洲崎早紀の決別
急遽、洲崎早紀の視点で始まります。
私にとってお母さんは自慢だった。
綺麗で優しくて女手1つで私を一生懸命育ててくれる自慢のお母さんだ。
それが今は私に対して無関心であろうとして、その内に秘めた憎悪の感情を隠して接している。今はそれを隠すことなく余すことなく私へ向けられ、酷く胸を締めつけられる。
今この病室には私とお母さんしかいない。赤崎くんには「私一人でやるから」と伝えてあり、もう頼ろうとも寄りかかったりもしない。でも、もしかしたら決心が鈍るかもしれないからと、病室の前で待機してもらっている。
「お母さん……ううん、洲崎早苗さん」
「ごめんなさい」
いきなり謝られ、私は面食らう。
「どうして?」
「貴方に酷いこと、たくさんしたから。最低な事をいっぱいしてきたから。私のした事を娘の貴方にまで背負わせてしまったこと、たくさん傷つけてしまったこと……本当にごめんなさい」
「お母さん」
涙で布団を濡らしながら、お母さんは私に謝るのだった。
このまま謝罪を受け入れて寄り添えば、母娘関係は戻れるかもしれない。
私が望んでいた事だ。赤崎くんに相談を持ち掛けたときに私はそう言った。もちろん、そのつもりだ。
なんだかんだ言って私はお母さんが大切なんだ。今まで大切に育ててくれた思い出がある。大好きなお母さんだ。
「早紀、もう一度やり直しましょう。なんてたって貴方は私が―――」
「沢渡誠也と愛し合って生まれた子供だから?」
時が止まった。数秒間だったけど、お母さんは泣く声もピタッと止んで一瞬にして静寂に包まれた。
何も言わない沈黙した母親だった女に私は声をかける。
「楽しかったよね、浮気するのって。すぐ近くで付き合ってる男性がいる場所での浮気ってスリルがあるよね。で、それに溺れて私を産んであげるって浮気相手のあのクズ男に宣言したんだ。名演技だったね。自分も被害者だって装って楽しいよね。責任は別のヤツに押し付けて悲劇のヒロインはさぞかし楽しかったよね」
床に水滴が落ちていることに気づいた。私の涙だ。その水滴に小さく写された私の顔は醜く歪んでいた。
笑ってる感じじゃなくて嗤うというのが合っているのかもしれない。なんでこんな事を言ってるんだっけ。そうだ、私はやり直したいのでも寄り添いたいのでもない。
純粋に目の前の女が許せないのだ。
「思い込むのって辛かったよね。宮森優紀って男の人の子供だって思い込むって大変だったね。だって貴方は確かに愛していたのかもしれない。でも、沢渡誠也……今は神田誠也との間で愛を育んで生まれた子供をヤツを犯罪者に仕立て上げてしまった宮森優紀に奪われないといけなかったのは辛かったよね。全部知れてよかった。あのクズが出所したんだからさっさと復縁すれば?クズとゴミでお似合いだね!私は一緒にされたくないから、御免だけど!」
「貴方もそう言うの、早紀?」
虚無だった。
顔を上げたお母さんは無の顔で私を見据える。
「なんで私は優紀さんを想ってはいけないの?優紀さんだけが私を好きになってくれた。私は優紀さんだけを好きになった。あの男は私の身体だけを欲しがった。私は嫌なのに、言うことを聞いてれば、優紀さんにバラすことはしないって言ってた。だから、従ったのに結局は優紀さんを傷つけただけで終わった。アイツのせいで私も優紀さんも優紀さんのお姉さんもめちゃくちゃになった。ああでも、一番酷いのは私かな。私の自己満足のために貴方に無理をさせて、最低な事をしてしまった。貴方の同級生の男の子に言われて目が覚めたわ。私は優紀さんのためにもちゃんと自分で決めた事をやり遂げさせて。せめて貴方が自立するまで面倒を見させて。私の娘でいてほしいの」
「お母さん……」
「今度は間違えないから。ちゃんとするから。だから、戻ってきて、早紀。もう一度やり直しましょう?」
お母さんが差し伸べた手。私が望んでいたものだ。
お母さんに寄り添いたくて、本当の意味で家族になりたかった。
でも、今はもうそんな淡い希望は持ち合わせていない。
―――パシンッ。
「え……」
差し伸べられた手を私は叩いた。
「ふざけないでよ。私は宮森優紀って人の娘にはなれないし、神田誠也って男の人の娘なんて以ての外よ。いつまでも過去の男を追い求めないでよ。もう全部終わって、取り返しがつかないんだ。前を見て歩くしかないんだよ。私もてつ―――」
「ゴミが騒がないでくれる?」
ゾッと底冷えするような声音が耳に入り、私は凍りついたかのように声が出なくなって体が動かなくなった。
今まで聞いたことのない声だ。優しくて温かい声だったのに、今はもう色を殺して感情を殺した冷たい声だ。
「なんでこっちが譲歩してあげたのに拒むの?何が不満なの?優紀さんの娘でいたくない理由でもあるの?」
「大有りだから言ってるの。お母さんと宮森優紀って男性との間には想い出はあっても、形として何も残っていない。確かに愛し合っていたかもしれない。だけど、お母さんは別の男として快楽に溺れて私を産んだ。汚い欲望によって産まれた娘だってことは変えられない事実だ。もう過去は変えられないから、受け入れて前に進むしかないの。恨まれたって蔑まされたって構わない。だから、いつまでも過去にばっかり生きるな!」
私の偽らざる本心を叫んだ。
優しかったお母さん。想い出はたくさんある。でも、それは嘘と偽りに彩られたドロドロと汚いものだ。前までなら綺麗だと思えていたものが、今では酷く濁っていて泥まみれな気がする。
私のお母さんは被害者であると同時に加害者でもある。それは私も同じだ。
罪は背負わないといけない。どれだけ惨めでも、辛くても私はこの事実を受け入れる。
お母さんとなら、それが出来ると信じている。
「一緒に頑張ろう? 二人でなら、きっとやり直せる」
「なんで貴方みたいなゴミと一緒にやり直さなくちゃいけないのよ!」
「お母さん……」
お母さんが吐き出した本音が、容赦なく私の心を抉る。
鋭利な刃物で斬られたような錯覚がして、息が詰まる。声が出ない。
「所詮、ゴミはゴミだったわね。あの男の血が混ざってるんだから仕方ないよね。優紀さんとの間に産まれてきてたら、そうはならなかったのにどこで間違えたのかしら。最初からだったわね。私のせいだったわね。貴方なんか産まなければよかった。産んでも死ねばよかったのに。ああ、駄目だ。こんなゴミが私と同じ顔してるのが気持ち悪い。汚い。なんで目の前にいるの?とっとと消えなさい。消えなさいよ。お願いだから、消えてちょうだい。私はもう貴方の母親になれないの。お願いだから、出ていって。顔を見せないで」
「さよなら、お母さん。今まで育ててくれてありがとう」
苦しくて辛くて悲しいのに……だけど、不思議と涙が出てなくて私は一体どうしたんだろう。
ピシリ、とヒビが入りガラガラと音を立てて崩壊していくような気がする。
楽しかった想い出だった。お母さんと笑い合ってた日々はもう嘘と偽りに塗り固めた薄氷の上に成り立っていた。それが今は砕かれ、何も無くなった。私が否定して壊したんだ。融通が利かなかったばかりに私はお母さんを変えることもできず、ただ傷ついて傷つけて終わった。
胸にポッカリと穴が開き、私はフラフラと覚束ない足取りで病室を出るのだった。