第九話
「己は決めたよ」
*
大学から帰る途中に「豆大福をおごるから話を聞いて欲しい」と田原に声をかけられた久嗣はのこのこと茶店にまでついて来てしまった。
大学近くのよくある茶店に入り、久嗣は注文したものが早く運ばれてこないかとそわそわしながら待っていた。暫く何も話さないまま向かい合っていた友人である田原との間に居心地の悪い気まずさがあったからだ。沈黙を破りたいが、当の本人は暫く何も話そうとはしない。
ふたりの間に無言だけが長く続いて、盆に乗った大福が運ばれてくるまでの数分が随分と長く感じられた。
そしてようやく目の前に出されたものに手を伸ばし、大きな口を開けて大福をまさに頬張ろうとしていたその時に、友の意気込んだ言葉が聞こえて来た。
あんぐりと空けた久嗣の口は手に持った好物を頬張ることなく、代わりに「何をだい、急に?」という声を出すこととなった。
だが、返事はなかなかない。
相変わらず視線を下に向けたままだったが、彼の力強い表情は見て取れた。肩に力が入っているのも見える。
そんな田原を横目に手に持っていたものにようやくありつけ、口いっぱいに広がる甘味を堪能している時、ようやく友人が勢いよく久嗣の方に顔を上げると、緊張と決意が混じった眼でこう言った。
「“おさげの君”と話をしてみることにするよ」
それを聞いた久嗣は飲み込んだ大福を喉に詰まらせそうなりながら、勢いよく胃に流し込む。
昨日まではただ遠くから見ているだけでいいと言っていたのに、どういった心の変化なのかと思うのと同時に、自分が陽子に話してしまったのがばれたのではないかと肝を冷やした。
おろおろと田原にどういった心境の変化なのかと聞いてみる。
「こんなに女々しくては日本男児あるまじきと思い、白黒はっきりさせるために今からあの文具屋に行こうと思うんだ」
「そうなのかい」と言おうとした時に、そういえば昨日陽子も文具屋に行くと言っていたことを思い出し、慌てて日を改めるように進言する。
「いや、いやいや——。今日は止めておいた方がいい」
「どうしてだい?」
「日が良くないよ!」
「今日は大安だ」
「——だとしても!」
なんとかふたりの鉢合わせは避けたくて必死になるが、必死になればなるほど怪しさが増す。
「君に何かしろと言っているわけではないよ。何をそんなにむきになっているんだい?」
久嗣はそれ以上何も言えず「いやあ。まあ、がんばってよ」と口では言ってみたものの、ふたりが文具屋で鉢合わせしないかということだけが気になって仕方なかった。陽子のあの性格のことだ。もし田原の存在に気がついたら「貴方が久嗣さんの学友の方ね」などと声を掛けかねない。そんな想像をしながら久嗣はすっかり味を失った大福と茶を喉に流し込んだ。
茶を飲み終えるのと田原が行ってくると言って立ち上がったのがほぼ同時で「え、一寸!」と出口に向かう彼の背中に声を掛けたが、振り返ることなく大通りの流れに消えていった。
「君の奢りではなかったのかい……」と、懐にしまってあった財布から渋々五銭硬貨を一枚と、一銭硬貨を三枚机の上に残して茶屋を後にした。
そして茶屋を後にした久嗣は屋敷に帰ろうと歩き始めたが、数歩あるいてから踵を返して文具屋に向かうことにした。
◇◇◇
「こんにちは」
店内には陽子以外の客はおらず、彼女が声を発するまでずっと静寂が保たれていたのだ。——尤も陽子を客と呼べるのかどうかという議論の余地はあるが、少なくとも“おさげの君”には客として映っていたことには間違いないようだ。 「ああ。いらっしゃいませ。なにかお探し物でしょうか?」と、突然の挨拶にも動じることなく勘定台に座っていた彼女は席から立ち上がり、手を前で揃えて客商売があるべき佇まいと言わんばかりの姿で陽子に対応した。
立ち上がった彼女は陽子よりも少し背が低かった。
「私はこの近くの女学校の学生なのですけれど、新しいノートを探しているの。ひとつ見積もってくれるかしら?」
入り口の一番近い場所に平積みされているノートがこれ見よがしに置かれていたが、まるでそれに気づかなかったと言うように陽子は“おさげの君”に場所を案内させる。
そんな陽子の態度に嫌な顔一つせずに「かしこまりました。こちらでございます」と入り口まで案内しようと勘定台から売り場にまで出てこようとした時だった。
「あなた脚が……」
片脚を歩きにくそうに引きずっているのにすぐに気が付いた。めくれた着物の裾から見えている脚に大きな古傷が残っているのが見えた。
「見苦しくってすみません」と少し恥ずかしそうに着物の裾で何とか隠そうとする。
「数年前に事故にあって以来こうなってしまって」
「あ……そうとは知らずに歩かせてしまって申し訳ないわ」
「いえ、少しは動かした方がいいんです。いつもあそこに座りっぱなしなので」
そう言って一日のほとんどの時間を過ごしている場所に目を向けた。椅子から解放された彼女はまるで自由を手に入れた鳥のように生き生きとした表情で陽子に語りかけた。
「こちらが学生さんに一番よく使っていただいている大学ノートですね」
素朴で使いやすさを追求したようなノートを一冊手に取って「ありがとう」と陽子が礼を言う。そして「貴方のお名前は?」と自然な言葉の成り行きで質問した。
「田村かほりと申します」
「わたしは秋宮陽子です。またお世話になることもあるかと思いますので、以後お見知りおきを」
「陽子さん」と客の名前を反芻して、彼女の服装を今一度よく確認する。その姿は誰もが女学生だと一目で分かる袴姿で、疑いようが無かった。「高等中学校の女学生ですか。わたしもなりたかったなあ」と少し残念そうで、それでいて羨ましそうな目で袴姿の彼女を見た。
高等女子学校には誰しもが通えるわけではなく、あの場所に通う女学生はみんなお金に余裕のある家系のお嬢さんばかりだ。店内にいる両人はどちらも同じ年頃だというのに、文具屋で親の仕事を手伝いながら働いているかほりは、お世辞にも裕福な家庭のお嬢さんだと言えないことは声に出さずとも分かった。
「あら、でもあなた読書が好きなのね」
勘定台に積まれた本の数々を指して質問をする。
「女なのに読書などと言われるかも知れませんが、本で色々な事を知るのが好きなのです。——ですので、ここで静かに本を読みながら適当に店番をしている時が一番の幸せなんです」
「いいえ! これからの時代女性も社会に進出する時代なのです! 得た知識は誰にも奪われることない貴女だけの財産ですから、自信を持ってくださいな」
ぱしっとかほりの手を取って女同士の友情を深めるように、力強く瞳を見つめる。急に手を取られて驚いたかほりも、「ありがとう」と嬉しそうに微笑んだ。