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半分の満月  作者: 織田 智
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第八話

久嗣(ひさつぐ)さん? 聞いてますの?」


 自分を呼ぶ声に意識をはっと戻して、目線を窓の外から彼女の方へ向ける。目線の先には陽子(はるこ)が上の空の久嗣に呆れた顔を見せていた。


 八月ももう残すところ僅か一週間となったこの日も久嗣と陽子の時間が合う限り、語学の勉強に励んでいた。

 今日はシェークスピヤの『ロミオとヂュリエット』を持ち出して、彼女に訳するように言ったのだが、教える側の彼がてんで上の空になっていた。


「すみません、お嬢様。少しぼうっとしてしまいました」

「お疲れなの?」

「夕べ遅くまで本を読んでいたものですから、そのせいかもしれません」


 陽子は「ふうん」と素っ気ない返事をひとつだけして、「こちら出来ましたので見てくださいね」とノートを差し出してきた。


 ノートに記載されている文字は左利きで書かれている月子の文字とはまるで違っていて、鉛筆の黒鉛が手の側面に擦られた跡もあまり残っていない。


「以前間違っていた場所もできていますし、良く訳せています。次はもう少し長い文章を――」

「久嗣さん、こちらの演劇はごらんになったことあるかしら?」


 御託はいいからと言わんばかりに彼が話を終える前に割りこんで、劇は好きかと聞かれる。話の意図が読めず「え?」と反応してしまう彼に「お芝居よ」と繰り返す陽子。


 最近巷でそういった催しが流行していることは耳に挟んではいるが、いかんせん学生である彼にそのような場所に出入りする金も、時間も持て余してはいなかった。


「何年か前に和人(かずひと)さんのご家族に連れて行って言っていただきましたの」


 得意気に話す彼女に「それは良かったですね」と返事をする。彼は何と言っても家柄だってしっかりしている。残念ながらそれは久嗣には手に入れられないものだった。

 許婚のふたり――そう考えた時に頭に思い浮かんだのは友人の田原(たはら)のことだった。


「――不躾なことを伺ってもよろしいですか?」


 久嗣が珍しく彼女に質問するものだから、陽子も目を丸くして「改まって何かしら?」と間髪入れずに返事をする。


「お嬢様は浅見様と結婚する日を待ち遠しくされているように見えますが、許婚というのは最初から不安のないものなのでしょうか?」

「本当に不躾な質問ね」といいながらも真面目に考え込む所作を見せる。


 それに対して久嗣は、「もちろん浅見様は素敵な方なのは存じ上げているのですが」と着け加えて、誤解をさせたのではないかと陽子の顔を恐るおそる見た。

 すると彼女はいつも通りの、あまり真剣ではない声で「わたし、和人さんとの結婚以外は考えられませから」と素っ気なく答えた。


 「どうしてそんな質問をされるの?」と聞く彼女に「友人に許婚がいるものが居まして……」と話すと、彼女の興味は勉強よりも、久嗣の友人である田原に移った。目の輝きが一層強くなって、話を聞く姿勢も前のめりになって食らいついているように見える。


「まぁ、その方は許婚の方とのご結婚を望まれていないの?」


 人のことをべらべらと話すのは良くないことだが、話を持ち掛けたのは自分だ。心の中で田原に「すまない」謝罪してから「実は……」と話を始めた。


「先日私の学友が面識のない許婚との今後に不安を抱いておりましたので、お嬢様はそういったものはないのか少し伺った次第でございます。それに――その……私の友人には別に気になる方がいるようでして……」


 話しながら久嗣は後ろ髪を引かれる思いだったが、結局その許婚と一度会ったきりだということや、文具屋の女性に恋心を抱いているという話から何まで彼女に言ってしまった。

 目を輝かせて楽しそうに話を聞く彼女とは裏腹に、久嗣は言ってしまった。という少しの後悔と開き直りが残った。


「まあ、なんて素敵な恋物語なの」

「恋物語というより、おさげの彼女は友人の名前すら存じ上げないのです。彼も彼で遠くから眺められるだけでいいといっていましたので、彼はいずれ許婚と結婚する日をひたすら待つのだと思います」


 少し残念そうに俯き加減で話す久嗣を、陽子は黙って見る。そして手に取った『ロミオとヂュリエット』の本をひと撫でして口端を上げる。


「何と言っても世はもう大正で、恋愛だって自由にしていいものだと思う反面、家族の事を考えると実際そう自由にばかりしていられないのもまた事実ですわね」


 すると少し悪戯っぽく何かを思いついた顔をした陽子が、にやりと久嗣の顔を見た。


「ではわたしがその文具屋に寄ることにするわ! 女学校の帰りに行けばおかしくはないでしょう?」

「ええ⁉ それは堪忍してください!」

「なによ、ばれることはないわ」


 月子(つきこ)とは正反対のお転婆な性格の陽子は何にでも興味津々で、話を聞いたからには自分の目で確かめずにはいられないのだろう。話は着々と彼女の中で進んで、ついには明日にでも女学校の帰りに文具屋に行くつもりだと言い出した。

 久嗣は目を手で覆って、“おさげの君”の話をしてしまったことを激しく後悔したが、もう後の祭りだ。


 ◇◇◇


 翌日陽子は久嗣に話した通り郵便局前の田村文具店を見つけると、気合をたっぷり入れて店内に入っていった。

 決して大きくはない店内に並べられた商品の数々。インクや紙が混じってなんとも言えない匂いが鼻先をかすめる。そこでの陽子の目的はノートでも定規でもなくて、勘定台に座って本を読んでいる“おさげの君”であり、その彼女に照準を合わせると「こんにちは」と声をかけた。


 ふいに声をかけられた“おさげの君”は読んでいた本から陽子に目線を移して「はいはい、何かお探し物ですか?」と、可愛らしい顔に合ったふんわりとした声で返事をした。

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