人生最良の日を、どうか俺と(中編)
その日は珍しく先客がいた。
扉を開いて中に入ると、ユリウスに気づいたクロエは一瞬顔を顰めかけたが、先客である男に話しかけられて、ふわりと笑う。初めて見る表情に、目を離せなかった。
「それじゃクロエ、家で待ってるから」
「ありがとフランツ。終わったらすぐに行くね」
心臓が嫌な音を立てて、ユリウスは息を呑んだ。
男は片手をあげて微笑むと、店を出ていった。誠実そうな男だ。二十代半ばくらいだろうか。
「……もしかして邪魔したかな、悪い」
最悪な気分だ。今すぐ帰りたい。
しかし逃げ帰るわけにもいかず、平静を装った。
「あの人は幼馴染だよ。結婚して子供もいる。奥さんがご飯作りすぎたから食べにおいでって、誘ってくれただけ」
「そうなんだ。……俺はてっきり、恋人かと」
「……いないよ」
「そっか、よかった」
彼女の言葉に自分でも驚くほど安心して、吐息を吐いた。安心すると口からぽろぽろ言葉が出てくる。
「クロエがめっちゃめちゃかわいい顔で笑うから、焦った。俺にはいつも顰めっ面なのに」
「ユリウス以外には笑うよ。私は誰にでもかわいいって言う人が嫌いなだけ」
「誰にでも言うわけじゃないよ」
そう言いながら、まあでも信じられないだろうな、とは思った。かわいいと連呼しすぎた。
案の定彼女も信じられないようで、目を伏せて投げやりに言った。
「あなたがどういうつもりか知らないけど、貴族のあなたを信じることは絶対ないよ」
自分でも不思議なくらい、イラッとした。
さっき見た、自分に見せない笑顔にささくれた心のせいなのかもしれない。俺が平民だったら信じたのかという憤りなのかもしれない。わからないが、苛立った。
「信じたくないなら信じなくても良いけどさ」
「ちょっ……」
彼女の手を取った。ユリウスの周りにいる令嬢では、まず有り得ない短い爪だ。思ったよりも小さい手はほんの少しだけ、荒れている。
驚いているクロエの手を包むように指を絡めて、手のひらに口づけをする。ユリウスの頬に触れる細い指は、熱かった。
大きく息を呑む音がした。思わず微笑んで顔を見ると、彼女の顔は真っ赤だった。「クロエが」と呟くと手がビクッと反応した。その反応が、可愛くて。
「好きだよ」
勝手に口から飛び出した言葉にその時初めて、ああ俺は、彼女のことが好きなのか、と気づいた。腑に落ちた。むしろ何で今まで気づかなかったのか。そっちの方にびっくりだ。
名残惜しく手を離すと、彼女がその手を押さえて口をぱくぱくと開ける。そして悔しそうな顔をして、カウンターから出てきてユリウスを出口までぐいぐいと押した。口も利けないようだ。首まで赤い。
そのまま店から追い出されたユリウスは、店の前で片手で口元を抑えしゃがみ込んだ。
自分の顔も、ひどく熱い。
◇
好きとわかった今、やるべきことは一つだった。
彼女に好きになってもらう。それにはまず、地の底の底にあるらしい信用を、少しでも高くすることが目標だ。
手にキスをしてから前よりガードが固くなってしまったけど、あれ以来無理に距離を詰めようとはしなかった。お互いの心臓に悪い。
「可愛い」の頻度は変えなかった。可愛いから仕方ない。ただ毎週土曜の十一時に顔を見て、昼時に帰る。といってもクロエはあまり時計を見ないから、待ち遠しくなったり気が重くなったり、と言うことはなさそうだった。何なら鬱陶しい時報くらいに思っているかもしれない。
クロエがユリウスに心を開くことは当分なさそうだが、拒絶まではされなかった。
それが嬉しくもあり、切なくもある。しかしやっぱり、この一時間が一週間の間で一番大切な時間であることは変わらなかった。
◇
その日は少し遅刻した。この半年で初めてだ。いや、約束したわけじゃないから遅刻ではないかな。
それでも十一時三十分を過ぎたあたり。クロエは多分気づいていないんだろうな、と思う。いや、来なくてせいせいするなと思ってるかも。
気づかれないよりは、せいせいしていてもらったほうが良いけど、と思うあたり、自分は少し性格が悪い。
そう思いながら古書店に行くと、ふわふわ頭が店の前できょろきょろと動いているのが見えた。
「クロエ?」
ユリウスが声をかけると、クロエがすごい勢いで振り返った。ユリウスを見て一瞬ふわっと安堵の表情を見せる。来たんだ、と呟く声は明らかにホッとしていた。
予想外で、ぽかんと口を開けてまじまじとクロエを見た。それに気づいて逸らしたクロエの顔が、少し赤い。
(あれ? もしかしてこの子、俺のこと待ってた?)
そう思った瞬間、ユリウスの顔もブワッと熱くなった。赤くなったユリウスの顔を見て、クロエの顔もさらに赤くなる。
沈黙が広がった。
「…………あのさ、クロエが読みたがってた本を今日手に入れて」
今日遅刻したのは、友人が手に入れてくれた中々手に入らないと評判のその本を、今日クロエに渡そうと思って受け取りに行ったためだ。
「まあでも、できれば俺も読みたいから。明日渡したいんだけど」
苦しい言い訳だったが、デートに誘うなら今しかないと思った。
「……いや、ごめん、大丈夫。やっぱ今日渡す」
しかしクロエの無言に耐えきれず、すぐに折れた。自分がここまでヘタレる日が来るとは思っていなかった。自分に落胆しクロエの反応を恐れながら、心の中で天を仰いだ。なんて格好悪いデートの誘い方だ。失敗してるし。
「……明日、十一時にここでいい?」
「え?」
驚いてクロエを見ると、見たことのないレベルで顔が真っ赤だった。人間ってこんな色出せるのか、とユリウスは頭の片隅で冷静に思う。
「明日の十一時。何時でもいいけど」
「じゅ、十一時で大丈夫」
「じゃあそれで」
店の前か。
それならやっぱりデートは難しそうだが、日曜日に会う約束は取り付けられた。
「じゃあ、俺、本読むから。今日は帰るな」
「う、ん。じゃ、あした」
ギクシャクと会話をし、ユリウスは混乱しながら家路を辿る。
心臓がバクバクと期待に弾み、自分の妄想だったらどうしようと怯えが体の血液を巡る。ああでも、嬉しい。一度でいいから日曜日も会いたいなと思っていた。いや毎日会いたいんだけど。
「……うわー、嬉しい」
小声でぽつりと呟く。
熱くなった頬と耳は、中々冷めてくれそうになかった。
(は?可愛すぎる)
楽しみすぎて寝付けなかった。寝不足で店の前に行くと、クロエはふわふわの髪をシニヨンにして、少しだけ胸元が開いた足元までのワンピースを着て待っていた。
いつもの下ろしたふわふわの髪も機能的なシャツにエプロン姿も大好きだが、普段見えない細い首筋は視線を奪う何かが潜む。絵師を呼べ。
寝不足でとち狂ったテンションは表に出さず、「髪型も服もすごく可愛いね」と笑顔で褒めれば、クロエはいつものように顔を顰めた。それを見てなんだか少し安堵しながら、本を渡す。
せっかく会えたのに残念だが、クロエの休みは週に一度しかない。やりたい事も多いだろう。一目会えただけで充分だ。
「はい。これ、面白かったよ。別に返さなくていいから」
「え、そんなわけにはいかないよ」
「いや、いいよ。前にクロエに探してもらった『星の観察』のお礼。それなのに俺が先読んじゃって本当にごめん」
「……ありがとう」
彼女がきゅっと、渡した本を抱きしめた。その姿を見て本になりたい、と割と狂ったことを思う。
しかしこれで、用事は終わった。それじゃ、と言って帰ろうとした時に、クロエが躊躇いがちに口を開いた。
「……うちで、お茶でも飲んでく?」
固まった。行く、と反射的に言いそうになったが、ギリギリで堪える。
クロエは現在、一人暮らしだ。平民の間では普通のことなのかもしれないが、流石に未婚の女性の部屋には上がりこめない。
「……今日、時間あるの?」
クロエは俯いて、微かに頷いた。
「それなら飯でも食いに行かない?俺はクロエと、デートがしたい」
ユリウスがそう言うと、クロエは勢いよく顔を上げ、目を丸くしてユリウスの顔を見た。いい?と重ねて聞くと、戸惑うように頷く。
「よかった。すっごい嬉しい」
自然と笑みが浮かんだ。そんなユリウスを見て、クロエもやっと微笑んだ。
◇
クロエが好きだという食堂に入った。初めて入った食堂は、面食らうことも多かったが味は美味しい。最初はぎこちなかった会話も、食事が終わった頃には昔からの友人のように滑らかになった。その後、店を出てからはお互い「帰る」とは言わず、何となく街をぶらぶら歩き出した。
並んで歩くと、時たま手の甲が当たる。ちょっと恥ずかしがるクロエを見て、思い切って手を繋いだ。振り解かれない。恥ずかしそうだが。
「……ユリウスってやっぱり女の子に慣れてるね」
「そう思う?」
確かに慣れてなくはない。今心臓はすごいけど。
「でも、手を繋いでこんなに幸せになるなんて思わなかったよ」
「……またすぐそういう事言う」
そんなことを言いながら、色々な場所を回ればあっという間に夕暮れになった。
「そろそろ帰らないと。俺寮だから門限あるんだ」
「そう」
「店の前まで送る」
なんとなく無言になって、少しゆっくり店の前まで歩いた。
店の前までクロエを送って、手を離そうとして止まる。
「……クロエ、もしかして寂しい?」
「寂しがってないけど」
離そうとした手をもう一度繋ぎ直すと、クロエは驚いた顔をした。
「今日、時間作ってくれてありがと。すごい楽しかった」
「うん」
「クロエと一緒にいると楽しい」
「……うん」
「来週も店に行くけど。また日曜日も会いたい」
「…………うん」
「……キスしてもいい?」
返事はなかったが、それが返事だと思った。真っ赤な頬にそっと触れた。カチカチに固まるクロエにふっと笑みが浮かんだけれど、ユリウスの心臓も、かなり大変なことになっている。
上をそっと向かせる。目を瞑るクロエの顔に見惚れた。それでも我慢できなくて、かすかな震えに気づかれないように、そっと触れるだけのキスをした。





