第七話
うだるような暑さの日々のなか、屋敷の旦那である忠親の使いで街にある郵便屋に手紙を出しに来ていた。その足で帝国図書館に向かおうとしたが、郵便屋のはす向かいにある“田村文具屋”と書かれた店に入っていく学友の姿を見かけたので、久嗣も大勢の人や車が往来する通りを渡り、同じように建物の中に吸い込まれるように入っていった。
店の中は、外から入るととても暗く感じられ、目を慣らそうと一瞬瞼を強く閉じた。
さほど広くもない店内には、所狭しと鉛筆や大学ノート、まだまだ珍しい大くて重そうなホッチキスの機械など興味をそそられるものまで並べられている。その中で友人を見つけると、彼は何やら意味ありげに文具を眺めては、同時にちらちらと勘定台の方へも目を配っていることに気が付いた。
「田原君? 君はこんなところで何をしているんだい?」
「うわ! ――斎藤君⁉」
誰かに見られているとは露知らず、肩を叩かれたうえに声までかけられたものだから、田原という学友も驚きの色を隠せずにいた。
「そんなに驚いて――まさか……君、それを盗ろうだなんて思ってないだろうね?」
彼の手に収められたノートを指しながら久嗣は威嚇するように、それでいて他の誰にも聞こえないような小さな声で彼に言い放つ。その言葉にさらに驚いて「まさか! 考え違いしないでくれよ!」と、手に持ったそれを棚に置きなおした。
となると、今度は彼がしきりに目を配らせていた勘定台に目を向けた。するとそこには同じ年の頃のかわいらしい女の人が本を読みながら店番をしている姿があった。清楚な薄桃色の着物に、白い前掛けを身に着け、若い女性らしくお下げ髪を結っている。
どうやら田原はあの娘にほの字なのだということにすぐに気が付いた。
「なんだ、かわいらしい娘さんじゃないか。そのノートを買うときに少し声をかけてやりなよ」
彼女に聞こえない程度の小さな声でひっそりと助言をすると、「一寸外に出よう」と連れ出され、店から少し離れた日陰で彼の話を聞いてやることにする。
なんでも四月から大学に入りこの文具屋を見つけて以来、週に一度はここに通っているという。だが、そこからがじれったい話だった。田原は必要以上の言葉なんてかけられるわけが無いと言い、聞けば足繁くこの文具屋に通ってはいるものの、いつも何も買わずに店を後にしているのだという。
「どうして声をかけないんだい? お近づきになる絶好の機会だと思うが……恥ずかしいのかい?」
「できるならとっくの昔にそうしているさ。でもお己ぁこの東京帝大を卒業したら結婚が決まっている人がいるんだ。――許婚と言うやつさな。そんな己が声をかけられるわけが無いだろう」
田原は相当な資産家の次男だと聞き及んでいるため、上流階級にはそれなりの悩みもあり、出自が一般家庭である自分には考えの及ばぬところとだとして、ひと息置いてから「そうかい」と友人に言った。
「向こうのお嬢さんは爵位のあるお家柄の人でね、彼女が生まれたときに己たちの結婚が決まったのさ」
「その子の年の頃はいくつなんだい?」
「今年十五になったと言っていた。でも彼女が生まれて間もなく会ったっきりで、彼女がどんな人なのかも分からないよ」
「そんなものなのかい」
「そんなものさ」
その時にふと陽子と和人の関係が頭の中を過った。少なくとも久嗣から見て彼女らはお互い好いているように見えるし、頻繁に出かけたりしているようだった。
「君から許婚の彼女に会いに行ってはどうだい。そうすれば君のそのもやもやした気分も変わるかも知れないよ?」
「簡単に言ってくれるが、京都だぞ? 西の方へなんてそう気楽に旅行へ行ける場所ではないよ……まぁ、君の言うことも一理あるが――」
話しているうちに田原は顎に手を置いて、まるで何かを推理するような所作を見せた。久嗣はそれを見て、おおかた許婚の女性に会うのも悪くはないと考えを改めだしたのだろうと思った。
「君も誰かを好きになれば分かるさ。これはもう理屈やそんなもんじゃないんだ。成就しないことは分かっていても割り切れないし、彼女と親しくなる夢は捨てきれないんだ」
何と詩的なことをいうものかと感心するが、成就しないと頭では分かっていながらも彼女を目で追い続ける彼に、何だってこんな不合理なことをするのかと疑問にも思った。案の定久嗣と話が途切れた隙間を狙ってまた店の中を覗き込んでは、彼女の座っている勘定台に視線を送っている。
「じゃあ、僕は今から図書館に行くんだ。また明日な、田原君」
自分が図書館に行く途中だったことを思い出して、久嗣は田原に背を向ける。一方の田原はそう言って踵を返した久嗣には目を向けることなく、「じゃぁな」とだけ言い残し、彼はおさげの思い人をしばらく見続けた。
田村文具店から歩いて程ない場所に帝国図書館がある。外は嫌になるほど蒸し暑いのに図書館内はなぜかひんやりと涼しく、心地よく通り抜ける風は何とも言えない本の匂いが混じっていた。
相変わらず人が多い図書館内だが、きれいに並べられた席を見渡すと空いている場所もちらほらと見受けられる。昼になり東側の席がこれから陰ってくるだろうと、すかさず自分が手に持っていた本を塩梅のいい机に置いて席を確保する。そして本の表紙を開いて目に入る文章を右から順に読んでいく。
しかし読み始めても友人のことを考えると気が散って本の内容がちっとも頭に入って来なかった。
たった数十頁紙をめくっただけだが、ふうとため息をひとつ吐いて高い天井を見上げると洋風建築の産物が目に入る。そして何を思ったか、一度席を離れてからまた元の席に戻ってきた。そのとき久嗣の手には男女の恋心を描く小説が収められていた。