36.奈落の底
36.奈落の底
「ふはははッ!! ざまぁみろッ!!」
奈落の底に吸い込まれていくアトラスを見ながら、クラッブはこの1年間でもっとも大きな笑い声を発した。
今まで<奈落の底>に入って出てきたものはいない。
一人の例外もなく行方不明のままだ。
つまり、アトラスを文字通り闇に葬ることができたということだ。
「これであの無能とはお別れ……。王女様も俺たちからダンジョン攻略の仕事を奪ったことを後悔するだろう」
<ブラック・バインド>が損ねた信頼は何一つ回復していなかったが、それにも関わらずクラッブはこの上なく上機嫌だった。
彼は自分で理解はしていなかったが、「Fランクの無能」に決闘で負けたと言う事実が飲み込めなかった。
だからこそ、その相手が消えたことで自尊心を保つことができるようになったのだ。
――なんの証拠もなく、跡形もなくアトラスを始末できた。
これでまた以前のように、全てがうまくいくはず。
クラッブはそう確信するのだった。
†
兄を見送った妹ちゃんは、悩んだ末に<ホワイト・ナイツ>のギルドマスターであるエドワードの家を訪れることにした。
エドワードとは直接面識はなかったが、緊急連絡先として自宅の場所を聞いていた。
いくつも修羅場をくぐってきたであろう彼なら、きっと適切に対処してくれるはずだと考えたのだ。
――だが。
エドワードの家にたどり着いた妹ちゃんは、想定外の事実に行き当たる。
呼び鈴を鳴らすと奥さんが出てきたが、
「……申し訳ありません。主人は朝まで帰らない予定でして……。どこにいるか聞いていなくて」
エドワードは不在だったのだ。
そうなると、どうしようもない。
妹ちゃんに、他に頼れるような人間はいない。
こうなったら朝まで待つより他なかった。
†
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――
――――――――――
どこまでも落ちていく。
心臓を掴み上げられたような、感じたことがない感覚。
なすすべなく、ただ衝撃に備える。
そして落ちる先にわずかな光が見えた。
――――地面だ!
そう認識したそのすぐ後、アトラスは地面に激突していた。
「――ぐッ!!」
豊富なHPが一気に削られる。
大きなダメージを受けたことによる仰け反りでしばらく動けないでいたが、少ししてようやく立ち上がる。
「……とりあえず生きてはいるな……」
穴の下がただの地面だったので、なんとか生き残れた。これで槍が敷き詰められていたりしたら、生きては帰れなかっただろう。
「しかし、ここは……」
アトラスはアニスを抱えたまま、あたりを見渡す。
見上げると、元いた場所はあまりに遠過ぎて全く視認できない。
とてもここから登ることはできそうにない。
次に地面と平行方向を見渡す。
あたりは穴の入り口と同じだけの大きさの空間が広がっていた。
そして、ちょうどアトラスの体が今向いている方に通路が伸びていた。通路の入口の両端はわずかに明かりが灯されている。
「……とりあえずどこかに進むことはできるみたいだな……」
その先が地上につながっているのかは不明だが……
と、これからどうしたものかとアトラスが考えあぐねていると、アニスが目を覚ました。
「ん、……ここは……」
「大丈夫?」
「アトラス……さん?」
アニスは自分がアトラスに抱え込まれていることに気がつく。
「ああ、ごめん、ちょっとこれは訳あって」
アトラスはそう言いながら、アニスをゆっくり地面に下ろした。
アニスは、一体何が起きているのか全く飲み込めず、目をパチクリさせる。
「ええっと……私、ギルマスとご飯を食べていて……」
そうだ、クラッブとご飯を食べているところから記憶がない。
アニスはそこから記憶が途切れていることに気が付いた。
「ごめんね、アニス。僕のせいで君を巻き込んじゃったんだ」
「アトラスさんのせい?」
「クラッブが、僕を誘き出すために君を誘拐したんだ」
そう言われて、アニスはクラッブとご飯を食べているまさにそのときに意識が遠のいたことを思い出す。あれは毒を盛られたのだ。
「それで、本当に言いにくいんだけど、ここは<奈落の底>なんだ」
「……<奈落の底>?」
その存在は、もちろんアニスも知っていた。
中に入ったものは、誰一人生還していないと言う場所だ。
「本当にごめん。君をこんなことに巻き込んでしまって……」
アトラスは自分のいざこざに彼女を巻き込んで、<奈落の底>にまで連れてきてしまった事実に申し訳なさで頭がいっぱいだった。
けれど、
「アトラスさんは絶対悪くないです。詳しいことはわからないですけど、でも絶対そうです」
アニスは、アトラスが謝ることなど一つもないとそう確信していた。
「それに、アトラスさんがいれば、<奈落の底>だろうが別に怖くないです。一緒に外に出ましょう」
「……ありがとう。そうだね。今は外に出ることを最優先に考えないと」
幸い、アトラスは冒険道具を一式持っていた。
こんなこともあろうかと予備の剣も用意してあった。それを丸腰のアニスに渡す。
「ありがとうございます」
アニスは剣を大事そうに受け取る。
「……アトラスさん、体力が削れていますけど、ヒールは後にした方がいいですね。今私のHPは無傷なので、倍返ししてもらうのはもったいないですから」
<ブラック・バインド>時代からアトラスの力に気が付いていたアニスは、どうしたら効率よく彼と戦うことができるのかを熟知していた。
アトラスは彼女の頼もしさを思い出す。
「ありがとう。じゃぁ、気をつけて行こうか」
「はい!」
誰も生きて帰ってきたことがないという<奈落の底>に潜り込んでしまった訳だが、不思議と絶望感はなかった、その大きな理由はアニスが一緒にいたからだ。
二人は見知らぬ通路を進んでいく。
すると5分ほどしたところで、早速モンスターと出くわした。
「Aランクッ!!」
現れたのは、ミノタウロス。
Aランクレベルのモンスター。並みのダンジョンならば、ボスとして出てくるレベルのモンスターだ。
ミノタウロスと通常エンカウントするということは、このダンジョンは最低でもSランク、あるいはSSランクレベルであるということだ。
「はぁぁッ!!!」
アニスが突撃を敢行する。
アトラスも一瞬遅れてそれに続く。
Aランクのモンスターだが二人の実力を持ってすれば、さほどてこずることもない。
ましてここには、邪魔してきたり、自ら地雷を踏みに行ったりする無能な上司がいないのだ。
数分の戦闘でミノタウロスを蹴散らす二人。
「やっぱり、アニスと戦うと気持ちいいな」
アトラスは剣を鞘にしまいながらそう言った。
「そ、そうですか!?」
アニスは大好きなアトラスに急に褒められて肩を震わせた。多分しっぽがあったら、ピンと上を向いていただろう。
「うん。戦いやすいよ」
「わ、私も……アトラスさんと戦うのは楽しいです」
「また一緒に戦えるといいんだけどね」
アトラスは歩き出しながら、何気なしにそう言った。
「ええ、本当に……早くアトラスさんと一緒に戦いたいです」
今のアニスにとって、それが目標だった。
そして、アニスが求めているのは単なる<同僚>になることだけじゃなかった。
もっと先も――
けれど、今やアトラスは<ホワイト・ナイツ>のSランクパーティの隊長。
アニスからすれば全く手が届かない存在。
だからこそ、その距離の遠さを意識すると急に不安になる。
アニスは生きるか死ぬかと言うそんなところにいるというのに、それよりもアトラスとの距離が離れていくことに対する恐怖心の方が強くなる。
「あ、あの。アトラスさん」
「ん?」
「――新しい職場で……か、彼女はできましたか?」
「……か、彼女!?」
いきなり飛び出してきた言葉に、アトラスはつまずきそうになる。
「で、できないけど……」
アトラスはこういう時に誤魔化すのが苦手だったので、情けないと思いながらも正直にそう告白した。
「……そ、そうなんですか!!」
妙に声が大きくなるアニス。
「う、うん」
アニスはそれを聞いてかなり元気が出てきた。
……じゃぁまだチャンスはある!!
アニスは心の中でそう思って、俄然力が湧いてきた。
一方、アトラスはアニスの気持ちなど知る由もなく、ただ「彼女ができない」と言う情けない自分を恥じるのだった。
……婚活でもしようかな。
――とても<奈落の底>を歩いているとは思えない、妙なテンションで二人はダンジョンを進んでいくのであった。
†
――順調にダンジョンを進んでいくアトラスとアニス。
そして二時間ほどすると、とうとうその扉に行き着く。
「……ボス部屋、ですね」
「うん」
ここまで遭遇したモンスターのレベルからするに、おそらくこのダンジョンのランクは最低でもSランク以上。これまで数多くのSランクダンジョンに潜ってきた二人の体感としては、おそらくはSSランクだ。
となれば、ボスも当然強敵となる。
だが、引き返しても出口はない。
二人にはボスに挑む以外の選択肢はなかった。
「行こうか――」
「はい!」
二人はゆっくりとボス部屋の扉を開ける。




