力が抜けて、ぼす、とソファに座る。天を仰いで今の言葉を反芻した後、現実だろうかと下を向いた。
「え。まじ?いいの?本当に?」
「うん」
「もう取り消せないけど。大丈夫?今ならまだなんとかギリ……いや無理取り消されたら立ち直れない。うわ怖」
「取り消さないよ」
ユリウスの反応に、クロエは顔を赤くしてにこにこ幸せそうに笑う。
「これからは私がユリウスを幸せにする」
「ばかだな……」
言葉にならず言いたいことを飲み込んで、クロエの腕を掴んで抱きしめた。
今日は人生最良の日。それはきっと、これからも。
長くなってしまいましたが、お読み頂きありがとうございました!





