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半分の満月  作者: 織田 智
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第六話

 季節がすっかりと夏に変わって、庭に花壇に植えてある向日葵が黄色い大輪の花を咲かせている。側に立っている桜の木にはすっかりと青い葉が生い茂って、長い間土の中で時を過ごした蝉が明日は無いと言わんばかりに生命の限りを尽くして鳴いている。


 だがこれは人間にとっては耐え難い暑さであるのも事実だ。その暑さに、()()うるさく蝉に鳴かれては流石の久嗣(ひさつぐ)も勉強に集中できずにいた。仕方なく気分転換で散歩に出かけるため、本と学生帽を手に持って勝手口から庭に出ると、テラスの日陰になっている場所にイーゼルを持ち出して庭の向日葵を写生している陽子(はるこ)を見つけた。髪をひとつに結い上げて、白いブラウスにスカートという佇まいでいる彼女は、袴姿の時よりもずっと大人びて見えた。


「何を描いてらっしゃるのですか?」


 久嗣はほぼ無意識に彼女の方へ近づいて話しかけていたことを、声をかけてみて初めて気がついた。


 キャンバスに向かう彼女の左手に鉛筆が握られているのが目に入ると、これは月子(つきこ)の方だと認識した。


「お庭の向日葵を描いているんです。――一寸(ちょっと)ご覧になりますか?」


 そう言って丁寧な仕草でイーゼルを彼の方へ少し傾ける。久嗣がキャンバスを覗くとそこには、庭に咲いた大輪の花の群れが見事に収められていた。「お嬢様は絵がお上手なのですね」と言いながら久嗣の目が自然と柔らかくなる。それにつられて月子もふっと嬉しそうに笑みをこぼした。

 ふたりの視線が一瞬合った時にさあっと風が吹いて、イーゼルの角に置いてあった六角の鉛筆がデッキの上に落ちそうになった。

 「あ!」と一瞬久嗣が声を上げて、今まさに転がり落ちようとしている鉛筆を受け止めようと手を出したその時、月子も同じように転がり落ちそうなそれに白い手を差し出した。ふたりの伸ばした指先が一瞬ぶつかると同時に、彼は反射的に手を引っ込めてしまった。


「も……申し訳ありません……。出過ぎたことをしてしまいました」


 彼の素早い動きに一瞬驚きはしたものの、落ちついた表情で「――ふふ。以前にも同じようなことがありましたわね」と言う。


 以前は勉強を彼女の部屋で教えている時のことだった。その時の記憶も鮮明に蘇ってきて、思わず目線を黄色い花壇に移す。


 その間に鉛筆は自由落下の末、デッキに叩きつけられた。


 彼女は床に落ちた鉛筆を拾い上げると、折れてしまった鉛筆の先を残念そうに見た。少し間を開けてから「今日は日差しが強いですね」とこぼした。「本当に……」と返しながら、右の頬を左手の甲で押さえつけて熱を確かめる。そして、この頬が熱いのはこの照り付ける太陽のせいだと彼は自分に言い聞かせた。

 手の平で自分の頬を触りながら月子をさりげなく見ると、彼女も同じように手で頬の熱を拭っているところだった。


「あの――私は散歩に行ってまいりますので、御免くださいませ」


 軍人のように切れのいい一礼すると、月子から後ずさり、駆け足で庭を抜けて門のその先まで出て行った。その姿はまるで何かを払拭するように遮二無二走っているようだった。


 暫く走り続けて河原に植わっている柳の下で休むことにした。はあはあと上がった息をゆっくりと整えながら帽子を脱いで、今度はそれで自らを扇いだ。

 しばらく時間が経ってか息が整うと、川を流れていく小舟を見ながら「何か変だ」と独り言ちた。開いていた本に目を通すも、それには全く集中できず、時間だけが徒に流れていく。


 木陰に座っているうちに川が流れ、風も時間も流れたが、ざわついた彼の心の内の熱は依然としてそこにあり、一向に流れ去ろうとはしてくれなかった。


 またどれぐらいか時間が経って忙しなく鳴いていた蝉も落ち着き始める。日はまだ高いが、風が俄かに夕方のそれに変化しているのを感じた。遠くの空は少し暗くなり始めて夕立が来そうなことを予感させた。


 そろそろ屋敷に戻って放り投げて来た勉強の続きでもしようかと思い、持って来た本を懐にしまってから帰路に就き始めたそのとき、一台の自動車が久嗣を追い抜いたところで停車した。


「斎藤君?」


 そう声をかけられて窓から自動車に乗っている人物に目をやった。すると自分を呼び止めたのは和人(かずひと)だと分かった。


「浅見様! 先日はどうもありがとうございました」

「あぁ、君ならいつでも歓迎だよ。こちらも楽しい時間を過ごせて良かったしね。……君は今から家に帰るのかい?」

「えぇ、暑さのせいで勉強が捗らなかったものですから、川辺で涼しくなるまで本を読んで時間を潰していたのです」

「なるほどね」


 和人は目の前の少年が自動車に興味津々なことにすぐに気が付いた。なぜなら久嗣は和人と話をそこそこに合わせながら、落ち着かない表情で目線を車体へちらつかせていたからだ。


「僕も今から陽子さんに会いに行くのだけれど……君も乗っていくかい?」

「ええ⁉ よろしいのですか!」


 間髪入れず久嗣が乗りたいと言うものだから、和人も少々得意気になったのだろう。彼自身もまだ日本帝国にまだ数十台しかない自動車の所有者であるということを子供のように自慢する意味を含めて、彼を相乗りさせた。


「斎藤君はエンヂニアリングに興味があると言っていたからね――是非自動車から見える景色を堪能してくれ給えよ」

「ありがとうございます!」


 「お邪魔します」と開いたドアからよじ登るようにして車内に乗り込むと、汽車とは違う原動機から伝わる細かな振動、排ガスのにおい、高速で過ぎ去っていく景色。その全てを肌で感じながらはしゃいだ。


 無邪気にはしゃぐ少年の横顔を見ながら和人が口を開いた。


「斎藤君……君からみて陽子さんはどのように見えるかね?」


 和人は真剣な眼差しで久嗣の方を見ながら答えを待っているようだった。そこにはいつものような飄々とした様子はなく、ただ一心に第三者からの心の内を聞きたがっているようだった。


「僕から見るにお嬢様は美しい方で、優しい方だと思います。——僕のような者にも対等に接してくださいますし……。浅見様と仲睦まじい姿など拝見いたしますと、こちらまで微笑ましくなります」

「――そうか、それはありがたいね。君も知っての通り彼女は奇怪な病気のせいで女学校でも友人も少なくてね。中には狐にとり憑かれただの、祓い屋に頼んだ方がいいだの言ってくる輩が後を絶たないのだよ。しかし世は大正となってから久しい。僕たちは新しい時代に進んでいるというのに、そのような時代錯誤なことに縋るわけにもいかないだろう」

 

 熱く語る和人から久嗣は目が離せなくなっていた。そして雄弁に語る彼はそのままこう続ける。


「陽子さんの場合はまだ現代の医学で解明されていない病気で、いずれ克服することが出来るものだと信じているよ、僕は」


 久嗣は和人の人柄を勘違いしていたのだとはたと気づかされた。彼と話してみるまでは華族というだけで、周りにちやほやされて育った人なのかと思っていたが、考え方も論理的で気取ったところもなく、“紳士”というのはこういう人のことをさすのだろうと考え方を改めた。

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