【番外編】耐え忍ぶ男/エリック編
まだ朝靄の漂う早朝に、エリックはマーリン伯爵の別邸を後にした。
「すまないが、なるべく急いでくれ」
御者に告げ、確認が済んでいない書類に目を通す。仕事が溜まっているが、どうしても明日は、せめて午前中だけは休みたい。屋敷に着くまで、できる限り仕事を済ませておかなければ。
リリアが足りない。
もう一ヶ月も顔を見てない。触れもしないし声も聞けない。色々と限界だった。
リリアからくる手紙を心待ちにし、自分も時間が空いたらすぐに書いて送っていたが、日に日に湿っぽくなる自分の手紙と違ってリリアからくる手紙は楽しそうだった。
リーナやシャロンとお茶をした、夕食の魚が美味しかった、読んだ本が面白かった、庭の花が綺麗に咲いた。そういう楽しいことだけを、多分書いてくれたのだと思う。いや、リリアのことだから本当に楽しく過ごしているのは事実なんだろうけれど。
それでも新婚の妻が一人で女主人の仕事をこなすのは、きっと心細かっただろう。
愚痴を言ってくれればいいのに、彼女は一人で飲み込んでいる。もどかしいけれど、愛おしかった。
ああもう会いたい。そろそろ手が震えてもおかしくない。
一刻も早くリリアに会いたかったのに、マーリン伯爵邸に立ち寄らなきゃいけなかったのは誤算だった。
マーリン伯爵から、エリックが投資している事業で想定外のトラブルが起きたため、早急に相談したいと言われてしまったのだ。
多額の資金も人も時間も投入しているため、行かざるを得ない。
しかしマーリン伯爵邸には確か年頃の令嬢がいた。リリアに変な心配をさせるのも、あらぬ噂を立てられることも絶対に避けたいため、本邸ではなく別邸で話したいと告げた。
マーリン伯爵からは娘も同行させるので挨拶だけでもさせてほしいと言われたが、令嬢が別邸に来た時点で話の途中でも席を立つと伝えた。
エリックの愛妾の座を狙う者は多かった。少しの隙も見せたくない。
エリックがキッパリと断ると、マーリン伯爵はそれ以上何も言えなかった。
◇
屋敷に着いた。
半ば走るようにして急いで屋敷へと入る。
出迎えてくれた執事に、リリアは?と聞くと、部屋でお休みになっておいでで……とどうも歯切れの悪い返事が聞こえた。体調は悪くはないとのことだが、心配になってさらに駆け足になった。
やっと妻に会えると馬車を飛ばしてきたのだ。抱きしめたいし、あの柔らかな髪に触れたい。
はやる心を抑えて乱暴にならないよう扉を開けると、リリアが立って窓の外を眺めていた。
「リリア!」
部屋いっぱいにリリアの花の香りがする。
ああ、会いたかった。思わず顔が綻んで、抱きしめようと手を伸ばす。
しかし、すっと避けられた。
驚いてリリアの顔を見ると、何故か泣きそうな険しい顔でエリックを見ていた。
「……?リリア?どうした?寂しかった?」
ふいっと顔を逸らすリリアに困惑する。
「リリア?一日遅くなったから怒ってる?悪かった」
こっちを向いて、と焦りながら顔を覗き込むと、リリアが睨むようにエリックを見た。滅多に見られない怒った顔はとんでもなく可愛いが、それどころではない。どう考えても一大事である。
「私、絶対に離婚だけはしませんから!」
「えっ」
離婚という言葉にエリックは固まった。
その様子を見てリリアの顔が強張り、「やっぱり……!」と唇を戦慄かせる。
「浮気者!巨乳好き!ヘタレのくせに!」
「えっ……ちょっと待ってくれ、絶対に誤解している、愛しているのは君だけだ!話を聞いてくれ」
「それ浮気者の常套句じゃないですか!前にリーナから聞いたことがあるやつ!」
「違う!違う違う!!浮気って僕が!?誰と!?」
まさか浮気を疑われるとは心外だった。
「マーリン伯爵令嬢に決まってるじゃないですか……泊まったんでしょう」
「泊まったのは別邸だ!手紙にも書いてる!令嬢は別邸に挨拶に来たいと言っていたが断った!それに常に僕の護衛が僕の部屋の前にいた!聞いてくれ!」
「別邸……?」
涙目のリリアがハッとして、鏡台の上に置いていた手紙を手に取り読み返した。どんどん顔が赤くなっていく。
「…………………すみません、前半しか読んでいませんでした……」
「そうか……書き直せばよかったな。急いでいて焦ってしまった」
手紙を書いた時は慌てていて、前半にマーリン伯爵邸と書いたのだ。
その後に別邸のため女性はいない、安心してほしいと書き記しておいた。常に侍従か護衛もつけているからと。
読み返すうちに赤くなったり青くなったり白くなったり色を変えるリリアが何度も謝っている。
エリックは安堵のため息をついて、ただいま、とリリアを抱きしめた。
◇
「お詫びの仕様もございません……」
「気にしないでほしいし、僕は嫉妬してもらえてすごく嬉しい」
ソファに並んで座っていると、夢にまで見たリリアの体温が腕に柔らかく染み込んでくる。エリックはリリアの頭に唇を落とした。
さっきは心臓が止まりかけるくらい焦ったけれども、嫉妬してもらえたのは震えるほど嬉しかった。いつも嫉妬しているのは自分ばかりだったから。
「リリアは手紙でも、寂しいとか会いたいとか、あまり書かなかったろう?実家からも離れて僕もいなくて寂しい時に、こんなことがあって爆発したんだと思う」
「あんまり考えないようにしてたんですが、寂しい時は寂しいって言ったほうがいいですね……」
「もう寂しい思いはさせないように頑張るけど、言ってほしいな」
リリアが少し躊躇って、申し訳なさそうに頷いた。かつて自分がアンバーにした嫉妬の強さと頻度を考えれば、これくらいの可愛い嫉妬は可愛いしかない。
久しぶりのリリアへの愛おしさで消滅していく語彙力も問題じゃなかった。
「ああ可愛い……もっと嫉妬してほしい……」
壊れないように注意しながら強く抱きしめる。
「僕は手紙で言っていたけど、すごく会いたかったんだ。だから君がどれだけ寂しかったのか、教えてくれると嬉しい」
軽い気持ちで言ったこの言葉を、エリックは後からほんの少しだけ後悔することになる。
しかしこの時はそんなことは知らず、この可愛い妻の愛情を余すことなく感じたかった。
「……思い返すと、結構寂しかったんです。全部聞いてくれますか?」
遠慮がちに尋ねる妻は、それでもキラキラした瞳をエリックに向けた。
もちろんの言葉の代わりに、額に一つ唇を落とした。
◇
落ち込んでいるリリアは可愛いが、やっぱり楽しそうに笑っている姿が一番好きだ。
何でもしてあげたいし、どんな大きなわがままも叶えたいと思ってしまう。ずっとこの顔を見ていたい。
しかし健康的な十八歳の男性であるエリックは、今必死に自分の欲望と戦っていた。
話している内にご機嫌になったリリアは、エリックの膝の上に座っている。その上首に両手を回しエリックの顎や首に自分の頭をすりすりと擦りつけながら、ここ一ヶ月どれだけ寂しかったのかを語っていた。とても可愛い。大変よろしい。しかしながら、拷問である。
けれど耐えた。結婚前よりも頑張って耐えたと思う。
話が一区切りしたタイミングで、エリックはリリアの耳に唇を寄せた。
「リリア、そろそろ……」
さらりとした髪に右手を差し入れ、もう片方の手で頬を触り顔を近づけると、リリアの両手がエリックの口を抑えた。
「まだ終わってません!」
リリアがちょっと唇を尖らせる。そしてエリックの左手を握って、今度はリーナ・フェルマーが見たらしい夢の話をし始めた。もしかして本当は怒っているんじゃないだろうか。そう思うけど、リリアは瞳をキラキラさせて、楽しそうに喋ってる。エリックの話も聞きたがった。
エリックは愛しいと辛いの狭間に揺れながら、長い長い夜を過ごした。





